よるがくるたび、ぼくはいのる


 よるがくるたび、ぼくはいのる
 どうかあさなどこないようにと


「蒼」
 呼ばれて、『蒼』はうっすらと目を開けた。寝起きでぼけた視界に入るのは、見慣れた天井と、見慣れたきれいすぎる顔。いつも通りの朝の筈なのに、なんとなく、違和感を感じた。
「……きょうすけ」
「早く起きないと、置いていくぞ」
 違和感が何なのか分からないまま、それでも蒼はもそもそと布団から這い出した。
「おはよう、蒼」
 京介に言われて、また感じる違和感。それが何なのか、のどに刺さった魚の小骨のように、気になった。
「? 蒼、どうかしたのか? 具合でも悪いのか?」
 いつもなら、寝ぼけながらでも元気な挨拶が返ってくるのに、今朝は返事をしない蒼を京介が心配そうにのぞき込んだ。もし深春などが見たら、過保護だと大笑いするだろう。
「熱でもあるのか?」
「あ。ううん。何でもないんだ。京介おはよう」
 心配そうな顔をされて、蒼は急いで笑顔で挨拶を返した。
 胸に残る違和感は消えていなかったけれど、思い悩む程ではなかったので蒼はそれを忘れてしまうことにした。
 蒼にとっては、いつも通りの朝だった。



「じゃあ香澄君、この書類に保護者の方の印鑑をもらってきてくれるかな」
「はい、分かりました」
 蒼は事務員に差し出された書類を受け取る。
 春から学校へ通うと決めたため、やらなければいけない手続きは山のようにあった。大抵は神代教授と門野氏がやってくれていたが、忙しい彼らばかりを働かせるのは気が引けて、こうして自分で出来る手続きは自分でやるようにしていた。
 渡された書類に自分でも目を通しながら、蒼は不思議な気持ちを感じていた。
 書類の全てに記されているのは『薬師寺香澄』という名前。そこには『美杜杏樹』も『蒼』もいない。戸籍上はそうなっているのだから、当たり前のことなのだが、やはり不思議な気がする。
 昔は、呼ばれるだけで心臓が痛くなっていた名前。それが自分の名前であるということを忘れてしまいそうになるくらい、ずっと使っていなかった名前。
 それなのに今、『薬師寺香澄』と呼ばれている自分がいる。
 そこまで考えたとき、蒼はふと思い当たった。今朝の違和感の訳を。
 違和感を感じたのは、『蒼』という名前だ。
 そう呼ばれたとき、違和感を感じたのだ。まるで、他人の名前で呼ばれたかのように。
(どうして……?)
 蒼はずっと『蒼』だった。皆もそう呼んでいたし、自分でもその名前を気に入っていた。なのに何故『蒼』と呼ばれて、違和感を感じるのか。
(そうだ、最近は『香澄』と呼ぶ人の方が多い……)
 手続きに行った先で呼ばれるのは、戸籍上の名前である『薬師寺香澄』。渡される書類に書いてあるのは『薬師寺香澄』。
 いつの間にか、そちらの方に慣れてきてしまっていたのだろうか。
 訳もなく不安が込み上げてきて、蒼は手にしていた書類を強く握り締めた。
(京介……!)
 自分の心の中で、お守りのように大切にしているあの顔を思い出す。前髪でほとんど隠れて見えない、それでもその美しさは隠しようのない顔。
 その顔に、すがるように心の中で語りかける。
(僕は、誰なの?)



 夜、京介が布団の中に潜り込んで本を読んでいると、おずおずと襖が開けられた。その隙間から、よく知っているくせっ毛がのぞく。
「蒼、どうしたんだ?」
 声をかけると、やはりおずおずと蒼が顔をのぞかせる。
「どうしたんだ?」
「あのさ、京介。今日……一緒に寝ちゃ駄目かな」
 京介は少し驚く。昔は一緒ではないと寝られなかったような蒼だが、今ではもうそんなことはない。それなのに何故今日はそんなことを言いだすのか。何かあったのだろうか。
「駄目?」
 首を傾げる蒼に、京介は他の人間には見せないような極上の笑みを見せる。
「もちろんいいよ」
「じゃあ僕、布団持ってくるね!」
 蒼は子犬のように走っていくと、自分の布団と枕を抱えて戻ってきた。それを、京介の隣に並べる。
 蒼は布団に潜り込むと、布団を引っ張りあげて鼻先まで持ってゆき、大きな目とくせっ毛だけを布団からのぞかせた。
「……で」
 京介は読んでいた本を閉じて、蒼に優しく語りかける。
「何があったんだ、蒼」
 そう聞かれるだろうことは、蒼も分かっていたようで、ほんの少しだけ言葉に困ったように目を動かすと、話し始めた。
「あのね、今朝、京介に『蒼』って呼ばれたとき、少しだけ違和感を感じたんだ」
「違和感?」
「うん。多分、最近学校行く手続きのためとかで、『香澄』って呼ばれることの方が多いからだと思うんだ」
「蒼は……『蒼』って呼ばれるのが嫌になったのか?」
「違うよ、そうじゃない!」
 布団の中で、蒼は大きく頭を振る。くせっ毛が布団にぶつかって、ぱたぱたと音を立てる。
「そうじゃなくて……なんて言えばいいのかな。僕は誰なんだろうって、思っちゃって」
 自分の言いたいことがうまく言葉に出来ず、戸惑うように蒼は目をさまよわせる。京介はじっと、蒼の次の言葉を待った。
 やがて、ぽつりと蒼が呟いた。
「ねえ京介……。僕は、いつか『蒼』じゃなくなっちゃうのかな」
 京介は何も答えず、布団からのぞかせた蒼の目をじっと見ていた。
「分かってるんだ。そんなのただの名前で、誰になんて呼ばれようと僕は僕だってことくらい。でも……」
 蒼の胸によぎる不安。蒼が『蒼』でなくなったとき、失くしてしまうものがあるような気がする。多分それは……。
「それを決めるのは、蒼自身だよ」
 蒼の思考を遮るように、京介の穏やかな声が響いた。
 蒼は京介を見つめる。長い前髪に隠されて、その表情はよく分からない。
「蒼が『蒼』でいたいなら、『蒼』でいられるさ。でも、その名前が必要なくなったときは、迷わず捨てればいい。名前に縛られることなんてない。君は君だからね」
「きょうすけ……」
 何かを言おうとした蒼を遮るように、京介は蒼の頭を撫でると電気を消した。
「もう遅い。明日起きられなくなるよ。おやすみ」
「……うん、おやすみ、京介」
 布団の中で小さく丸くなって、蒼は京介の言葉を心の中で繰り返していた。
(僕が『蒼』でいたいと願えば、『蒼』でいられるのかな……。本当に……?)
 やがて蒼は、緩やかな眠りの中へと引き込まれていった。



 隣から、蒼の規則正しい寝息が聞こえてくるのを確認して、京介はゆっくりと布団の上に起き上がった。
 電気を消していても窓から差し込む薄明かりで、物の形ははっきり見えた。隣で眠る、蒼の顔も。
 もう、小さな子供とは言いきれない程に、大きくなった。もうすぐ、完全に自分の足で立って歩いていくようになる。そうすれば、蒼は『蒼』ではなくなるだろう。
 蒼にはああ言ったものの、京介は、蒼が『蒼』でなくなる日が来ることを、ほとんど直感的に確信していた。
 それは、京介が小さな子供に与えた猫の名前。小さな子供が子供でなくなったとき、『蒼』はいなくなる。
 京介を必要とし、京介にここにいる存在理由をくれた『蒼』はいなくなる。
(その時、僕はどうなるんだろう)
 言い知れぬ不安。けれど、無理矢理『蒼』を繋ぎ止めるようなことは出来ない。それでは、彼の母親と同じだ。
 だから、京介ができることは、ただ祈ることだけだった。どうかその日が来るのが、少しでも遅くなるように。
 朝が来るたび、一日が過ぎるたび、子供は子供でなくなってゆく。自分の足で歩けるようになってゆく。
 だから、夜が来るたびに祈る。どうか朝など来ないようにと。
 このまま永遠に夜が続けば、子供は永遠に子供のまま、蒼は永遠に『蒼』のまま、この幸せなときが続くのに。
 無駄なことだと分かっていた。どんなに祈っても朝は来るし、いつかその日はやってくる。
 それでも京介は祈らずにいられなかった。誰に祈るのか、それすらも分からないのに。祈る自分を、愚かしいと思いながら。


 よるがくるたび、ぼくはいのる
 どうかあさなどこないようにと


 END