箱庭の夢 6


 外は梅雨の合間の晴天に恵まれて、美しい装飾の施された窓からはまぶしい光が差し込んでいる。
 ハルヒは純白のドレス──いわゆるウエディングドレスというものを身に纏った自分の姿を、しげしげと眺めた。特注で作られたドレスは彼女の体にぴたりと合い、結い上げられた髪や胸元には真珠と白いちいさな薔薇が飾られ、溜息の出るような美しさだ。しかしそんなハルヒ本人の心情といえば、一体何故自分はこんなものを着てこんなところにいるのだろう、というのが正直なところだった。
 先ほどまでドレスを着付けてくれたり髪形を整えてくれていた係の人たちは自分の仕事を終え部屋を出ていて、ハルヒひとりきりだ。浮かない顔をしている花嫁に、気を利かせてくれたのだろう。
「ハルヒ、準備できたか」
 軽くドアがノックされ、ハルヒと同じように白一色のタキシードを着た鏡夜が入ってくる。
「はあ……」
「なんだその気のない返事は」
 残念ながらハルヒには普通の少女達が持つような『素敵なウエディングドレスを着て教会で結婚式を挙げたい』というような願望はなく、結婚するにしても役所に婚姻届を出せばそれでいいのではないかと思っている。
 しかし、鳳家の跡継ぎ候補としてはそういうわけにもいかないらしい。教会で行なわれる結婚式はまだしも、このあと行なわれる披露宴の規模ははっきり言って思い出したくもない。
 桜蘭高校を卒業した鏡夜は医学部に進学し、その1年後、ハルヒも希望通り法学部へ進学した。そのあいだもずっと鏡夜との付き合いは続いていたのだが、やはりハルヒの心の隅には不安があった。いつか鏡夜は離れていくだろう、と。
 それが、ハルヒの大学卒業と同時に鏡夜との結婚話が進められ、数ヵ月後にはこの現状だ。実はだいぶ前からハルヒ抜きで、蘭花との話し合いや式場の準備などが進められていて、ハルヒが知ったときには、あとはハルヒの準備のみ、という状況だった。
 あまりの展開の速さに頭がついていかない。
 この数ヶ月の慌しさは、ものすごいものだった。特注ウエディングドレスの製作から式の手順の暗記など、やることは山のようにあって、感傷に浸る暇も悩む暇もなかった。
 ──あるいはそれが、鏡夜の狙いだったのかもしれない。時間があれば、ハルヒはまたいろいろ考え、悩んでしまっただろう。
「……本当に、いいんですか?」
「なにがだ?」
 今更こんなことを聞くのはおかしいと分かっている。けれどやはりわずかな不安はぬぐえない。
「自分と結婚しても、メリットなんてありませんよ。むしろ鏡夜先輩の評判を落としてしまうんじゃ……」
「バカだな、ハルヒ。庶民だろうと上流階級だろうと、みんな『純愛』というものが大好きなんだよ」
 鏡夜はハルヒに不敵に笑ってみせる。
 親の勧める政略結婚を断って、学生時代から付き合っていた相手と結婚する。しかも、相手は特待生として桜蘭学院に入学した庶民の女性。本来なら出逢うこともなかったふたりが出会い、苦難を乗り越え愛を貫き結婚する。このドラマのようなシナリオに多くの人々──特に婦人達が感動し、鏡夜の株は上がっているのだという。
 また、そんなふたりのエピソードが広まってしまった今、鏡夜の父が無理に結婚に反対すれば、鏡夜を応援する人たちから反感を買い評判を落とすだけだ。しかし逆に、息子を応援し、庶民の女性が嫁ぐことを認めるとなれば、寛容で器の大きな先鋭的な人物だと印象づけることが出来る。そんな計算の元、鏡夜の父もこの結婚を認めていた。
 まさに鏡夜の策略通りだ。
「この手が無理なら、おまえをいったん常陸院の養子にして、それから結婚するという手も考えていたんだがな。養子の件に関しても、蘭花さんや双子にも話はつけてあったし」
「一体いつの間にそんな話を……」
 そんな話は初耳だった。しかも父だけでなく、双子たちまで巻き込んでいるとは。一体どれだけ前から計算され、計画されていたのか。
「俺はちゃんとおまえに言ったはずだが? 俺は欲しいものを諦めたりしない、と」
 その言葉にハルヒは目を丸くして、それからちいさく笑った。
 惹かれたのは、その貪欲さ。そんな彼だから、好きになったのだ。
「そういえば、ハルヒ、賭けを覚えているか?」
「賭け……? ああ、『次に雷が鳴ったら』ってやつですか?」
 あの賭けは、結局うやむやなままだ。賭けに負けたハルヒが鏡夜のものになる──というのはあながち間違いでもないような気もするが、今でも意味が分からない。
「本当は、賭けの相手はおまえじゃなかったんだ」
「え?」
「おまえを守ることも出来ずに追い詰めるだけなら手を引けとさんざん言われていてな」
「父に……ですか」
「蘭花さんにも言われたし、環や馨にも言われた。大穴で、モリ先輩にも言われたよ。さすがにそれは驚いた」
「────」
 鏡夜の言葉に驚いて、ハルヒは言葉をなくす。
 あれはまだ高校生のころで、鏡夜とのことはみんなにばれてないと思っていた。自分ひとりで大丈夫だと──誰にも心配も迷惑もかけずにいられると思っていたのに、まったくそうではなかったらしい。自分で思う以上に、愛されて守られて生きているのだ。それを思い知らされる。
「きっと、いい奥さんになんてなれませんよ」
 今回の結婚で鏡夜の株が上がったとしても、今後の結婚生活でハルヒが鏡夜の役に立てるかというと、多分無理だ。ハルヒは今の仕事を辞めるつもりはないし、『鳳グループ会長の妻』としては、あまり役立たないだろう。
「おまえにそんなことは期待していない」
「……やっぱり自分と結婚しても、あんまりメリットないんじゃ……」
「メリットは、おまえが傍にいることだろう?」
 当然のような顔をして鏡夜が笑う。
 だからハルヒも、鏡夜に微笑み返した。
「もう時間だな。行くぞ」
「はい」
 鏡夜の差し出した手に、ハルヒは自分の手を重ねる。
 娘の結婚式に蘭花は張り切ってドレス姿で着飾り、その姿ではさすがに花嫁の父としてバージンロードを歩けないので、代わりに自称お父さんみたいな環が父親役をやることになっていた。今頃蘭花と共に泣き崩れて、双子たちにからかわれているだろう。そのまわりをハニー先輩が飛び跳ねて、モリ先輩がたしなめているのだろうか。
 あの優しい箱庭を、ハルヒはなくしたと思っていた。でも今、ハルヒの隣には鏡夜がいて、環が暴走して双子がからかって、ハニー先輩が笑ってモリ先輩が付き従って。
 あの頃とまったく同じというわけにはいかないだろうけれど、それでもあの愛しい箱庭は、今もここにある。夢ではなく、現実に。


 どうしても抗えない運命があることを知ってる。
 なんにも望まなければ、失うことも、傷付くこともない。

 それでも、欲しいと願ってしまった。



 ────だから、どうか、ずっと。




 END