ドルチェ


 車が自分の邸の敷地内に滑り込んだのを見て、ハルヒは大きく溜息をついた。ここまで来れば、もうまわりの目を気にする必要はない。多少気を抜いたところで、誰も咎める者はいない。
 今日は鳳家主催のパーティに招かれていたのだが、庶民育ちのハルヒにとって、いまだに大きなパーティというものには慣れない。テーブルマナーや立ち振る舞いは一通り覚えたものの、いつ昔の癖が出てしまうかわからない。
 今のハルヒの肩書きは『銛之塚次期当主の妻』だ。ハルヒひとりが笑われるならまだしも、彼女の失態はそのままモリの失態となってしまう。そんなことにならないようにと、パーティ中はずっと緊張していた。
「ハルヒ、大丈夫か?」
 隣から大きな手が伸びてきて、軽く頭を撫でてくれる。横を向けば、盛装した姿のモリが、心配そうにハルヒを見つめていた。
「大丈夫ですよ」
 ハルヒは夫に微笑んでみせる。
 ふたりを乗せた車は敷地内を走って、邸の玄関まで到着した。銛之塚の邸は、他の上流階級の邸に比べれば質素で小さいのだろうが、それでもハルヒから見れば十分でかい。玄関には何人かの着物姿のメイドが頭を下げて、ふたりの帰りを出迎えてくれる。
 運転手が外から恭しくドアを開けてくれ、先にモリが車外に出る。それに続いてハルヒも車から降りようとしたら、腕が伸びてきて無言でモリに抱き上げられた。
「ちょっ、ちょっとモリ先輩!?」
 驚きのあまり、かつての敬称が出てしまう。けれど以前と違うのは、荷物のように肩に担ぎ上げられるのではなく、いわゆるお姫様抱っこをされていることだ。
「あ、あの……おろしてください」
 メイドや運転手たちの目もあって、ハルヒは赤くなって小さな声でモリに抗議するが、彼がハルヒを下ろす様子は一向にない。そのまま邸の中に入って、自室へと向かってゆく。
 銛之塚の邸は平屋建ての日本家屋で、ほとんどが和室だが、いくつかの部屋は洋風や半洋風に改造されている。モリとハルヒが夫婦の私室として使っている部屋も、半洋風に改造された部屋だ。それが、完全な和室ではハルヒが住みにくいだろうというモリの配慮であることを、ハルヒはちゃんと知っている。
 横抱きにされたまま部屋に入ると、ハルヒは椅子に座らされ、モリはその足元にひざまずいて丁寧に靴を脱がせてくれる。足にはちいさな靴擦れが出来ていた。
「気がついていたんですか……」
「あたりまえだ」
 今日おろしたての新しい靴によって出来たちいさな靴擦れは、皮がめくれたりするほどではなく、それほどひどいものではなかった。痛みはあったものの、我慢できないほどではないので、ハルヒは誰にも言わずにそのままパーティに出ていた。それに、そういうのを誰にも気付かれないようにするのは得意だと思っていた。
 けれど彼はちゃんとそれに気付いてくれていた。
「え……じゃあもしかして、早めに切り上げてきたのって、自分のせいで……」
 ハルヒは不意にその可能性に気付く。
 今日のパーティは最後まで出席せず、途中で切り上げて帰ってきてしまった。ハルヒが、同じく客として来ていた双子たちと話をしているところにモリが来て、帰るぞと一言告げて急に帰ってきてしまったのだ。その行動の理由を分からずにいたけれど、それは自分のせいだったのかもしれない。
「ごめんなさい、私のせいで……」
 たいした理由もなく、パーティを中座するのはあまり良いことではない。
 それになにより、モリが仕えているはずのハニーを置いてきてしまった。もちろん帰る際にハニーには断りを入れたし、彼自身も自分の家の車で来ているのだから、別に先に帰ったところで支障がないとはいえ、彼に職務の一部を放棄させてしまったことに変わりはない。
「違う」
 うつむくハルヒに、短い言葉が落とされる。
 ハルヒが顔を上げれば、ほんのすこし頬を赤らめたモリが、困ったように彼女を見つめていた。
「いや……それもあるが、今日のお前の姿を、あまり他の奴らに晒していたくなかっただけだ」
 そう言われて、ハルヒは自分の姿をまじまじと見た。
 ハルヒのドレスは、大抵双子がデザインしている。頼んでもいないのに、新作が出来たといっては届けてくるのだ。
 今日のドレスは、大胆に背中の開いたデザインだ。チャイナ風を意識しているのか、タイトなロングスカートには片側に大きくスリットが入って、太ももまでが見えている。
 環や双子はハルヒの姿を見つけるとすぐに寄って来て、ドレス姿を口々に褒めてくれた。他の招待客たちも、このドレスとハルヒを褒めてくれたのだが……、もしかして、いわゆるやきもちというものを、焼いてくれたのだろうか。
 心なしかハルヒも頬を染めながら、いまだ足元に膝を付いている夫を見つめる。こんなふうに彼が感情を出すのは珍しいことだった。
 まっすぐ見つめてくるハルヒの視線に耐えられなくなったのか、モリは視線を外すとハルヒの靴擦れで赤くなった足先に口づけた。
「ちょっ……汚いですよ」
「汚くない」
 ハルヒが足を引こうとしても、足を持つ手は強固でびくともしない。
「ハルヒ」
 寡黙な顔をして、実は結構強引だと知ったのはずいぶん前だ。仕方なく、ハルヒは力を抜いて、されるがままになる。
 足先から足の甲に、そして足首、ふくらはぎとくちびるはどんどんと上へ上ってくる。時折軽い痛みと共に紅い跡を残したり、舌を出してなぞるように舐めたりする。そのたびにハルヒはちいさく震えた。
 やがて膝までたどり着いたモリは、膝に口づけたままハルヒを見上げた。笠野田ほどではないにしろ、モリも鋭い眼光をしているが、その瞳が本当はとても優しい色をしていることを、ハルヒは知っている。
「モリ先輩」
 今は使わなくなった敬称でモリを呼んで、ハルヒはその首に抱きついた。優しく抱き上げられて、ベッドまで連れて行かれる。スプリングのきいたベッドに横たえられ、額にひとつ、キスを落とされる。
 小柄なハルヒと大柄なモリとで、こうして覆いかぶさられると、まさしく小動物が大型の肉食獣に食べられるような錯覚をすることがある。けれどその本能的なかすかな怯えは、儀式のように額に落とされるキスですぐに溶けて消えてしまう。たとえモリが大型の肉食獣だったとしても、その腕がハルヒを傷つけることは絶対にないと、わかるから。
 ハルヒは腕を伸ばしてモリの背中にしがみついた。
 そっとドレスを肩から外され、胸があらわになる。学生時代の頃よりはわずかにふくらみを増した白い乳房に、モリはそっと手を這わせてくちびるを寄せる。
「あっ……」
 普段竹刀を握っているせいか無骨で堅い大きな手は、ハルヒに触れるとき驚くほど優しい。そのくせ所有権を主張するように、軽い痛みと共に次々と赤い跡をつけていく。
 これからしばらくパーティの予定がなくてよかったと、心の中でハルヒは思った。モリに抱かれたあとは、しばらく体中の跡が消えなくて、大抵のドレスが着られなくなってしまうのだ。今日のように背中の大きく開いたドレスや、襟元の開いたドレスなど論外だ。
(あれ……?)
 もしかして、それもわざとなのだろうか。ほんのすこし分かりづらくやきもちを焼くモリの、ささやかな抵抗なのだろうか。
 ハルヒが考え事をしている間に、モリの手とくちびるはどんどん下に下がって、彼女のふとももに触れた。
 ドレスのスリットの間から手をしのばせ、ふとももや尻を撫で回す。こう言ってはなんだが、痴漢のようなその触り方に、ハルヒは身をよじる。
「ちょっ、なんなんですか」
 いつもとは違うモリの触れ方に、ハルヒは違和感を覚えてその手を避けようとする。けれどモリはそんなハルヒを押さえつけて、再びふとももに手を這わす。
「……ハルヒは、こうされるのが嫌なのか?」
「当たり前です! なんか、痴漢みたいじゃないですか」
「なら、もうこういうドレスは着るな」
「へ……?」
 思いもかけないモリの台詞に、ハルヒは間抜けな声を出してしまう。
 実際のところ、パーティの間中、ドレスからちらりちらりと見えるハルヒの脚に、目が釘付けになっていた男たちは一人や二人ではない。中にはずいぶんと好色な目で見ていた者までいる。けれどそんな視線にハルヒが気付くことはなく、平然と肌を晒していた。それにどれほどモリがやきもきさせられていたか、ハルヒは知らない。
「あの……」
 あっけに取られるハルヒとは裏腹に、モリは至極真面目な顔をしている。その顔を見ていると、思わずハルヒはちいさく吹き出してしまった。
 思いもかけないやきもちとその表現方法に、ベッドの上でおなかを抱えるように丸まって、肩を震わせて笑ってしまう。普段無表情だとか怖いとか言われているモリがこんなにかわいい人だと、他に誰が知っているだろう。
「ハルヒ……」
「あ、ごめんなさい。はい、もうああいう露出の多いドレスは着ません」
 何とか笑いを収めながら、憮然とした顔をしているモリに向き直る。
 笑われたことに納得いかないのか眉間にしわを寄せているモリの機嫌を取るように、ハルヒからモリに軽く口づける。くちづけはすぐに深くなって、互いの舌で口内を探りあう。唾液を甘いと感じるのは錯覚だと分かっているのに、脳はその甘さに溶かされてしまいそうだった。
 キスの合間にドレスを全部脱がされ、モリも服を脱いでいく。足を開かされ、優しい指と舌に触れられるたびに、奥から奥から蜜が溢れてくる。
「あ、や、……たか、し……」
 まだ呼び慣れたとはいえない名前を呼んで、ハルヒはモリにしがみつく。モリはそんなハルヒを抱きとめて、優しく髪や背を撫でてくれる。
「ハルヒ」
 名を呼ばれると同時に、ハルヒの中にモリが入り込んでくる。熱いその塊に圧迫される感覚に、ハルヒは細く息を吐き出した。もともとの体格差のせいで、いつもすんなりとモリを受け入れられるわけではない。もちろん快感もあるし、そのうち頭が真っ白になって何も考えられなくなってしまうが、それでも多少の圧迫感は変わらずにある。けれどいつだってそれを吹き飛ばしてくれるのはモリの優しい手だ。
 はじめて抱かれたときだって、このやさしい手に撫でられると、痛みが消えていくような気がした。
「ん……、い、モリせん、ぱ……た、か……っし」
 モリにしがみつきながら、昔の敬称で呼んでいることにも気付かないまま、ハルヒはモリの動きに身をゆだねた。
 すぐに頭は白く染め上げられて、体の奥で熱が爆ぜるのを感じた。



「……そういえば」
 ベッドの上でモリに抱きしめられたまま、ハルヒは不意に思い出したように言った。
「最近、うちの父だけじゃなくて、環先輩とか鏡夜先輩も、『子供はまだか』みたいなこと聞いてくるんですよね」
 すでにモリとハルヒが結婚して数年経っている。いつ子供が出来てもおかしくはないし、親である蘭花がそのようなことを言ってくるのは分かるのだが、何故かつての先輩方や同級生までそのようなことに関心を持つのか分からない。
 首をかしげるハルヒを、モリは自分の胸元に抱き寄せる。
「……まだ当分子供はいい……」
「え? 子供、嫌いじゃ……ないですよね?」
 意外なモリの返答に、ハルヒは恐る恐るたずねる。
 埴之塚や銛之塚に武道を習いに来ている子供や、知り合いの子供などを、モリが無愛想ながらもよく面倒見ていることを知っている。それに、強要されたことはないけれど、やはり銛之塚の跡取りとしてどうしても子供をもうけなければいけないはずだ。
 それとも、銛之塚にとっては君主である、埴之塚家──つまり、ハニー先輩が結婚して子供をもうける時期に合わせたいのだろうか。
 いろいろと考えているハルヒに、まるでしがみつくように腕の力を強めたあと、モリのちいさな呟きが彼女の耳に届いた。
「ハルヒを、取られたくない」
 その言葉にハルヒは目を丸くしたあと、また思わずちいさく噴き出して笑ってしまった。
 まだ生まれてもいない自分の子供にそんなやきもちを焼くなんて、本当に、なんてかわいい人なのだろう。モリがこんなかわいいと知っているのは、多分ハルヒだけだ。
「そうですね、もうしばらくは、夫婦水入らずでいいですね」
 ハルヒは、まるでちいさな子供をあやすようにモリの髪を撫でて、その優しい腕に抱きしめられたまま眠りについた。
 モリもその腕にハルヒを抱きしめたまま、そっと目を閉じる。
 まだ子供がいらないと思うもう一つの理由が、もしハルヒ似の女の子が生まれた場合、かつての部の後輩どもの壮絶な争奪戦が繰り広げられるだろうから、ということは、鈍く愛しい妻には秘密なのだ。


 END