intermission / silent noise


 暦の上ではもう春だというのに、雪深いこの村ではそこかしこに解け残った雪がある。吐く息が白くなるほどではないが、空気もまだひんやりと冷たい。それでも、かすかに春の訪れを告げるように、雪の間から小さな芽が出ていたり、木の枝の先にひとつふたつ咲いた花を見つけることが出来た。
 ハインツは、雪解けでぬかるんだ道を歩きながら、街のはずれにある教会を目指した。物言わぬ人形のような、けれど愛しい少女がいる、その場所を。
 歩く道の先に目をやれば、春のゆるい陽射しを受けて輝く教会の屋根の十字架が見える。ハーデン村の教会は、規模こそ小さいものの、田舎には不釣合いなほどに立派な建物だ。──あの『事故』で壊れた教会を、国が丁重に、存分に金をかけて建て直してくれたのだろう。事実の隠蔽と、秘密の保持と引き換えに。そしておそらく今も教会には、王家から十分な援助金が支給されているのだろう。
 それは、彼女にとってはある意味不幸中の幸いだったのかもしれない。
 身寄りのない孤児を教会が引き取るのはよくあることだが、ある程度の年齢になれば教会を出て働くか、あるいは神官などの役職につくのが普通だ。彼女のような状態の者の面倒をずっとみるというのは難しい。神に仕える教会を名乗るのだから、売り飛ばすようなことはないにせよ、普通だったらもっと扱いがぞんざいになっていただろう。
 だが彼女は十分に手厚い保護と介護を受けている。王家から渡される潤沢な資金と、『事故』の被害者への口止めを兼ねた手厚い保護の命令が、彼女の身を保障していたのだろう。
「こんにちは」
 ハインツが荘厳な扉を開けて教会に入ると、厳しい顔をした神官が出迎える。
「……貴殿か」
「今日、これから王都に戻るので、ご挨拶に来ました」
「…………」
 神官は、複雑そうな顔でハインツを見つめる。
 王都に戻るとは言っても、それはあのひとを連れてくるためで、すぐにまたここに戻ってくる旨は伝えている。そして、彼女を引き取りたいということも。神官は、それにどう対応すればよいのか悩んでいるのだろう。それがどんな結果をもたらすか分からないから。それがよいことなのか分からないから。
 このいつもいかめしい顔をしている神官は、理不尽で哀しい運命を背負わされてしまったあのひとや、『事故』で傷を負った者達のことを、心から心配している。『事故』を隠蔽しているのも、王家の命令だからだけではなく、真実を公表することでさらに傷付く者が出るのを憂いているのだろう。
 神官に挨拶を済ますと、ハインツは教会の片隅に向かった。
 美しいステンドグラスが鮮やかな色を落とすその隣に、少女は昨日と同じように座り込んで、何をするでもなくただそこにいた。今日だけでなく、明日も明後日も、その先も、このままなら何も変わることはないのだろう。
「やあ、こんにちは」
 ハインツは少女の正面に座って、その顔を覗き込んで挨拶をする。けれど少女に反応はない。その瞳は何も映さない。ハインツを見ない。鮮やかな蒼い瞳は暗く濁って、絶望だけを映している。
 それでもハインツは少女に話しかける。
「きれいな色の髪だね。君にだったら、どんな髪飾りが似合うかな……」
 少女の髪を、一房手に取る。今回は情報収集だけのつもりで来ていたから、商品が何も手元にないことが悔やまれた。ゆるく波打つ長い髪は、淡い金茶をしている。きっと明るい色の髪飾りが似合うだろう。服も黒ではなく、もっと華やかなものを着たら、どんなにかわいらしいだろう。

 そうして、笑顔を見せてくれたなら。

 少女の手を取る。ちいさな手。外に出ることも、何をすることもないその手は、病的なまでに白く細くなってしまっている。何かを掴むことを、望むことをやめてしまった手。すべてはその白い指の隙間から、こぼれていってしまう。
 春のはじめとはいえ、今日は少し冷える。石造りの、教会の片隅にずっと座り込んでいるならなおさら。真冬なら暖炉に火がともされるのだろうが、3月も終わりのこの時期に火をたくことはないようだ。握り返されることのない少女の手は、冷たくなっていた。
 ハインツは、その手を守るように包み込む。ほんのすこしでも、ぬくもりが伝わればいいと、望みながら。
「一度、王都に帰るよ。でもまた、すぐに迎えに来るよ」
 本当なら、このままさらっていってしまいたい。けれどそれでは、彼女のために何も出来ない。
「俺じゃ駄目だろうけど……あのひとなら、君を助けられるかもしれないから」
 神官が心配しているように、それがどんな結果をもたらすのか、ハインツにだって分からない。あのひとにとって、この少女にとって、それが本当にいいことなのかも。もしかしたら、再び逢うことで傷を抉るだけになってしまうのかもしれない。
 それでも無理に彼女をここから連れ出そうとするのは、ハインツのエゴだ。
 ただ、愛しい少女の笑顔が見たいという、身勝手な願望。
 その暗闇から救いたい、しあわせになって欲しい、笑顔を見せて欲しい。そのためになら、ハインツはなんだってするだろう。
「──君が、好きだよ」
 だから、どうか。
 誓うように少女の指先にくちづけて、ハインツは祈る。
 この声が、この想いが、ほんのわずかでも、君に届きますように。



 あの方の使いだという男が去ったのを見て、教会を取り仕切る神官は、ちいさく溜息をついた。
 十年という時が経ち、街も人も変わった。それでも『事故』の傷跡は、まだそこかしこにある。特に、人に──心についた傷は、いまだに癒えぬものが多い。いくら王家の命令で、多くの金が渡されているとはいえ、これほどまでに徹底して口止めが出来ているのは、村の者達もそれを口に出したくないと思っているからだ。あれは本当に『事故』だったのだということにして、忘れてしまいたいと思っているのだろう。それほどに、凄惨な事件だった。
 事件にかかわった者達の多くは、神官にとって身近な者達ばかりだ。
 王家に『白の魔女』と呼ばれた娘は、この教会で育てられた。成長し家庭を持ったあとも、この教会で孤児の世話をしてくれた。神官にとっては、歳の離れた妹か娘のような存在だった。当然、その息子であるあの方のことも、生まれたときから知っている。
 10年前の『事故』で命を落とした青年と、5年前に心を病み自ら命を絶ったその妻は、この教会で式を挙げた。子供が生まれたときは、ここで神官が祝福を与えた。笑顔のかわいい、明るく元気な娘だった。
 誰もが、しあわせと笑顔に満ちていた。──あの『事故』が起こるまでは。
 時間は戻せない。失った命も還らない。それなら、生き残った者達がこれから先、少しでも穏やかにしあわせに生きてくれることを願うばかりだ。
 神官は、心を閉ざしてしまった少女に、哀れみの目を向ける。
「──?」
 そこにいる少女の様子がいつもと違い、神官は不思議に思う。
 教会の片隅で、何をするでもなく座り込んでいるところは変わらない。けれど、いつも空虚を見つめていた瞳が、下に落とされている。その目に光は戻っていないものの、それでも、少女は自らの手を見つめていた。
「……どうした? 手がどうかしたのか?」
 神官が尋ねるも、少女は何も答えない。何の反応もない。神官の声は、きっと心を閉ざしてしまった少女に届いてないのだろう。
 もう一度、ちいさく溜息をつく。
 少女に変化があったような気がしたが、気のせいだったようだ。何もない場所を見ていた瞳が、今は自分の手を見ているというだけで、別段変わったことはない。たまたま視線が下に落とされ、手を見つめているように見えるだけで、今までと何も変わりはないだろう。
 これからもう一度あの商人とあの方が来て、この娘を連れて行ったら、何かが変わるのかもしれない。それがいいほうへ変わるのかそうでないのかは分からない。ただ、今はまだ何も始まっていない。変わっていない。まだ、何も。
 神官は少女をその場に置いて、いつものように教会の勤めを果たすためにその場を離れていった。
 だから、他に誰もいなくなった教会の片隅で、何かを望むことをやめてしまったその手が、何かを掴もうとするかのようにちいさく握り締められたことに、誰も──あるいは、リーゼロッテ本人さえも、気付かなかった。


 END.