snow flower



 桜の下には、死体が埋まっているのです。
 だから、あんなに美しい薄紅色の花を咲かせるのです。



 その夜、私は、火村とふたりで、ほろ酔いの上機嫌で、小雪の降る夜の街を帰っていた。
 私は、いくつか重なっていた締め切りを全部片づけた直後で、火村も、提出する論文とたまっていたレポートの採点を済ませたばかりということで、久々にふたりで飲みにゆき、解放感を満喫した。夜もふけ、帰ろうと店を出たら、ちらちらと雪が降っていた。道にも、ほんの少しだけ積もっていた。
 けれど、雪は降っていたけれど傘が必要なほどでもないし、なにより雪がきれいだったので、のんびり歩いて帰ろうということになった。
 夜の空気は刺すように冷たかったけれど、酒で火照った頬には、ちょうどよい心地よさだった。
 雪景色を楽しみながら歩いていると、道のわきの小さな広場になっているような場所にある一本の老木が、私の目に入った。
 訳もなく、その樹に惹かれて、私はほんの少し道をはずれて、その樹に近づいた。
「あー、これ桜の樹や」
 それは、冬枯れの、桜の大木だった。幹と枝だけのその姿。きっと、今は硬い蕾のまま閉じているが、春になったら一斉にあの美しい薄紅の花を咲かせるのだろう。
 けれど、今も、広がる枝々の先に、うっすらと白い雪が積もって。
 それは、まるで。
「なんか……白い桜が、咲いとるみたいや」
 思わず、そうつぶやいていた。
「白い桜、か」
 火村も、私の隣にきて、その桜の老木を見上げる。
 見上げれば、空を覆うように伸びた枝々の間をすり抜けるように、白い雪が落ちてきて、それもまるで白い桜吹雪のように見える。
「きれーやなあ」
 白い、白い桜。幻想的なその美しさに、ふと、訳もない恐怖がこみ上げる。

(桜の下には、死体が、埋まっているのです)

 そんなことを言い出した詩人の気持ちが、よくわかる。春の、あの薄紅色の花を見ていると、本当に人の血を吸って付いた色ではないかと考えてしまう。
 そんなことはないとわかっているのに、それでも思わず、自分の足もと、桜の樹の根本に目をやってしまった。
「桜の下には死体が埋まっとって、だから、あんなきれいな薄紅の花咲かすてゆうけど。せやったら、こんな白い桜の下には、何埋まっとんのやろな」
 そのときの私は酔っていて、そしてあまりに美しい桜に感傷的な気分になっていたのだ。だから、彼の前で、突然そんなことを言ってしまった。
「やっぱり人間じゃねえか?」
 火村はいつもの冷静な口調で、そう答えた。
「埋まってる人間の血、吸い付くしちまって、それで白くなったんじゃねえか?」
「夢のないやっちゃなあ」
「じゃあ、夢に満ちあふれた有栖川大先生のご見解をうかがおうか」
 意地悪な、いやみにあふれた言い方は、いつものことだった。
 私はほんの少し考える。こんな、白い花を咲かせる桜の下には、一体何が埋まっているのか。
「この桜の下にはなあ……やっぱり人間やけど、罪を許された人が眠っとんのや」
 どうしてそのとき、あんなことを言ってしまったのか、今でもわからない。おそらくは、酔っていたからだろうが。
「罪人ほど、血が赤くなって、桜もきれいな色に染まるていうやろ? 桜は、そのひとの血と一緒に、その罪も吸い上げて花咲かせとんのや。それを何年も何年も、何回も何回も繰り返して。……そんで、そのひとの罪、全部消えたら、こんな白い花が咲くんや」
 言ってしまってから、やっと私は、自分が言ってはいけない類のことを言ってしまったのではないかと気づいた。
 私にはとうてい分からない闇を抱え、日々、犯罪や犯罪者に関わっている火村に、そんなことを言うべきではなかったと気づいた。
 けれど、もう遅い。一度言ってしまった言葉は、もう消えない。
 だから私はせめてもと、ごまかすように、茶化すように、明るく言った。
「どうや、ロマンチックやろ?」
「ああ。売れない推理作家にしちゃ、いい話だ」
 火村も、いつものように、茶化すように答えた。
 けれど、その鋭い瞳がいつものようには笑っていないことにも、気づいていた。
「……そうだな。お前の、言う通りかもしれない」
 そう言って、火村は、もう一度、うっすらと雪が積もって花が咲いているように見える桜の老木を見上げた。
「それなら、もし、俺がお前より先に死んだら、俺の死体は桜の下に埋めてくれ」
 静かに静かに響く、彼の声。それは、まるで、犯罪者のその罪を暴く、あのときと同じ声音で。
「きっと、俺の罪の分だけ、その桜はきれいな薄紅色に染まって、美しい花を咲かせるだろう。他のどの桜よりも、美しい花を、咲かせるだろう。…………だけど、いつか、俺の罪が全部消える日がきたら、白い花を咲かせるから。この雪みたいに、白い桜を咲かせるから」

 人を殺したいと願ったことがあると、静かに告げるときと、まるで同じ声音で。

「お前は、それを見届けてくれ」
 私は、ただ怖くて。何が怖いのかわからないけれど、ただ怖くて、怖くて。
 隣に立っていた火村の腕に、しがみつくように額をぶつけた。
「いやや! 誰がそんなことしたるか! そないなことしたら死体遺棄で捕まってまうやろ! そうやなくても、桜の下になんか埋めてやらんし、そんな桜、見てもやらんからな、俺は!!」
 叫んだ。ただひとつの、切実な願いを込めて。
「せやから、お前は、俺より先に死んだらあかんのや!」

 それは、彼に、ほんの少しでも届いていただろうか?

「そんなにムキになるなよ、アリス。ただの、酔っぱらいの戯れ言だろ?」
 火村は小さく笑って、だだをこねる子供をあやすように、私の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
 そう。それは、ただの戯れ言だった。
 私も火村も、そんなことありえないとわかっていた。桜の下には死体などないと。あれはただ雪が積もっているだけで、白い桜など咲かないと。わかっていた。


 あれは、全部、ただの嘘。





 それでも。


 今も、雪の降る日、桜を見上げては、君を想う。
 桜の枝に積もる、白い白い、雪。

「白い桜、や……」

 今も君は、待っているのだろうか。
 春になったら、一斉に美しい美しい薄紅色の花を咲かせる、この樹の下で。
 君の罪の重さの分だけ、美しい薄紅色の花を咲かせる、この樹の下で。

 いつか、白い桜が、咲く日を。
 この雪の花のように、白い白い桜が、咲く日を。
 今も、ずっと。ずっと。



 END