すべては、あの、遠い日々。


 彼女が庚申薔薇を一輪摘んだのは、大切な子供のためだった。
 薔薇を欲しがる子供のささやかな願いを叶えてあげたいと、ただそれだけだった。
 それなのに。
 彼女は一輪摘んだ薔薇の代わりに、大切な子供を失った。
 あのとき薔薇を摘まなければ、彼女は子供を失わずにすんだのだろうか。



 贈られた何鉢目かの庚申薔薇の鉢植えをテーブルの上において、蒼はそれをじっと眺めていた。
 何をするでもなく、ただじっと、薔薇を見つめる。時折角度を変えたり、花びらに触れたりしながら、飽きることなく眺めていた。
「京介……」
 蒼がやっと言葉を発したのは、1時間近く経ったあとだった。
 様子をうかがいながらも、蒼から行動を起こすまではと放っておいた京介は、その声に、読んでいた本から顔を上げた。
「なんだい」
 蒼の、大きくて丸い瞳が、京介をまっすぐに見ている。そらされることも、伏せられることもなく、まっすぐに京介を見つめたまま、蒼はぽつりと言った。
「僕、……ひどい人間かもしれない」
「どうして?」
 尋ね返す京介の声はあくまで穏やかで、優しいけれど甘やかすのではない、公平さが入っていた。
 蒼は、少しだけ口ごもりながら、けれど、はっきりと話しだした。
「もし……、あの事件がなければ、僕と京介は、きっと会うこともなかったでしょう。もし仮に、偶然何処かで知り合いになったとしても、きっと、こんなふうに一緒にはいなかったよね。そう思うと……少し、ほんの少しだけどね、僕は、あの事件が起きてよかった、とかって思うんだ」
 あの事件で、多くの人が死んだ。多くの人が傷ついて苦しんだ。自分だってその例外じゃない。傷つき、苦しみ、かけがえのない大切なものをたくさん失った。
 それなのに……それでも。
 今、過去を振り返って、心の何処かで、あの事件が起きてよかったと、そう思っている自分がいる。
 あの事件があって、京介に出会えたから。京介の隣にいることができたから。
 そう思ってしまう自分は、ひどい人間なのだろうか。こんなひどい人間だから、あの事件で、あんなことまでできたのだろうか……。
「蒼は、ひどい人間なんかじゃないよ」
 京介は軽く、けれどはっきりと言いきる。まるで、太陽は東から昇るというように。
「それは、蒼が過去をちゃんと受け入れて、自分の糧にしているってことだろう」
 京介は、いとも簡単に蒼の不安を打ち砕く。打ち砕いてくれる。
 同じことを深春や教授に話しても、同じように言ってくれるかもしれない。でも、それでは、蒼がどんなひどいことを言っても、本当は悪いことでも、自分のために肯定してくれたのではないかと不安が付きまとってしまうのだ。
 でも、京介の言葉なら、素直に信じられた。
 蒼の顔がほころぶ。その顔に、笑顔が浮かぶ。
「蒼は……、ひどい人間なんかじゃない」
 もう一度そう言うと、京介は、つと、蒼から目を逸らした。
 もっとひどい人間は、ここにいる。
 蒼のように罪の意識ももたずに、あの事件を心から喜んでいる人間が、ここにいる。
 あの事件がなければ、自分はもっと早くに壊れていた。
 あの事件があって、蒼が傍にいてくれたから、こんな自分がこんなにしあわせでいいのだろうかと思うほど、しあわせになれた。
 自分に、しあわせな魔法をかけてくれた『蒼』。
 けれど、こうして彼も大人になっていく。
 過去に捕われず、それを糧として、自分の力で未来を選び取っていけるようになってゆく。
 そのとき、魔法は終わる。別れが、来る。
 けれど、そのいつか来る別れが、ひととき彼を哀しませたとしても、やがて彼はまた、それさえよかったことだと、思うときがくるのだろう。
 ……きっと、それでいいのだ。
「京介?」
 急に視線を逸らされたことに不安になったのか、少し不安げに、蒼が呼ぶ。
「なんでもないよ、『蒼』」
 京介は、他の人間には決してみせないような綺麗な笑顔を、惜しげもなく隠すこともなく蒼に向ける。
 蒼はそれに見とれて、彼の中にある暗い陰りに気づけなかった。



 彼が強くなりたいと望んだのは、大切なひとのためだった。
 大切なひとを守れるように、ずっと一緒にいられるようにと、ただそれだけだった。
 それなのに。
 彼は手に入れた強さの代わりに、大切なひとを失った。
 あのとき彼が強さなど望まなければ、弱い子供の『蒼』のままでいたなら、彼を失わずにすんだのだろうか。

 そして、いつかは、それさえよかったことだと思う日が、来るのだろうか。



 すべては、あの、遠い日々。
 もう、帰れない。


 END