Innocent kingdom


「ほわぁ〜、きれいな部屋ですねえ」
 ティバードで、ハインツが借りた宿を見て、リーゼは感嘆の声を上げた。
 宿というよりはアパートメントの一室のようだ。リーゼが考える宿といえば、簡素な部屋にベッドが置いてあるだけのものだが、ここは違う。キッチンやリビングもあり、ぱっと見ただけでもいくつか扉があり部屋が分かれている。
「宿じゃないみたい……」
「ん。そうだね、宿というよりは短期契約のアパートメントみたいな感じかな。ここは港町だからね。長期滞在する人のために、こういう宿も多いんだよ」
「そうなんですか〜」
 感心しながら、もう一度部屋を見渡した。
 西方に旅に出るというハインツについて来たリーゼだが、旅をするのも国外に出るのも初めてだ。当然こんな宿に泊まるのも初めてだ。
「じゃあ、リーゼちゃんはこっちの部屋使ってね。俺はこっち使うから」
「あ、はい」
 いくつかある扉のひとつを示される。
 中に入ると、部屋には大き目のベッドと、簡単なテーブルセットがある。よく見ればクロゼットもついていて、本当に普通の家の一室のようだ。
 荷物といっても、ちいさなトランクひとつだけだ。整理などすぐに済んでしまう。荷物を置いてリビングへ戻ると、リーゼは他には何があるのか部屋を見て回ることにした。
 入り口から入ってすぐの扉は浴室とトイレになっていた。華美な装飾などはないが、機能的できれいに掃除されている。キッチンには、調理道具と調味料がそろっていた。棚には食器も一通りそろっている。下には食堂もあったが、長期に滞在する人はここで料理を作ったりもするのだろう。リビングに置かれたソファもやわらかく座り心地がいい。きっと上質なものなのだろう。
「どうしたの、リーゼちゃん」
 部屋から出てきたハインツが、リーゼに声をかける。
「あの、ティバードには長く滞在する予定なんですか?」
「んー特には決めてないんだけど。どうしたの? もう帰りたくなった?」
「違います。でも、こういう宿って高いんじゃ……」
 旅をしたことなどないリーゼだが、ここが普通の宿より高いだろうことは簡単に想像がつく。長期滞在して、食事などを自分で作るというのであれば割安になるかもしれないし、暮らしやすいのかもしれないが、そうでないのなら普通の宿を取ったほうが安くすむだろう。
「そんなこと、リーゼちゃんが気にしなくていいんだよ」
「でも、あの、船のお金も全部ハインツさんに出してもらってて……」
 旅に出るというハインツについてくる形になったリーゼだが、旅費や必要なものを買うお金はすべてハインツが出してくれていた。働き始めたばかりのお針子であったリーゼに蓄えなどほとんどないし、ハインツはもともと貴族で裕福だということは聞いていたが、それでもそれに甘えてしまうのは心苦しい。
「もし私のためだったら、私、こんな素敵なところじゃなくて平気ですよ。もっと小さい宿でも──ハインツさんと一緒の部屋でも全然かまいませんから!」
「いや、それ俺が大丈夫じゃないから……。この宿にしたのだって、俺の理性のためだしね」
「?」
「なんでもないよ。本当に、そういうのリーゼちゃんが気にしなくて大丈夫だから」
「そう、ですか?」
「そうそう。俺はリーゼちゃんが今ここに一緒にいてくれるってだけですごく嬉しいんだから」
「…………」
 ハインツはわずかに頬を染めて、微笑みながら言う。
 その言葉が嘘だとは思わない。でもわずかな違和感がある。ちいさな棘がリーゼの胸に引っかかる。
『今ここで、リーゼちゃんと語り合っているしあわせが、壊れませんように』
 かつてハインツが言っていた言葉だ。あのときは深く考えずに流してしまったけれど。
 時折ハインツは、まるでいつかリーゼが離れていくと思っているようなことを言う。──違う。ここが『嘘』の世界で、いつか、夢から覚めるように消えてしまうと思っているようなことを言う。
(そんなこと、ないのに)
 彼がそんな風に思う原因は、やはり子供の頃の誘拐事件のせいだろうか。小さい頃に殺されかけたせいで、この世界に現実感が持てずにいるのだろうか。そう思うと、苦しくなる。
「せめてお料理が出来ればよかったんですけど……」
 キッチンがついているのだから、自炊をすれば多少の節約になるだろうし、ハインツにおいしい料理を振舞ってあげたいところだが、あいにくとリーゼには振るう腕がなかった。
「やっぱり、師匠のところのメイドさんに、お料理習っておけばよかったです」
「え?」
「師匠のところに来ていたメイドさんって、ものすごく料理上手だったんですよ。なんでも、昔は王宮で料理を作っていたこともあるそうなんです。だから教えてもらいたいなって言ったら、師匠がそんな必要ありません、って。玉の輿に乗って、メイドのいるようなお屋敷に嫁げばいいんです、もし何かあったら、即離縁です、私が連れ戻しますって。本当に、パパみたいですよね」
 王都での生活を思い出す。師匠の所に滞在していたのは、ほんの数ヶ月だ。そのあとすぐに師匠がどこかへ行ってしまい、リーゼもハインツと共に旅に出た。それでも、とても楽しい日々だった。そんなに昔のことではないのに、なんだかひどく懐かしく感じる。
「そっか……」
 どこか寂しげに、ハインツは笑う。笑っているのに、とても哀しそうだ。リーゼがクラウスの話や故郷の話をするとき、彼はこんな顔をすることがある。
 理由は分からないが、ハインツにそんな顔をさせてしまうことがつらくて、リーゼは必死に話を続ける。
「あ、の、ごめんなさい。でも、あの、ホットケーキくらいなら作れますから」
「本当? ぜひ食べたいな、リーゼちゃんのホットケーキ」
「はい! 今度作りますね」
「嬉しいなあ」
 言葉と共に、頬に軽いキスが落とされる。子供がするような、触れるだけのたわいないものだ。
 それでもそれだけでリーゼは赤くなってしまう。
「ハ、ハインツさん……」
「ん?」
 一緒に旅に出てから、ハインツはこんなふうに触れてくることがたびたびあった。そのどれも、この程度の軽いものではあったけれど、そのたびにリーゼは動揺してしまう。からかわれているわけではないのだろうけれど、その余裕がハインツとの差を見せられているようですこし悔しい。
(たしかにハインツさんとは、10歳も違うんだけど……)
 ちいさく頬を膨らませるリーゼに、ハインツは困ったように笑う。
「これくらいは、頑張って我慢してる俺に免じて、許して欲しいな」
「? 何を頑張ってるんですか?」
「さあ、なんだろうね」
 時折ハインツの謎かけのような言葉にリーゼはついていけない。追求しようとしても、うまくはぐらかされてしまう。
 それもいつかは、全部分かるようになるのだろうか。全部、つらいことや苦しいことも、話して頼ってくれる日が来るのだろうか。
(はっ。私がこんな弱気になってちゃダメだよね)
 リーゼはハインツの『薬』になると決めたのだから。ハインツが信じてくれなくても、リーゼはハインツとずっとずっと一緒にいたいと思っているのだから。
 これからはずっと一緒にいるのだ。十分時間はある。いきなりは無理でも、これから少しずつ、分かって、近づいていけばいいのだ。
「私、お茶入れますね」
「うん、ありがとう」
 リーゼは笑って、キッチンへと向かった。



 ちいさな声が聞こえた気がして、リーゼは目を覚ました。
 あたりは暗く、しんと静まった空気がまだ深夜であることを教えてくれる。リーゼは手探りで、ベッドサイドに置かれたちいさなランプに灯りをともした。ほのかな光に、部屋の中がぼんやりと照らし出される。
 聞こえた声を探すように耳をすます。けれど何も聞こえない。それでも何か気になって、リーゼはランプを持って部屋を出た。
「ハインツさん?」
 隣の部屋の扉を軽くノックをしても返事はない。耳を澄ましても何も聞こえない。
 昔、黒い森に置き去りにされ泣いていたハインツを、聞こえない距離にいたはずの魔法使いがその声を聞いて助けに来てくれたのだという。リーゼにそんな力はない。でも今、何故かその話を思い出した。聞こえないけれど、ハインツが泣いているような気がした。
 失礼かとは思いながらも、リーゼはハインツの部屋のドアをそっと開けた。
「う……」
「ハインツさんっ」
 苦しがってうめくような声が聞こえて、リーゼはベッドの傍らに駆け寄った。
 ベッドで眠っているハインツはうなされていた。全身に冷や汗をかいている。
「誰か……たす……」
 言葉はちいさく聞き取りづらいが、ハインツは助けを求めているようだった。昔、黒い森に置き去りにされたという夢を見ているのかもしれない。今もなお、彼はこんなにも苦しんでいるのだ。
 ハインツへと手を伸ばしかけ、けれどリーゼはその手を途中で止めた。
 起こしてしまうのは簡単だ。でも、それでは根本的な解決にはならないだろう。そして、目を覚ましたハインツも、きっと、大丈夫だよ、起こしちゃってごめんねと言いながら、無理をしてリーゼに笑って見せるに違いない。そんな風に無理をさせたいわけではないのだ。彼を助けたいのだ。
 意を決すると、リーゼはベッドサイドにランプを置いて、ハインツに寄り添うように横になり、眠っている彼の頭を抱きしめた。
「大丈夫です……あなたはひとりじゃないから……私がいますから」
 魔法の力が欲しいと思った。もしリーゼに魔法の力があれば、今なら母の病気を治すことではなく、ハインツの夢に入っていって、怯える子供を抱きしめてあげるのに。
 眠りを妨げないように、けれど胸に抱え込むようにハインツを抱きしめる。そっと赤銅色の髪を撫でると、心なしかハインツの表情が和らいだ気がする。
 眠っていても、触覚や聴覚などは完全に止まっているわけではなく、機能しているのだときいたことがある。だから、病気で眠っている人などに対して、手をしっかり握り締めたり、呼びかけたりする治療法もあるのだそうだ。そう教えてくれたのは、医者を目指す幼馴染だったろうか。
「ハインツさん……私があなたのお薬になります……ずっと、あなたが寂しくないように、ひとりにならないように……ずっと傍にいますから……」
 祈るように誓うように、眠っているハインツに語りかける。夢の中の黒い森で、怯えて泣いている子供へ届くようにと。
「大好きです……」
 ハインツの額に、おまじないのようにくちづける。
 そしてもう一度ハインツの頭を胸に押し付けるように抱きしめると、急に抱きしめ返された。
「!?」
 確かな意思を持って、ハインツの腕がリーゼの腰に回されている。
「ハ、ハ、ハインツさん……」
 甘えるように、胸に頭をすり寄せられる。いつの間にか、ハインツは目を覚ましていたのだ。
 ハインツは眠っていると思っていたのに──眠っていると思っていたからこそ、こんな恥ずかしいことも出来たし、あんな恥ずかしい台詞も言えたのだ。
 真っ赤になって逃げようとするリーゼを、逃がすまいとするかのように、ハインツの腕の力が強くなる。けれど、それはどこか小さな子供が母親にすがるのに似ていて──リーゼは逃げるのをやめた。
「……夢の中でね、黒い森の谷に、助けが来たよ」
 ちいさな声で、ハインツがつぶやくように言う。やはり彼は、黒い森の夢を見ていたのだろう。
「助けてくれたっていう魔法使いですか?」
「現実の世界だと、そうだったんだけどね。夢の中だと、いつも助けは来なかったんだ。暗くて寒い森の中で、ずっとひとりきりで、俺はだんだんと動けなくなっていくんだ。でもね、今日は……助けが来てくれたよ」
 リーゼの腕の中で、ハインツは穏やかに目を閉じている。さっきの苦しそうな様子は今はもうない。それに安心して、リーゼはハインツの髪をそっと撫でた。
 ハインツが、リーゼの胸から顔を上げる。淡いハシバミ色の瞳が、リーゼを見つめる。
「ずっと俺の傍にいてくれる?」
「はい……」
 まるで自然に、ハインツの顔が近づいてくる。優しいくちづけを、リーゼは当然のように受け入れていた。
 くちづけるのははじめてではない。ここに来るまでの旅の途中で、何度か戯れのようにくちづけられたことがある。でも今まで、それ以上はなかった。
 ハインツの手が、リーゼの肩をなでる。明確な意思と熱を持つ手だ。
「君に、触れてもいい?」
 リーゼはちいさく頷くことで答えを返した。
 ハインツは微笑むと、肩に触れていた手をそっと滑らせて、リーゼの腕を取って自分の背中に回させた。
 顔が近い。間近で覗き込まれる瞳は、静かな熱を孕んでいる。
 ハインツはいつも穏やかに笑っていた。でも、いつもその奥に、こんな熱を孕んでいたのだろうか。それを抑えつけて、微笑んでいたのだろうか。
 着ている寝間着は、露出が多いわけでも生地が薄いわけでもない。それでも一枚きりの頼りなさで、いくつかボタンを外されるだけで、すぐに肌があらわになってしまう。
 いい意味でも悪い意味でも、リーゼの体はまだ未発達だ。ハインツが女たらしという言葉を今も信じているわけではないが、彼は大人だから、やはりそれなりに経験があるのだろう。見知らぬ誰かと比べられるのは怖い。比べられて、落胆されるのが怖い。
 ハインツの指が、手のひらが、リーゼの体をたどる。
「あ……」
 思わずリーゼが怯えたように小さく声を上げると、それに驚いたようにハインツは手を離した。その行動に、逆にリーゼのほうが驚いてしまう。
「あ、あの、わ、私……」
 こんなときどうすればいいのかリーゼには分からない。
 ほんの少し怖くはあるけれど、嫌なわけではないのだ。でもそれを、どう伝えればいいのか分からない。どうすればいいのか分からない。
 そんなリーゼを見て、ハインツは小さく笑う。
「ダメだね、俺。リーゼちゃんに触れるのに、緊張しちゃって」
 リーゼの前に差し出された手は、わずかに震えているように見えた。ハインツも、リーゼと同じように怖いのだろうか。
「まだ分からないんだ。何が君にとっていちばんいいのか、これで本当にいいのか」
 それは、以前にも何度かされた問いかけだ。ハインツは、自分を犠牲にしてでもリーゼのしあわせを望んでくれる。それほど強く想ってくれている。でも、そうではないのだ。それはリーゼの望みではないし、それではリーゼはきっとしあわせになれない。
「ハインツ、さん」
 リーゼは震えるハインツの手を、自分の両手で包み込んだ。
 包み込むと、手の震えがはっきり伝わってくる。あるいは、震えているのはリーゼなのかもしれない。ふたりともなのかもしれない。
「私だって、何がいちばんいいのかなんて、分かりません。でも……、私はハインツさんが好きで、ずっと一緒にいたいと思ってます。だから……」
 抱いて欲しいという言葉は言えずに、声はちいさく消えてしまった。恥ずかしくて、ハインツの顔を見られない。けれど気持ちはちゃんと伝わっただろう。
 包み込んでいた手を、やわらかい力で握り返される。
 ハインツの手は、もう震えていなかった。逆に、震えるリーゼをなだめるように、優しく手を握り、額にくちづける。
「ホント、俺はリーゼちゃんに助けられてばっかりだ」
 優しい声に顔を上げると、熱を孕みながら優しく見つめるハインツの顔があった。
 眼鏡を外したハインツは、いつものやわらかい表情より少しだけ精悍な印象になる。間近にある顔に見とれているうちに、くちづけは額からまぶたや頬をたどって、くちびるに落とされる。軽く下唇を噛まれて、痛くはないが驚いてわずかに口をあけると、噛まれた下唇をあやすようにちいさく舐められたあと、口内に舌が入ってきた。
「ん……」
 ぬめる感触に、リーゼは反射的に口を閉じようとするのに、強引な舌がそれを許さない。自分のものではない舌に、口内を探られる。まるで食べられるかのように、深くくちびるを合わせて内部に触れられる。
 暴かれる感覚に、リーゼの体は無意識にこわばる。ハインツはそれに気付いていながら、深いくちづけをやめようとはしない。
 けれど不意に、リーゼは体の力を抜いた。自分から軽く口をあけて、ハインツの舌を迎え入れる。恐る恐る、けれど自分の意思で、もういちどハインツの背に腕を回した。
 自分で自分の言葉を思い出したからだ。
 抱かれるのは怖い。暴かれるのは怖い。でも、リーゼはハインツが好きで、ずっと一緒にいたいと思っている。今必要なことも、大切なことも、多分それだけだ。
 リーゼが力を抜いたのが分かったのか、ハインツのくちづけが優しくなる。そのままくちびるは首筋をたどり、胸元に落とされる。時折強く吸われて痛いくらいなのに、その触れ方は、ひどく優しい。肌をたどる手も、その強さとは裏腹に、触れていいのか確かめるようにそっとたどっていく。
 それがもどかしくて、リーゼはハインツの背に回していた腕に力を込めた。何もつけていない肌が密着する。互いの肌の感触が、隠された熱が、伝わってくる。伝わる熱にわずかに怯えるけれど、リーゼは腕をゆるめなかった。
「駄目だよ、そんなに煽ったら」
「え、──っ」
 肌をたどっていた手が、不意に足に触れた。腿をたどって、その中心へと触れる。
「や、あ、ハインツ、さ、ん」
 目の前にいる人に、助けを求めるようにすがりつく。今リーゼを追い詰めているのはハインツだけれど、同時にすがりつくのも彼だけだ。
 長い指が中を探ってうごめく。それと同時に、怯えるリーゼをなだめるように、何度も頬やまぶたにくちびるが落とされる。リーゼは自分から顔を近づけて、くちづけをねだった。
 くちづけの途中に、ハインツの指が引き抜かれて、リーゼはわずかに身を硬くする。足に触れる、ハインツの熱に気付いていた。
 くちびるを離して、ハインツが間近で顔を覗き込んでくる。
 優しい瞳だ。そして、その奥に熱を孕んでいる。なのに──どこか迷うような、哀しそうな色も見える。
 だから、リーゼはハインツに微笑んだ。
「ハインツさん、大好きです」
 一瞬驚いたような顔をして、それからハインツも微笑む。
「愛してるよ、リーゼ」
 まるで、祈る儀式のように、ハインツはもういちどリーゼにくちづけた。
 それと同時に、下肢に、ハインツの熱が入り込んでくる。最奥まで押し込まれて、リーゼは痛みと苦しさに息を吐く。その息すら、ハインツに飲み込まれる。
 そのまま激しく揺さぶられて、リーゼはハインツの背に回した腕に力を込めた。
「ひゃ、あ、あっ、や」
 動かされるたびに、リーゼの口からは意味を成さない音が吐き出される。それと共に聞こえる水音が、羞恥をあおる。
「リーゼ、リーゼ」
 ハインツも、まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのようにリーゼの名を呼ぶ。
 絡まるように抱きしめ合って、隙間なんてないくらいにどこも触れ合って、深く深くつながりながら、リーゼはハインツの熱を受けとめた。
「────っ」
 達する感覚に、体が痙攣するように震える。
 荒い息がだんだんと収まるのを待って、ゆっくりとハインツは体を離した。絶頂の余韻でかすむリーゼの視界に、心配するかのようなハインツの顔が映る。
 ハインツへと手を伸ばすと、ハインツがその手を取って指を絡める。
 神様なんていないと思うのに、その絡めた手は、まるでふたりで神様に祈っているみたいだと思った。
 リーゼと額を合わせ目を閉じて、ハインツがちいさく呟く。
「このしあわせが、いつまでも続きますように」
「────」
 ハインツが繰り返す願い。この『嘘』の世界が、壊れないようにと、彼は繰り返す。
 何故彼が『嘘』などと言うのか分からないけれど、リーゼに出来ることはひとつだけだ。
「私はずっと、ハインツさんの傍にいます……」
 今は、この腕の中だけが、リーゼの居場所だ。もう他にどこへも行けない。どこにも行かない。
 リーゼはそっと目を閉じる。優しいくちびるが落ちてきて、もういちどキスをした。



 リーゼがまどろみから目を覚ますと、当然のようにハインツの腕の中だった。あるいは、ハインツがリーゼの腕の中にいるのかもしれない。しっかりと抱きしめ合って眠っていた。
 一瞬、自分の置かれている状況が分からずに混乱する。けれどすぐに思い出した。顔が赤くなる。
 恥ずかしいので、先に起きようとすると、ハインツの腕の力が強くなる。一瞬、彼が起きたのかと思うが、そうではないようだ。無意識に、リーゼがどこへも行かないようにと抱きしめたらしい。
 ハインツはまだ眠っている。その顔は穏やかで、きっと怖い夢は見ていないのだろう。そのことに安心する。
 リーゼは体の力を抜く。ハインツの背に腕を伸ばして、抱きしめる。
 この世界が『嘘』だとしても、『夢』だとしても、ずっとずっと続けばいい。壊れることなくそれが永遠に続けば、きっと『本当』になるから。
 触れ合うぬくもりがあたたかく優しい。規則正しい寝息を聞いていると、リーゼもまた眠りに引き込まれていく。
 誰も起こしに来る人はいない。もうすこし一緒に眠っていてもいいだろう。そして目が覚めたら、ホットケーキを焼こう。リーゼがほぼ唯一まともに作れる料理だ。
「ハインツさん……大好きです」
 ちいさく呟いて、リーゼは再び優しい眠りに落ちていった。


 END.