宣戦布告


 コンプレックスであったくせ毛をウェーブにして以来、綾女は変わったと、よく周囲から言われるようになった。もちろんそれはいい意味で、以前より明るくなったとかやわらかくなったと言われ、クラスメイトと話をする機会も増えた。
 もうひとつ変わったことといえば、ホスト部に行くようになったということだ。もちろん指名相手は須王環だ。
 今日も第三音楽室を訪れ彼を指名したのだが、いつのまにか綾女はひとり席にぽつんと取り残されてしまった。テーブルの上にセットされた紅茶だけが、どんどんと冷めてゆく。
(まったく、なんだというのかしら)
 ただの部活ではあるとはいえ、一応綾女は『客』という身分であるはずだ。それなのに客をほったらかしにして、彼は一体何をやっているのか。
 肝心の須王環はというと、部屋の隅で藤岡ハルヒに何かを必死に訴えかけ、そのまわりにホスト部員たちが集まってなにやら囃したてている。こんな光景を見るのは一度や二度ではない。むしろ頻繁に見かける。
 ホスト部では時折客をほったらかしにして、部員による漫才が始まってしまうのだ。他の女生徒たちはその漫才さえ面白がっているようだが、綾女はそれを冷静に分析していた。
 漫才の発端は、たいていが藤岡ハルヒだ。彼に常陸院兄弟が何かちょっかいをかけ、それに須王環が反応をする。それを見物するためか、からかうためか、まわりにホスト部員が集まっていき……というのがいつもの流れだ。
 いつも笑顔で女性に甘い言葉を囁いてばかりいると思っていた須王環だが、最近では違う一面を見るようになった。ホスト部漫才をしているときに見かけるような、ちょっとおバカな一面だ。ホスト部──というよりは、藤岡ハルヒがからんだとき、須王環は普段とはがらりと変わってしまうのだ。
(もしかして、須王さんは藤岡さんのことを……)
 その可能性に行き当たったとき、綾女のティカップを持つ手がぶるぶると震えた。
 残念ながら、綾女には一部の女生徒たちのように、同性愛を喜ぶ性質は備わっていなかった。むしろ、規範的概念から、そのようなものは嫌忌すべきものとして考えている。自分が好意を持っている須王環が、嫌忌すべき同性愛者だということは綾女には我慢のならないことだった。
「須王さん!」
 突然の大声に、部屋の隅にいたホスト部員も、他の女生徒たちもびくりと肩を震わせる。
「な、何でしょう、綾女姫……」
「ちょっとお話がありますの、こちらへいらして!」
 環の腕をがしりと掴んで、何処かへ連れて行こうとする綾女に、彼はわずかばかりに抵抗してみせる。
「え……いやあの……綾女姫のお誘いはとても嬉しいのですが、今は部活中であり、他のお客様もいらっしゃるので、そう勝手に席を外すわけには……」
 しどろもどろになる環を、綾女は眼鏡の奥から冷たい視線で見つめた。その絶対零度のまなざしに、環は蛇ににらまれた蛙状態だ。
「須王さん、あなたは今他のお客様もいらっしゃるとおっしゃいましたが、現状、あなたは他の部員の方々とお話になられるばかりでお客の相手をしているようにはとても見えませんでしたわ。実際、私も今日はあなたを指名させていただき、共にお茶を飲んでいたはずですがあなたはほんの5分も経たないうちに席を立ち、むこうの部屋の隅で部員の方々との歓談を始められました。それできちんと接客が出来ているとおっしゃるのですか。それでしたらたいした客のもてなしようですわね。ホストというのは客をほったらかして仲間内で遊ぶことが仕事だったのかしら。どうせあなたはきちんと接客もできていないのですから、今更持ち場を離れたところで何か不都合でもあるのかしら。あなた一人がいなくなったところで何も変わらないんではありませんこと? むしろあなたがいないほうが他の部員の皆さんが真面目に接客することが出来、部にとってはむしろ喜ぶべきことなんではないかしら?」
「う……あ……」
 ほとんど息継ぎもなく一気に畳み掛けられるように述べられた言葉に、環は反論も出来ない。
「ご理解いただけました? ではちょっとこちらへ」
 しどろもどろになっている環の腕を引っ張って、綾女は第三音楽室を出た。
 ホスト部のある南校舎最上階は、第三音楽室だけでなく、その周囲にある部屋のいくつかは普段使われないままになっている。もちろん使われないからといって、埃が積もっているようなことはなく、いつもきれいに掃除がなされ、手入れがされている。
 そんな部屋の一つである、資料室と銘打たれた、本やパネルの収められている部屋に入った。桜蘭学院にしては狭い部屋の中に、文献の詰まった書架が並び、閲覧時に使用するためか、ちいさなソファがひとつ置かれている。
「あ、あの……綾女姫?」
「ちょっとここにお座りになって」
 綾女はまだ腰の引けている環を強引にソファに座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。
 第三音楽室にあるソファは大きく、三人並んで座ってもゆとりがある。けれどこの資料室にあるソファはそう大きくはないので、並んで座ると肩が触れ合うほどだった。
「突然ですけれど、須王さんは同性愛についてどう思われますか?」
「ど、同性愛……?」
「一部の女生徒などは、そのようなものを喜ぶ傾向にあるようですが、私はそうは思いませんの。現在、世界的にはそれを認めている国もあるようですし、個人的嗜好の自由ということで受け入れようという運動もあるようですが、少なくとも私はそういったものを良いとは思えません。そういえばフランスにはPACS(市民連帯契約)という制度があるんでしたわね。もちろんそれ自体は同性愛者のみのための制度ではないにしろ、多くの同性愛者がこの制度を利用しているとも聞きます。須王さんもフランスで生まれ育ってらっしゃるので同性愛には理解が深いのかしら? けれど、現在の日本において、社会一般の規範概念としてはまだ同性愛は認められておらず」
「ちょ、ちょっと待ってください綾女姫」
 とめなければいつまでも続きそうな綾女のモールストークは必死の形相の環に止められた。大事な話を途中でさえぎられ、綾女は不満そうに環を見る。
「なんですの、須王さん」
「いや……綾女姫が同性愛についてあまり良い感情を持たれていないことは分かりました。今後あの双子たちには綾女姫の前であまりに過度のスキンシップは控えるよう、よく言いきかせておきますので……」
「常陸院ご兄弟のスキンシップは、確かに行き過ぎであり、見ているだけで不快感を催すこともありますが、今は彼らのことを話しているのではありません。あなたご自身のことですわ、須王さん」
「お、俺ですか? あ〜いや、そりゃあ鏡夜とはときどきお父さん、お母さんと呼び合ってはいますが、それは決してそのような意味ではなく、ホスト部にとっての父親的存在、母親的存在という意味で……」
「そのようなことではありません! はぐらかさないでください!」
「へ……?」
 環は間抜けな声を出して、何を言われているのか分からないという顔をする。
 実際、環はハルヒが女であると知っているため同性愛などとは微塵も思っていないし、それ以前にハルヒへの恋心に気付いていないのだから、綾女が言わんとすることに気付けないのも無理はない。
 しかし、その態度は綾女からしてみれば、のらりくらりと話をそらされているようにしか感じられなかった。
「そんなふうにはぐらかして……! あなたはいつだってそうですわ、甘い言葉ばかりで、でも結局本心なんて見せてはくださらない! そのくせ態度ばかりは思わせぶりで、惑わすようなことばかり……!!」
 普段冷静でいようと努めている反動でか、綾女は一度切れると暴走してしまうことがある。今だって、最初は冷静に須王環に対して、同性愛が非生産的で世間一般には認められていないものであり、そんな感情はやめるべきだと諭そうと思っていただけなのだ。
 だがいつの間にかそれに加えて叶わない恋心への鬱積された感情が混じってしまっていた。そのことに、綾女自身気付いていたが、走り出した感情はとめられなかった。
「一体何人の女性に愛を囁いているのかしら? それで相手がどんな気持ちになるか考えたことがあって? 人の気持ちをかき乱すだけかき乱して、でも結局……っ!!」
 言葉を途切れさせ、綾女はくちびるを噛み締めた。
 一体何を言っているのだろう。彼らは『ホスト』だ。甘い夢を見せるだけ。決して、本気で愛を囁いているわけではない。ホスト部に通う少女たちはちゃんとそれを分かっていて、ひとときの甘い逢瀬を楽しんでいる。
 こんなふうに、本気になって、彼らの甘い言葉を真に受けて、それを責めるほうが間違っているのだ。分かっているのに──。
(私は、最低ね)
 じんわりと、綾女の瞳に涙が浮かぶ。自分が情けない。
 要は、同性愛などどうでもよく、嫉妬しているだけなのだ。環からホストとして儀礼的な甘い言葉しか囁いてもらえない自分が、素の顔を見せてもらえる藤岡ハルヒに、嫉妬しているのだ。そうしてこんなふうに当り散らして、みっともない。
「申し訳ありません、綾女姫。あなたをそのように哀しませるつもりはなかったのですが……」
 不意に、ふわりと優しい腕が綾女を包み込んだ。何が起こったのか、一瞬綾女は理解できない。
 隣に座っている環に抱きしめられているのだと気付くまでに、数秒かかった。そして、気付くと同時に顔といわず、耳も指先も真っ赤になった。
「あ……」
 真面目一本槍で生きてきた綾女は、こんなふうに誰かに抱きしめられた経験などない。まして、その相手は想いを寄せている須王環なのだ。抱き寄せられて、環の首元に顔をうずめる形になってフレグランスなのかかすかにやわらかい香りを認識して、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打つ。
「俺はただ、美しい女性たちには笑顔でいて欲しいと願っているだけなのです。別に惑わすとかそのような気はなく……」
「……分かっています」
 心臓は早鐘を打ちつつも、頭は何処か冷静に自分自身を分析していた。
「須王さんが悪いわけではありません、ただ私が勝手に怒ってわめき散らしているだけですわ」
 雨はきれいになる準備期間だと言ってくれたのは環だ。理不尽な怒りをぶつけても、笑顔で綾女に接してくれた。
 あの日、髪をウエーヴにしてから、前より変われたと思っていた。でも本質的なことは何も変わっていない。
 コンプレックスの塊で、プライドだけ高くて、思い通りに行かないとそれを相手のせいにしてわめき散らす。どうして他の少女たちのように、かわいらしく恋をすることが出来ないんだろう。
「綾女姫、顔を上げていただけませんか」
 環の言葉に、ちいさく首を振る。顔を上げることなどできない。きっと今、醜い顔をしている。そんな顔を環に向けることなど出来なかった。
 背に回されていた環の腕がそっと外されると、綾女の頬を彼の手が包み込んだ。ゆるい力で上向かせられると、やわらかな感触が額に落とされる。
 額に、ちいさなキスをひとつ。
 それを認識した瞬間、また綾女は全身真っ赤になった。
「綾女姫」
 頬を包み込んだまま、環はまっすぐに綾女を見つめてくる。その瞳に真正面から見つめられたら、目をそらすことなどできない。
「俺は、そんなあなたもかわいらしいと思いますよ。あ……いや、決してこれも惑わそうとかそういうつもりではなく、本心を言ってるだけなんだが……。なんというのか、不快にさせてしまったのなら申し訳ない。以前もそうだが、どうも俺は綾女姫に対して配慮のない発言をしてしまうことがあるようで」
「……いいえ、そんなことはありませんわ」
 環はいつだって、綾女の欲しい言葉をくれる。そうして正しいほうへと綾女を導いてくれる。ただ、他の人に同じような言葉を言って欲しくないと思ったり、藤岡ハルヒに見せるような表情も見せて欲しいと願うのは、綾女の自分勝手な願いだ。
 綾女は、藤岡ハルヒにはなれない。それは当たり前のこと。ホストとしての須王環ではなく、素の須王環の表情を引き出せる、彼がうらやましいだけ。
「今日は急にこんなところまでつれてきてしまい、申し訳ありません。さきほども私としたことが激昂してしまい、みっともないところをお見せしてしまいました」
「いや、気にしないでくれたまえ。綾女姫はいつも自分を抑えているようなところがあるので、たまにはそうして自分を解放してみるのもいいだろう」
 綾女は環の言葉を心の中で反芻した。
(自分を、解放……)
 それなら、これくらいのいたずらと意地悪は、許されるだろう。
「須王さん」
「え?」
 綾女は一瞬の隙を突いて、環のくちびるに口づけた。ほんの一瞬、触れ合うだけの軽いくちづけ。けれど確かに触れ合った。
「なっ……!」
 今度は環のほうが真っ赤になって固まっている。
 このホスト部キングは、常に女性に甘い言葉を囁いているくせに、実はキスをしたことなどないのかもしれない。綾女にとってもファーストキスであるけれど、環にとってもファーストキスだったらいい。真相など分からないけれど、そう思うのは自由だ。
 綾女はソファから立ち上がると、いまだ真っ赤になって固まっている環に礼をした。
「今日はこれで失礼させていただきますわ。部活中に無理に連れ出してしまい申し訳ありませんでした。またホスト部へも伺わせていただきますのでそのときはお相手よろしくお願いしますわ」
 環を置いて、ひとりで資料室を出ると、資料室の前の廊下には鏡夜が窓辺にもたれて立っていた。帰りの遅い部長を心配して迎えに来たのだろう。
「お話はおすみですか、綾女姫」
「ええ」
「そうですか。今日はもうこのままお帰りに? またのお越しをお待ちしております」
 にこりと笑うその笑顔の底は知れない。
 おそらく彼は、この資料室の中で起きたことくらい、お見通しなのだろう。
「鳳さんには怒られるかと思っていましたわ」
 この鳳鏡夜という人物とは、中等部の頃から同じクラスで、共に学級委員を務めてきた間柄だ。綾女はこの男が表面どおりの穏やかで控えめな人物ではないと知っている。学院祭や何かの行事につけて、自分のクラスに有利に働くように裏でいろいろと画策をしていたことを知っている。
 彼は表面上は常に笑みをたたえていたとしても、自分の敵には決して容赦しないのだ。
「そうですね、綾女姫が無理矢理環を押し倒して既成事実でも作ろうというならとめていたかもしれませんが……」
 そこでほんのすこし言葉を途切れさせると、鏡夜は綾女を見てちいさく笑った。
「俺もあなたと同じですよ、綾女姫」
 ほんのすこし自嘲するようなその笑みに、普段見ることの出来ない鏡夜の一面を見た気がした。
 今の綾女と同じように、自分から冷静さを奪って、理性とは違う方向へ走っていこうとする恋心に、彼も悩まされることがあるというのだろうか。
「鳳さんでもそんな悩みをお持ちになるのね。あなたは欲しいものは、なんでも画策して手に入れてしまう人かと思っていましたわ」
「……そうですね。俺と手を組みますか、綾女姫」
 鏡夜の口の端が怪しくつりあがる。
 策士の彼と手を組めば、ほとんどのことが思い通りに行くのかもしれない。あるいは、須王環を手に入れることさえ、できるのかもしれない。
 でも、それは決して、綾女の望んでいたものではないだろう。
「いいえ、やめておきます。そうして手に入れたものに、きっと私は納得しないでしょうから」
 綾女がきっぱりと断ると、鏡夜は一瞬驚いたような顔をしたあと微笑んだ。それは普段彼が見せるたくらむような笑みでも、ホスト部営業時に見せるような笑みでもなく、綾女が見たことのないやわらかな笑みだった。
「綾女姫。またのお越しを、お待ちしております」
 鏡夜は恭しく、頭を下げる。
 綾女は鏡夜に背を向けて歩き出して、すこし進んだところで振り向いた。
「ああ、そうですわ、鳳さん。勘違いはなさらないでください。別にあきらめるわけでも勝負を投げるわけでもありません。私は私なりに精一杯努力しますし、第一、あきらめると決めて簡単に想いが消えるものでもないでしょう?」
 視力のあまり良くない綾女は、眼鏡をかけていてもあまり視力が高くない。だから鏡夜の表情がはっきりと見えなかったけれど、彼は微笑んだような気がした。
「──そのとおりですね」
 また彼に背を向けて歩きながら、背後で扉の開閉する音がした。おそらくは固まったままの環を迎えに、鏡夜が資料室に入ったのだろう。
 綾女の行為を言いふらすような人ではないだろうけれど、彼の不審な態度から、ホスト部の何人かにはばれてしまうかもしれない。でもそれでも構わないと思う。
 あれは──あのキスは、宣戦布告だ。
 須王環に対しての、そして、弱い自分自身に対しての。あきらめるのではなく、投げ出すのではなく、精一杯の努力を。それで報われるとは限らなくても、いつか泣くことになったとしても。時折また切れて、みっともない態度を取ってしまうかもしれない、けれどそれさえ楽しめるように。
(私は変われているかしら?)
 そうであればいい。今はそうでなかったとしても、これから変わっていければいい。恋をする乙女は、強くなければやっていけないのだから。
 いつもは馬鹿にしていたが、今度少女漫画を読んでみるのもいいかもしれない。クラスメイトの女生徒たちと、話をしてみるのもいいかもしれない。そうして、放課後はまたホスト部へ行って、環を指名して。今日の様子からすると、明日になっても環は綾女に対し、不審な行動を取っているかもしれない。そうしたらその姿をホスト失格だとからかってやろう。
 その想像は、思いのほか楽しいものだった。明日が楽しみだ。綾女は明日に思いを馳せながら、南校舎を後にした。


 END