Ave Maria <アヴェ・マリア> -3-
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「──彼女は、妊娠していたと思われます」
優秀な老医師は、ただ淡々と、何の感情も込めない声音で事実だけを述べた。
怪我を負った彼女を軍属の病院に運ぶわけにはいかず、馴染みの信頼できる老医師のところへ運び込んだ。
長時間に及ぶ手術のあと、老医師は彼女の容態を彼に説明した。
人体錬成の代償に、何がどれだけ必要かなんて知らない。
けれど彼女は、身体のあちこちを持っていかれていた。外側だけでなく、内臓や神経の一部も持っていかれていた。
機械鎧や人工臓器で補うにも限界がある。おそらく以前と同じようには生活できないだろうと告げられた。
それでも、彼女が生きているだけでよかった。
そして、その最後に、老医師は言ったのだ。
「──────」
ただ呆然と、言葉を失う。
誰の子かなどと考えるまでもない。
彼の子供だ。
彼女の胎には、彼の子供が宿っていたのだ。
そこまで来て、ようやく彼は、すべての真実に辿り着いた。
すべてのピースは揃い、その姿を現わした。
何故彼女が突然抱いて欲しいなどと言い出したのか。
抱かれながら、何を想っていたのか。
何を望んでいたのか。
分かったつもりでいて、それはすべて『つもり』でしかなかった。
本当は、なにひとつ、分かっていなかった。
今やっと、すべてを知った。
──すべては、遅すぎたけれど。
彼女がただひたすらに望み続けたことは、弟の人体錬成。鎧の身体になってしまった彼に、もとの肉体を与えること。
けれどすでに一度失敗し、それがどれほど困難なことか、彼女はよく分かっていた。
だからこそ、それを可能にするかもしれない幻の石を求めて、長い間苦しい旅を続けていたのだ。
だが、賢者の石は、彼女の望みを叶えはしなかった。
材料が複数の人間だという石を作れるはずがなかった。また、賢者の石を使ったとしても、完全な人間を作ることは不可能だった。『石さえ手に入れば』という望みは絶たれてしまったのだ。
だから彼女は、違う方法を考えた。
彼女の弟は、もとの肉体を失い、今は『鎧』という媒体に魂を定着させている状態だった。元の身体に戻すには、肉体を錬成し、そこに魂を移せばよかった。
何百年かけても、錬金術で『ヒト』を作り出すことはできていない。
だが、女は、錬金術では成しえないそれを、行うことができるのだ。
────それなら。
最初から、計画されていたことなのだろう。
彼に抱かれたことも、すべてはこのためだったのだ。弟の『器』となるものを、作り出すために。
そうして彼女は、その身に宿った胎児に、弟の魂を定着させようとしたのだ。
「愚かなことを……」
呆然とつぶやき、けれどすぐにそれを否定する。
いや、愚かなのは彼自身だ。何も気付かずにいた彼だ。
彼女が何も考えずに、安易にこの方法を選ぶわけがない。それだけ追い詰められていたということに他ならない。
そして、この方法を計画してなお、まだ迷っていたのだろう。
彼女が何故、相手に彼を選んだのか。
知っている人間の中で、一番条件の合う相手を選んだだけなのかもしれない。本当は、彼女が彼を想っていて、だから選んだのかもしれない。
だがそれよりも何よりも、彼女は自分が行おうとしている愚かな行為をとめて欲しくて、 だからこそ、彼を選んだのだろう。
同じ国家錬金術師であり、過去の人体錬成の件を知っている彼だからこそ。
様子のおかしい彼女に気付いて、彼女のやろうとしていることに気付いて、馬鹿なことはやめろと、また同じ過ちを繰り返すつもりかと、そう言って欲しかったのだろう。そう言われたなら、きっと、やめるつもりでいたのだろう。
賭けのような、それは彼女の救いを求める声だった。
思い返せば、彼女からの信号はいつだって出されていた。はっきりと言葉には出されずとも、言葉の端々や態度にそれは現われていた。
だが結局、彼は彼女からの救援信号に気付くことができなかった。
その身体に溺れるばかりで、彼女の気持ちをわかった気になっていただけで、本当は、なにひとつ、分かってなどいなかったのだ。
あんなにもあんなにも、彼女は救いを求めていたのに。
彼女を守るとか救うとか、いい気になって。ほんの少し考えれば、彼女をちゃんと見ていれば、気が付けたはずなのに。
結局、なにひとつ、できなかった。
だから、多くの大切なものが失われてしまった。そしてもう、取り戻せはしない。永遠に、失ってしまったのだ。
なんて、愚かなのだろう。
なんて。なんて。
頬を一筋、涙が伝った。
けれどそれは誰に向けられたものなのか──愚かな自分にか、可哀相な少女へか、いなくなってしまった彼女の弟か。あるいは、生まれることさえできなかった我が子へなのか──。
彼には分からなかった。
優しい木漏れ日が落ちる芝生に椅子を出して、そこに座りゆるやかな風を受けながら、彼女は愛しげに自分の腹を撫でる。
「アル」
何度も撫でながら、彼女は優しく呼びかける。
とても穏やかで、しあわせそうな声。
「早く逢いたいな、アル」
何も知らない人が見たなら、しあわせな光景だと思うのだろう。
まだ年若い母親が、やがて生まれてくる子供を待ち望み、愛し慈しんでいるしあわせな姿。その裏にある罪も禁忌も涙も、今ここには何ひとつ見えはしない。
彼は少し離れたところから、彼女を見つめる。
彼女はしあわせそうに笑っている。
自分への戒めも、弟への贖罪も、犯した罪の意識も、今は何もなく、ただしあわせそうに微笑んでいる。
彼女が愛しげに撫で、語りかける先。
その胎の中には、胎児も、弟の魂もいない。
何もない。
錬成に失敗したのか、弟の魂は鎧にもどこにも残っていなかった。どこへ消えてしまったのか知る術はない。
もしかしたら、うまく胎児に魂を移せていたのかもしれない。
けれど、錬成とリバウンドの衝撃に堪えられずに、胎児は流れてしまった。
禁忌はやはり禁忌で、多くのものを失い、結局その手に残るものは何ひとつなかった。
愛しげに撫でられる胎。
そこには何もない。
それでも彼女は新しい命が生まれてくる日を待ちながら、しあわせそうにそこに語りかけるのだ。
いつまでたっても膨らまない腹を疑問に思うこともなく、いつまでたっても生まれてこない子供を不思議に思うこともなく。
壊れた螺子巻き人形が、ずっと同じ歌を歌いつづけるかのように。
「鋼の」
ゆっくりと彼は彼女に近づく。
「春とはいえ、外はまだ冷える。これを羽織っていなさい」
そっと桜色のショールを彼女の肩にかけてやる。
けれど彼女は、まるで何も起こっていないかのように、何の反応も示さない。
ただずっと、自分の腹に向かい語りかけている。
傍らにいる彼の存在を認識しているのか、していないのか。たとえ認識していたとしても、それはこの木漏れ日と同じ程度の存在なのだろう。
彼の声は、もう彼女に届かない。
彼女はもう、彼を見ない。
きっとこれは代償なのだろう。
彼女の声に気付かずにいた、彼の愚かさに対する代償。
それでもいいのだ。
すべてを失くした彼女は、今、穏やかでしあわせな日々を過ごしている。
今ここにいて、微笑んでいる。だからいいのだ。
彼はそれを守る──それでいいのだ。それだけで。
彼はそっと、彼女を抱きしめた。
END.