幸福ソリチュード


 城の敷地の端に建てられた塔を訪れる者は少ない。
 クラウスの食事を運ぶのと身の回りの世話をするために侍女が日に数度やってくるのみだ。それも、侍女は無言で用事を済ませるとさっさと塔を出てしまう。まるで伝説の魔女を恐れているかのように──実際、怖いのだろう。魔女の伝説を知らなかったとしても、両目を潰され幽閉されている男など、気味悪く近寄りたくもないだろう。
 時折使い魔がやってきて、彼女の動向を伝えてくれることもある。本当にまれに、皇太子──今は国王となった男やその侍従がやってくることもある。それ以外誰が来ることも、何をすることもなく、ただひとりで過ごす。
 それをつらいと思ったことはない。クラウスにとって必要なものは、『今』でも『未来』でもない。必要なものは、記憶の中にある、彼女と過ごしたほんのわずかな日々だけだ。見えない瞳に、繰り返し繰り返し微笑む彼女を映し出して、幸福に浸る。それだけでいいのだ。
 窓近くに置かれた椅子に腰掛けたクラウスは、窓から入る風を受けていた。風がやわらかくあたたかい。外の世界は、春に満ちているのだろう。寒暖や外から入ってくる風の匂いで季節を知ることはあっても、それに何も感じなくなった。もう時を数えるのもやめた。だから、ここに来てから正確にどれだけの月日がたったのか、クラウスには分からなかった。
「パパ! 見て見て、ここ、きれいなお花がいっぱい咲いてる!」
 不意に、塔の下から、軽い弾むような足音と、かわいらしい子供の声が聞こえた。
 珍しい闖入者に、クラウスの意識は引き寄せられる。ここに子供が来るなど、今までないことだった。城の一部は一般に開放されているとはいえ、ここは立ち入り禁止の区域だ。迷子という様子でもない。王族や王宮に出入りできる者達でも、こんな場所へは滅多にやってこない。
 それに、クラウスには分からなかったが、子供の言葉からすると、塔のまわりには花が植えられていたようだ。風の強い日などにかすかに感じる芳香はそれだったのだろう。彼が塔に入ったときには、まわりに花などなかったはずだ。使い魔が植えたのか、それとも皇太子が彼を哀れんで植えさせたのか──。
「ああ、そうだね、とっても綺麗だね」
 子供の声に続いて聞こえてきた声に、クラウスは驚く。
 聞き覚えのある声だ。かつて、仕事の取引相手であり、自分の部下として情報を集めてきてくれた男の声。──そして、今は彼女と共にいる男の、声。
「すごいね、パパ。お城のこんな秘密の場所知ってるなんて。ねえ、お花ちょっと摘んじゃダメかなあ。とってもきれいだから、ママに持っていってあげたいの」
「そうだね。きっと喜ぶよ。でもたくさん摘んじゃったらダメだよ。ひとつだけ、ね」
「ひとつ? じゃあ、いちばんきれいなお花探す!」
 見えもしないのに、クラウスは引かれるように窓辺に寄った。
 窓には薔薇と蔦をモチーフにした複雑で細かい模様の格子が入っている。一見すると美しい装飾のようだが、実際は、クラウスが逃げられないようにするためのものであり、外から彼の姿が見えないようにするためのものだ。
 クラウスは外を見ることが出来ない。外からも、格子に阻まれてクラウスの姿は見えないだろう。それでも、男が見上げているのを感じる。彼はきっと、こちらを見ている。
 おそらくは、わざと子供をここへ連れてきたのだろう。見ることは出来なくても、会うことは出来なくても、彼女のしあわせを、伝えるために。
 やさしい風が吹く。元気に走り回る、小さな足音が聞こえる。
「パパ、これにする! このお花!」
「ああ、綺麗だね」
「うん、ママにあげるの、元気な赤ちゃんが生まれますようにって!」
 見えないクラウスの目に、それでもその光景は見えるような気がした。
 きっと、彼女によく似たかわいらしい子供が、頬を紅潮させて、満面の笑みで花を持っているのだろう。優しい両親と、もうすぐ生まれてくる兄弟。誰からも惜しみない愛情を注がれて、元気に育っているのだろう。かつての彼女のように。
「さあ、戻ろうか。ママも、みんなも待ってるから」
「うん!」
 男が子供を抱き上げたのだろう。ひとり分の足音がゆっくりと遠ざかってゆく。
 きっと優しい陽射しのあふれる城のテラスでは、大きなお腹を抱えた彼女が、王子や姫たちと一緒に歓談しながら、愛する夫と子供が来るのを待っているだろう。淡い綺麗な色のドレスをまとって、笑っているに違いない。何の哀しみも、何の苦しみもない。すべてを忘れたまま、しあわせに満ちて。
 クラウスは、くず折れるように膝をついた。もう見えなくなった瞳から、涙があふれる。
 嬉しくてしあわせで、それと同じくらい苦しくて。
 こんな姿を見たら、きっと使い魔は馬鹿なひとだとあきれるのだろう。
 それでも、彼女はクラウスの太陽なのだ。この見えない瞳に、光を与えてくれる。まぶしくてまぶしくて、想うたび、焦がされてしまいそうになるけれど。──いっそ、灰も残らないほど焼き尽くされたら、楽になれるのだろうか。
「……リーゼロッテ……」
 誰にも届かない声に応えるように、やわらかな風が窓から入り、男の白い髪をそっと揺らした。
 誰もいない塔で、ひとり涙を流し続ける男を、そっと慰めるかのように。


 END.