君が笑うから


 ……君があんまり幸せそうに笑うから。



「火村! 火村火村っ! ひむらっ!!」
 アリスは叫びながら、寝室からリビングへと続くドアをぶち破りそうな勢いで開け放った。
 ソファで安眠をとっていた火村はその声に何事かと飛び起きた。火事か強盗か、それとも天変地異でも起きたかと思うような声だった。
「何があったんだ、アリス?」
「〜〜〜〜〜〜」
 けれどそれには答えず、アリスは扉に手をかけたまま、その場に座り込んだ。
「アリス?」
 火村はアリスのもとまで来て、自分もしゃがみこんでアリスの顔をのぞきこんだ。
 アリスはおそるおそる、といったように火村の顔を見つめる。
「なんなんだよ、アリス、おい」
「いや……ちょっと、夢見てもうて」
「ゆめえ?」
 火村は大袈裟に呆れた声を出した。つまりアリスは寝ぼけて大声を出していたというのか。
 けれど、それで安眠を妨げられたことを責めはしなかった。叫びながら飛び起きる、現実よりリアルな夢というものを、火村自身よく知っていたから。
「……コーヒー、入れたら眠れなくなるよな。ココアでも入れるか」
 そういうと火村はさっさと台所に消えた。



 明かりの付けられたリビングで、おいしそうなココアが湯気を立てている。
 それを一口飲むと、やっとアリスの胸に安堵感が込み上げてくる。あれは夢だったと、現実ではないのだと、信じられる。
「……で、どんな夢見たんだよ、アリス」
 アリスの向かい側に座って、ココアが冷めるのを待っている火村が聞いてきた。
「君も嫌なこと聞いてくるなあ、人がやっと忘れかけてきてるいうのに」
「莫迦言え。嫌な夢なんてもんはな、人に話しちまった方がすっきりするんだぜ。だから俺が聞いてやろうって言ってるんだよ」
 アリスは火村の顔をまじまじと見つめた。
 ……火村もそうなのだろうか。アリスは火村が何かの夢を見て飛び起きるたび、ずっと知らない振りをしていた。火村が自分から言ってくれるまで待とうと思っていたのだが、それは間違いだったのだろうか。
『人を殺す夢を見るんだ』
 ある事件で関わることになった彼の教え子の一人が、どんな夢を見るのかと聞いたとき、火村はあまりにもあっさりと答えた。もっと答えることを渋るかと思っていたのに、まるで自分から吐き出すかのように答えていた。
 本当は火村も、誰かに自分が見る悪夢を聞いてもらいたかったのではないだろうか。
 アリスに、どんな夢を見るのかと、聞いて欲しかったのではないだろうか。
「なんだよ、俺の顔に何かついているのか?」
「いや……」
 それきりまたアリスは黙り込んでしまった。
 確かに、誰かに夢を聞いてもらえば楽になるかもしれない。でもそれを火村に聞かせたくはなかった。いや、言葉に出したら、それが現実になってしまいそうで怖い。
 アリスが見たのは、火村が人を殺す夢だった。
 夢の中の火村の両手は真っ赤で、その足元には転がる誰かの死体。
 それは、アリスがずっと恐れている『いつか』。火村がアリスの決して手の届かない向こう側へ行ってしまう日。
 アリスはそんな日が来ないことを祈って、そしてまた、彼が向こう側へ行きそうになったときは引き止めたいと思っているのだけれど。

 ……君があんまり幸せそうに笑うから。

 夢の中で、火村は笑っていた。今までアリスが見たこともないくらい、幸せそうに。
 転がる死体を前に、満足そうに、そして全てから開放されたように微笑んでいた。
 だから夢の中のアリスは、火村に声をかけることもできず、ただその笑顔を見つめていた。
 もしもその『いつか』が来たとき、現実の火村も、あんなふうに笑うのだろうか。
 もしそうなら…………。
 そう考えていたとき、アリスの頭にぽんと手が乗せられた。
「どんな夢を見たんだかしらないけどな、アリス、夢は夢だ。現実じゃない。だから気にするな」
 そうして、まるで小さな子供にするようにアリスの頭を撫でる。
「なんやこの『いーこいーこ』は。あんま子供扱いすんな。同い年やろ」
「それは悪かったな」
 いつものように憎まれ口を叩きながら、アリスは火村の言葉に少しだけ安心していた。
「なあ火村あ。ほんまに、夢は夢やと思うか?」
「当たり前だろ。もし夢が現実なら……俺は……」
 そこで一瞬、言葉が途切れた。それに続く言葉がなんなのか、分かりたくなくて、アリスは自分から火村の言葉をさえぎっていた。
「俺、もう寝るわ。明日早く出かけるんやろ。火村もはよ寝たほうがええ。起こしたってごめんな」
 カップもそのままに、アリスは火村を置いて寝室へと逃げ込んだ。
 途中、何か言いたげな火村の顔が見えた気もしたけれど、見なかったことにした。



 明るいリビングから薄暗い寝室に入ると、アリスは途端にさっき見た夢を思い出す。
 転がる死体。
 真っ赤な血に濡れた火村の両手。
 そして……幸せそうな、火村の笑顔。
「火村……君は……」
 いつかそれが現実になったとき、現実の火村もあんなふうに笑うのだろうか。あんなに見たこともないくらい幸せそうに。
 何が幸せかなんて、他人には計れない。火村にとって『向こう側』は幸せなのかもしれない。火村は心の底では『いつか』が来るのを待っているのかもしれない。
 夢の中のあの幸せそうな火村の笑顔がよぎる。
 こちら側にいて欲しいというアリスの願いは、火村のあの笑顔を握りつぶしているのかもしれない。火村の幸せをさえぎっているのは、アリス自身なのかもしれない。
 だけど…………。
 君の幸せなんて知らない。
 君の笑顔が二度と見れなくてもいい。
 どうか、こちら側にいて。
 傍にいて、離れていかないで。
 手を伸ばしたら届く処にいて。
 それが全部自分のわがままだと知っているけど。
「…………ひむらあ」
 アリスは膝に顔を埋めた。
 それでも胸が痛むのは、夢の中の火村が、『いつか』の火村が、あんまり幸せそうに笑うから。
「それでも俺は……君にこっちにいてもらいたいんや」
 アリスは小さく呟いた。
 君に傍にいて欲しい。
 それが唯一絶対の願い。
 そのためならなんだってする。
 だけどこんなに胸が痛むのは。


 ……君があんまり幸せそうに笑うから。
 

 END