Alice


 重厚なマホガニーの扉を、リボーンはノックもなしに開けた。
 気配もさせずいきなり入ってきた者に対し、室内に一瞬鋭い緊張が走る。しかし侵入者がリボーンであると認めると、部屋の主である綱吉はすぐに笑顔になり、嬉しそうに腰を浮かした。
「リボーン!」
「よう、ダメツナ。ちょっとは様になったじゃねえか」
 ここは、ボンゴレ十代目ボスの控室だ。普通なら、ノックもなしに入ってくることなどできない。そんな暴挙は誰にも許されていない。しかしそれがこの黒衣の暗殺者であるなら、誰もが仕方ないと納得する。
「なんだ、いっちょ前に緊張してんのか?」
「はは……」
 その言葉に照れたように困ったように笑う綱吉の顔は、多少大人びただけで、出会ったころと変わらないように見える。それでも、確かに何かは変わっているのだ。
 オーダーメイドのスーツは、綱吉の体にぴったりと合っている。恐ろしいマフィアのボスには見えないけれど、一人の青年としてスーツが似合っている。内に秘める輝きは昔からあったけれど、宝石の原石が磨かれて光るように、今はその輝きは誰の目にも明らかだ。
 今はもう、ダメツナなどではない。どこに出しても恥ずかしくない、立派なボンゴレボス十代目候補──いや、『十代目』だ。
 これから綱吉の就任式だ。彼はボンゴレ十代目となる。かつて、シモンファミリーをおびき出すために行ったようなものではない。本人の意思によって、正式に行われる就任式だ。今までだって綱吉はボンゴレの後継者として、ボンゴレを動かす地位にいた。けれど、今日からは名実ともに正式なボンゴレボスとなる。
「……リボーン」
 綱吉はまっすぐにリボーンの前に立った。
 高さの異なる目線。それでも腰を折るようなことはしない。まっすぐに立って見つめ合う。目線の高さが違っても、それが自分達なのだと、分かっているから。
「今までありがとう、リボーン」
 その顔は、穏やかだ。そして、迷いはない。
 リボーンは何も答えず、ボルサリーノのつばを下げた。



『リボーン、どうしようリボーン』
 かつて、綱吉はいつも困った顔をして、そう言っていた。
 何かあるとすぐにリボーンを頼っていた。それに直接リボーンが手を貸すことはほとんどなかったし、むしろ試練を与えているのがリボーン本人であることも多かったが、それでも綱吉はリボーンを頼った。
 一般家庭に育った綱吉にとって、イタリアンマフィアの世界など、真っ暗な森にほおり投げられたのと同じだったのだろう。そして、そこでただ一つ道しるべになるのが、リボーンだったのだろう。
 綱吉は、リボーンに手を引いてもらってやっと歩ける、幼い幼い赤子のようだった。姿だけなら、リボーンこそが赤子であったのに。
 それが段々と変わっていったのは、──いつだったろう。
『どうしよう、リボーン』
 ある日、綱吉はそう言った。

『俺、あのひとが、好きだ』

 綱吉はずっと京子が好きだと言っていた。当時赤子の姿であるにも関わらずすでに四人の愛人がいたリボーンは、そんな綱吉を鼻で笑った。
 中学生にもなれば、性的なことにだって興味も出てくるだろう。そうでなかったとしても、付き合いたいとかキスをしたいとか思うのが普通だろう。けれど綱吉は京子を『お嫁さんにしたい』と言っていた。小さな子供のおままごとのような想い。それはランボが奈々を大好きだと言うのと、どれほどの違いがあっただろう。
 その綱吉が言ったのだ。
 京子ではなく、好きな人がいると。胸の内の、苦しくてたまらない思いを吐き出さねば、窒息して死んでしまうかのように。それは、明らかに今までの想いとは違うものだった。
 相手が誰かなど、分かっていた。調べなくても、綱吉を見ていればわかった。本人が自覚するのは遅かったようだが、綱吉の傍にいたリボーンは気付いていた。
(気付かなければ、よかったのに)
 綱吉が変わったのは、多分その頃からだろう。
 自分が想う相手にふさわしくあろうと──逃げたり、目を閉ざしたりするのではなく、まっすぐに立とうとするようになった。もちろんすぐに変わることはできなかったけれど。それでも少しずつ、少しずつ。
 そうしていつしか、多くのものが綱吉のまわりに集い始めた。
 今までこの暗い森の中で、道しるべはリボーンだけだったのに、そうではなくなった。彼は多くの道しるべを見つけて、また、自分で歩くすべを見つけた。うつむいていた顔をあげて、背筋を伸ばして、まっすぐ歩くようになった。
 そして、今日、綱吉は本当にリボーンの手を離れていく。
 リボーンは、十代目候補を立派なボスに育てるための家庭教師だ。だから、綱吉がボスになる今日、お役御免となる。
 もちろん物理的に離れるわけではない。家庭教師ではなくなっても、ボンゴレの顧問の一人として、これからもそばにいることになるだろう。
 けれど、今までとは違うのだ。



「綱吉。用意出来たの?」
「ヒバリさん」
 軽いノックのあと、黒スーツを着こなした男が入ってくる。とたんに綱吉の顔が輝く。
「十代目っ、お支度はできましたか」
「よっ、ツナ。大丈夫か」
「クフフ。マフィアが一堂に会すなど、絶好の殲滅のチャンスですね」
 綱吉のまわりにわらわらと集まってくる者たちの姿に、リボーンは小さく口角を上げた。綱吉はリボーンの手を離れて歩いていく。けれど一人ではない。手を取って、共に歩いていく者がいる。だから大丈夫だ。
 恭しく差し出されたマントを、綱吉は羽織る。一度瞳が閉じられて、それからゆっくりと開かれる。死ぬ気の炎は灯っていないけれど、それと同じだけの強さを瞳に宿している。ボンゴレ十代目としてふさわしい姿だった。もう彼に『家庭教師』は必要ない。
「じゃ、リボーン。行ってくるよ」
「ああ、行って来い」
 仲間と共に、大切なひとと共に歩いてゆくその後ろ姿を、リボーンはただ見つめた。
(ツナ)
 暗い森の中で、一人きりだったのは綱吉だけではない。本当は、リボーンも、一人きりだった。けれど、綱吉の手を引くことで、リボーンもまた一人ではなかった。繰り返される解けない呪いの中で、綱吉はリボーンの道しるべだった。
 今、綱吉の手が離れて、リボーンは一人だ。また、一人で歩いて行く。
(ツナ、ツナ、ツナ)
 けれどそれは哀しいことではない。
 リボーンは一人だけれど、ここはもう真っ暗な闇の中ではない。大切な者達と共に微笑む綱吉の姿を見ることができる。それは光だ。暗い森を照らしてくれる、優しい灯。
 だから──。
「行って来い、ダメツナ」
 本当に言いたかった言葉は飲み込んで。
 リボーンも就任式の会場へ行くために、一人で歩きだした。


 END.