蜂蜜と浸透圧


「こんにちは〜」
「リーゼちゃん、いらっしゃい」
 いつもの時間に、いつもどおり彼女が訪ねてくる。それをハインツは笑顔で迎える。
 最近、リーゼは仕事の合間によくハインツの店を訪ねてくれるようになった。ここでたわいないおしゃべりをしたり、店に並んだ珍しい品物を眺めたりして帰ってゆく。それだけでもハインツにとっては至福のひとときだった。笑う彼女を近くで見つめることが出来る。こんな嬉しいことがあるだろうか。
 ふと、少女の足元に目を落とす。華奢な足を包むのは、ハインツが贈った靴だ。かわいらしいデザインは、彼女にとてもよく似合っている。
 ハインツはこっそりと、店の奥の戸棚に目をやった。
 店の奥にある棚には、いろいろなものが収められている。かわいらしい髪飾り、繊細なつくりのチョーカー、異国のお菓子。それらはすべて、ハインツがリーゼのために買ってきたものだ。仕入れに出た先で、彼女に似合いそうなもの、彼女にあげたいと思うものを見つけるたびに買ってしまい、そのままこの棚に収められている。
 リーゼのために買ったものだから、彼女に渡したいと思うのに、そうできないのがもどかしい。
 いちばんはじめにあげた靴はもらってくれたけれど、それも遠慮がちだった。次から次へと贈り物を渡そうとしても、きっと彼女は困って受け取ってくれないだろう。もしかしたら、ハインツの店に訪れるのをやめてしまうかもしれない。そう考えると渡すことができなかった。
 この棚にあるもの達は、ハインツの心と同じだ。リーゼに渡したくて受け取って欲しくて、でもできなくて、行き場もなく閉じ込められて朽ちていくのを待っている。
 それでもそのまますべてを朽ちさせることは出来なくて、ハインツは棚からちいさな小瓶をひとつ取り出す。
「リーゼちゃん、よかったらこれ、食べてくれないかな」
「え? それ売り物なんじゃ……」
「ううん、これはお試し品。この間仕入れに行った村でね、もともとは放牧と農業が盛んな所なんだけど、最近養蜂もはじめたんだって。だから、ひとつ買ってみたんだ。もしもおいしいならこれから仕入れようかと思ってるんだけど、俺甘いものってあんまり食べないから、おいしいかどうかあんまりわかんないんだよね。だからリーゼちゃんみたいな若くてかわいい子に味見してもらいたいんだ」
 瓶に入っているのは、金色をした蜂蜜だ。ランプの灯りを反射して、瓶の中でとろりと揺れる。
「これだけじゃ駄目だね。ちょっと待ってて、こっちにビスケットがあるから」
 同じように戸棚から、リーゼのためにと買ったビスケットを取り出す。ジャムなどをつけて食べる甘さを抑えたお菓子は、きっと蜂蜜にも合うだろう。
「それなら、いただきますね」
 ビスケットに金色の蜂蜜をつけて、リーゼが一口食べる。
「おいしい!」
「本当に? じゃあこれから仕入れようかな」
 おいしいお菓子と蜂蜜に、年頃の女の子らしくリーゼの顔がほころぶ。それを見てるだけで、ハインツも嬉しくなる。
 戸棚にたまってゆく行き場のないものたちを、こうして理由をつけて彼女にほんの少し渡せるなら、それだけでいいのかもしれない。
「はい、ハインツさんも、一口食べてみてください」
 リーゼがハインツに、蜂蜜のついたビスケットをひとかけら差し出す。
 その行動に、ハインツは一瞬動きを止める。そのままの意味にとるなら、リーゼがハインツに手ずから食べさせてくれるということになる。リーゼにとって他意はないのだろう。無邪気で純粋な、夢の中にいる少女は、自分の行動の意味に気付いていない。
「──じゃあ、もらおうかな」
 動揺を悟られないように、そっとリーゼの指先に口を近づける。注意深くビスケットを口に含むと、ほんのわずか、リーゼの指先がくちびるに触れる。
「ね? おいしいでしょう?」
 リーゼは無邪気にハインツに微笑みかける。
 けれどハインツはそれにいつものように笑って答えることが出来なかった。蜂蜜が、甘い毒となって広がっていくようだ。触れたところから、全身に広がっていく。侵食される。
 あの戸棚にしまわれたものたちのように、冗談のように好きだと軽口を叩きながら、風化していくはずだった想いが、甘い毒に侵されてあふれ出てしまいそうだ。どうすればいいのだろう。苦しくて苦しくてたまらない。
 笑って欲しい。笑っていて欲しい。笑いかけないで欲しい。他の男にそんな笑みを見せないで欲しい。背反する想いが、ハインツの中に渦巻く。大切なひとのためなら、自分が犠牲になってもかまわないと思っていたはずなのに、分からなくなる。
 ハインツも、クラウスと同じように、リーゼの相手には王子達がいいと思っている。身分のことだけではなく、友人である彼らが、誠実で優しい人物だと知っているから。きっと彼らなら、迷うこともなく、リーゼの手を取ってまっすぐに歩いて行けるだろう。身分を考えないなら、あの幼馴染でもいい。素直じゃないけれど、誰よりも彼女のことを想い、彼なりに彼女を守ろうとしている。
 彼女にはちゃんとふさわしい相手がいると思うのに、自分ではふさわしくないと思うのに。それでいいと、それで彼女はしあわせになれると思っていたはずなのに。
「ハインツさん?」
 様子のおかしいハインツに、心配そうにリーゼが手を伸ばす。
 ハインツはその手を取ると、その指先にくちびるを押し当てた。甘い蜂蜜の香りがする。
「ハ、ハ、ハインツさんっ……」
 驚いたような、戸惑ったような声がする。
 早く逃がしてあげなければいけない。手を離してくちびるを離して、いつものように笑って冗談だよと言わなければ。本当にこの手を離せなくなってしまう前に。
「──冗談、だよ。あんまりリーゼちゃんがかわいいから、つい」
「……」
 ちゃんと上手く言えただろうか。声は震えてしまっていなかっただろうか。
 それでもハインツはリーゼの指先を離せずにいた。蜂蜜の甘い毒に侵されて、動けなかった。


 END.