リバーシブル・エッジ 1
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「……そうか。日本(こっち)に戻ってくるのか」
竜崎スミレは、溜息をつくように、その言葉を吐き出した。受話器の向こうにも溜息は伝わってしまったようで、電話の相手がすこし苦笑している様子が分かった。
電話の向こうにいるのは、彼女のかつての教え子だった。
破天荒でありながらどこか憎めない生意気なその生徒に、スミレはずいぶんと目をかけていた。彼の眠っていたテニスの才能を引き出したのも、彼女だったと言ってもいい。
そんな彼は、卒業後プロテニス界へと進んだが、腕の故障により引退を余儀なくされた。その選手生命は、わずか2年足らずという短すぎるものだった。それでも『越前南次郎』という名は、聞く人が聞けば、伝説的な名テニスプレイヤーとして記憶に強く残っている名前だった。
プロテニス以外の第二の人生を歩み始めた彼は、それなりにしあわせで、それなりに順調だったと思う。もちろん葛藤や苦悩もあっただろうけれど、人生の伴侶を見つけて、新しい仕事も得て、そして──新しい家族を得て。
少なくとも、あの日までは。
「あれから5年か」
その月日が長かったのか短かったのか、スミレには正しく判断できない。5年という月日は、一体何をどれだけ変えたのだろう。一体どんな傷をどれほど癒したのだろう。
5年前、南次郎は家族と共に日本を離れ、アメリカへと渡った。国際弁護士である彼の妻の仕事の都合ということになっていたが、それが渡米の本当の理由でないことくらい、皆分かっていた。
そんな彼が、また家族と共に、日本に帰ってくるという。
しかも、今年中学生になる彼の息子は、スミレのいる青春学園に入学する予定だというのだ。
「南次郎……何故日本に帰ってくるんだい? ──いや、何故、青学(ウチ)にしたんだい?」
スミレには南次郎が何を考えているのかまったく分からなかった。
彼と彼の家族が日本へ帰ってくるのは、仕事の都合や人との付き合いなど、しかたない理由も多々あるだろう。だが、何故彼の息子の入学先が、わざわざ『青春学園』なのだろう。
彼の息子は、かつての彼同様、天才的なテニスプレイヤーらしい。アメリカの大会で、何度も優勝していると聞く。確かに青学は、何度も全国へ行っているテニスの強豪校だ。だが近辺には聖ルドルフ学院や氷帝学園など、同じようにテニスの強豪として知られる中学がある。いくらかつての恩師が顧問をしているとはいえ、青学でなければいけないことはなかったはずだ。
「分かっているんだろう南次郎。ウチには……手塚が、いる」
『もちろん分かってますよ、先生』
受話器の向こうから聞こえてくる声は、かつてと変わらずどこかおちゃらけた雰囲気をまとっていて、その内にある感情を正しく読み取ることが、とても難しかった。
「南次郎、おまえ……」
『先生。そんな怖い声出さないでくださいよ。別に俺が強制したわけじゃないんですから』
「え……?」
『あいつが──リョーマが、自分で決めたんです。青学に行くことを』
「────」
それを聞いて、スミレは言葉を失う。彼の息子、リョーマだって、青学に手塚国光がいることは知っているだろう。それなのに、彼自身が青学に来ることを望んだというのか。
5年前、泣くこともできずにいたちいさな子供。まるで何処かに心を忘れてきてしまったかのように、その大きな瞳は何も映していなかった。いや実際、あのときあの子供は心を失くしてしまっていた。
そして、泣きながら謝り続けていた子供。それはすべて自分のせいだと、誰より自分を責めていた。あの子供が悪かったわけではないと、誰もが分かっていた。それでもあの子供は自分自身を許しはしなかった。
あれから5年という月日が経ち、泣けずにいた子供は、どう変わったのだろう。あの傷は、癒されたのだろうか。だからここへ来るというのだろうか。それとも──?
『竜崎先生』
受話器の向こうから、不意に、真面目な南次郎の声が聞こえた。いつものおちゃらけた響きは消えている。
『リョーマを、よろしくお願いします。それから、国光のことも』
真摯な言葉だった。父親として息子のしあわせを必死で願う、祈りにも似た言葉だった。
「ああ──。分かっているよ」
スミレも、まっすぐにその言葉を返した。
再会が、どういう結果をもたらすのか、それはスミレにも分からない。傍にいるからといって、スミレにできることがあるのかどうかさえ。
ただひとつ、願わずにはいられない。
あの子達がしあわせであるようにと。
いつか、自分を許し、相手を許し、笑ってくれる日が来ることを。
コートの上に、ひとつふたつ、桜の淡い薄紅色の花びらが落ちていた。優しい春風に乗って、ここまで入り込んだのだろう。いつもコートは部員達によって綺麗に掃除されているが、練習中にまで舞い落ちる花びらをとめることはできない。もっともそんなことで文句を言うような者もいなかったけれど。
空は晴れ、暑くも寒くもなく、ほんのすこしだけゆるやかな風が吹いている。テニスに限らず、運動をするには絶好の日だった。
テニス部コートのまわりには人があふれていた。まるで飴に群がる蟻のように、フェンスの向こうは人波で埋め尽くされている。
不二はコート内からそれを冷たい目で見やった。そのほとんどは黄色い悲鳴をあげているバカなオンナ共で、見苦しいことこの上ない。あんな集団は騒がしく、邪魔で邪魔でしょうがない。あいつらがいないなら、どんなに絶好のテニス日和だったろう。
あんなふうに騒いでいれば、自分の品性を落とすだけだということに気付かないのだろうか。あんな姿を見せられて、好意を持つはずもない。多少なりとも好意を持って欲しいと思っているのなら、決して練習の邪魔にならないよう、静かに応援すればいいものを。それとも自分は、そんな脳のなさそうなオンナになびくようなバカだと思われているのだろうか。
(くだらない)
不二は心の中で、冷たく吐き捨てる。
けれど、心の中でどんなに罵倒し、容赦ない言葉を吐き捨てているとしても、それは表情には一切出ていなかった。笑みの形に閉じられた瞳に冷たい光は隠され、優しげに微笑む口元から冷たい言葉が出てくることはない。
不二をよく知る者でなければ、その笑みの裏側にあるものに、決して気付けはしないだろう。
「不二〜〜。俺とラリーやらね〜〜?」
ラケットを振り回しながら、菊丸が不二の元へとやってきた。
「おりょりょ? 不二機嫌悪い?」
まるで茶化すように冗談交じりで、けれど菊丸は一瞬で不二の心情を的確に見抜いた。
ずっと同じ部活仲間で、今年はクラスも一緒になったこの猫のような男は、一見お調子者のように見えて、その実誰よりも鋭かった。不二は彼のそんなところも友人としてとても気に入っていた。
「見物人、すごい人数だからにゃ〜」
菊丸は、不機嫌の理由まで見抜いていたようで、フェンスの向こうへと視線を投げる。サービス精神旺盛な彼は、そのうえフェンスの向こう側の不特定多数に向けて、手まで振ってみせる。それにともなって、またあちこちから黄色い悲鳴が上がる。彼女らは、今自分を見つめてくれたのだとでも、脳内で勝手な妄想を繰り広げているのだろうか。
「うん。まあ春だからね。新入生達もまだ物珍しいんだろう。2週間もすれば多少は静かになるだろうけど」
観衆のほとんどは新入生の女子生徒だった。もちろん上級生でも騒いでいる者はいるが、数としては減ってゆく。そのうちファンクラブや派閥なるものができて、お互いを牽制し合うからだ。まだそんな派閥などとは関係ない1年生が、はじめて見る物珍しさも手伝って、フェンスに群がっているのだ。
要は、しばらくは動物園の珍獣よろしく、フェンスの向こうから眺められるのに耐えなければいけないということだ。うっとおしく不快なことこの上ないが、害虫よろしく追い払うわけにもいかない。
「そうそう! 新入生といえば、今日新入部員も来てるんだよね! 桃が言ってたコいるかな〜〜」
急にそれを思い出したらしく、菊丸はコート内をきょろきょろと見回した。不二もその言葉に、そのことを思い出す。
「ああ。そういえば桃が、すっごい子がいるって言っていたね」
2年でありながらすでにレギュラーの座をつかんでいるひとつ下の後輩が、昨日ミーティングで集まったときに、少々興奮気味に言っていたのだ。
『すげーんすよその1年!』
なんでも、捻挫で療養中の桃城を除いたレギュラー陣が遠征に行っているあいだに、仮入部してきた1年生と試合をして、それがまたすごかったのだという。
『こんなちっこいくせにツイストサーブとかかましやがって。スピードもあるしコントロールもいいし、そのくせそれが利き腕じゃないってんですよ!』
身振り手振りをつけて、その1年生がどれほどすごかったかを、レギュラー陣に伝えようと必死になっていた。よっぽどその1年生に入れ込んでいるらしい。
青学で2年でレギュラーを取れるというのは、それだけ実力があるということだ。実際、桃城のパワーや跳躍力は誰もが認めるところだ。その桃城があれほどに誉めるのだから、よほどの1年生なのだろう。
その話を聞いて、レギュラー陣が興味を持たないわけがなかった。
「どのコかにゃ? どのコかにゃ?」
菊丸は必死でコート内に首をめぐらせている。
1年生は皆コートの端で友人同士で話をしていたりウォーミングアップをしていた。まだ学校指定の緑色のジャージも着ていないし、2・3年に比べれば格段に体も小さいから、1年生かどうか見分けるのは簡単だ。しかし、その人数はゆうに30人はいて、誰がどれだか判別できるものではない。
他の部は新入生の勧誘に必死になっているが、テニス部において新入生の勧誘などする必要はない。全国にも名の知れた青学テニス部には、多くの生徒が自ら集まってくるからだ。
そんな新入部員の半数は、厳しい練習に耐えられずにすぐにやめてゆく。また残った者も、その半数は、自分がレギュラーになることは絶対に無理だと見切りをつけてやめてゆく。2週間後には、フェンスの向こうの見物人だけでなく、新入部員の数もある程度落ち着くだろう。
だが今は、まだそんなふるいに掛けられる前で、たくさんの1年生がコート内にいた。
「なんだっけ、その子の名前。えーと。江戸前君?」
「『越前』だろう? 『越前リョーマ』」
「うわっ乾!!」
いつのまにか、二人の後ろに乾がいて、急に話に割り込んできた。データ収集が趣味なだけあって、彼はしっかりと噂の1年の名前をおぼえていたようだ。もしかしたらそのデータノートにすでに書き込まれているのかもしれない。
「乾。君、どれが『越前リョーマ』君か分かる?」
「いや、俺もまだ顔までは知らないんだが」
「ああ!! すっごい可愛い子がいる!!!」
急に菊丸が素っ頓狂な声を上げた。そのせいで、不二と乾の会話が中断される。
フェンスの向こうで見学している女子生徒の中にでも、好みのタイプを見つけたのだろうかと、不二と乾は苦笑した。けれど、次の言葉に、首を傾げることになる。
「あれあれ! 1年の新入部員だよな!」
「新入部員?」
新入部員と言うのであれば、ここは『男子』テニス部なのだから、菊丸が言った可愛い子というのは、男ということになる。女子テニス部のコートは、ここから校舎を隔てた反対側にあるし、女子マネージャーを入れる予定もない。
つい先日まで小学生だった1年生を見て、『可愛い』と表現することはある。けれど、菊丸が言っていたのは明らかにそれとは違うニュアンスの『可愛い』だった。明らかに、女の子に使うような。
何をバカなことを言っているのだと、多少呆れたように、不二も菊丸の視線の先へ目をやり──。
息が止まった。
菊丸が指差した先には、何人かの1年生と2年の荒井がいた。1年生だけでも10人近くはいただろう。
それでも、こんなに遠目でも、菊丸が誰のことを指したのか、一目で分かった。まるでそこだけ、暗闇で光を放っているかのように。
そこに、ひとりの子供が、いた。
(────)
目が惹きつけられて、離せない。
ちいさな体躯は、人垣の中にいれば、すぐに隠れて見えなくなってしまう。それでもその存在感は消えはしない。そこにいるのだと、すぐに分かる。
遠目でも十分分かるほど、その1年生は愛らしい容姿をしていた。菊丸の言葉が嘘でも誇張でもなかったのだと納得できる。だが、容姿だけなら、こんなに目を奪われることはないはずだ。綺麗な人も可愛い子も、不二はこれでもかというくらい見慣れている。それなら、どうしてこんなにも惹きつけられるのだろう。
「荒井に絡まれているのか?」
乾の言葉に、不二は不意に我に返る。ほんの数秒ではあったが、彼に意識のすべてを取られていたようだ。
冷静さを取り戻して、もう一度彼のほうを見れば、荒井が1年生達に何か文句を言っているようだった。そこに集まっていた1年生達は、上級生に絡まれて戸惑っている。
だが、そんな中で、彼だけは絡む相手など気に求めていないように、その場を離れて素振りをはじめてしまった。
まるで、気ままな猫が、身を翻すように。
「にゃにゃ〜。あのコ名前なんていうのかにゃ〜〜」
すでに一目で菊丸は彼を気に入ったようだった。新しいお気に入りのおもちゃを見つけたかのように目が輝いている。
「おーい、菊丸、不二、乾〜。手塚がくるまで、軽く打っておくか」
副部長の大石が、ネットの向こうから3人に声をかけてきた。
「はいは〜〜い。オッケー。大石ボールちょうだい」
答える菊丸は、手首でラケットをくるくると回してみせた。それは彼のテンションが上がっているときによく見られる癖だった。
そして、やる気満々といったふうで、ラケットを構えてみせる。
「菊丸のやつ、1年生にいいとこでも見せようと思っているのかね」
その張り切りように、乾もポジションにつくために移動しながら、ちいさく笑いながら言った。
その『1年生』が、ここにいる新入部員全部を指しているわけではないことくらい、不二にだってすぐに分かった。それは、多分、たったひとりだけ。
練習前のウォーミングアップのような打ち合いとはいえ、レギュラー達がラケットを握ったことに、まわりがざわめいた。視線がいっせいに不二達のいるコートに集まる。
「じゃ投げるよ」
大石にボレーの球を出されて、それをボールかごへと正確に打ち返す。
この程度のことは、レギュラー陣にとっては造作もない。1球さえも外さず、かごへと入れる。だがそのたびに、観衆からは感嘆の声があがった。
「あ、ごめん。高すぎた」
不意に、大石の打ったボールが、不二の頭上を高く放物線を描いて通り過ぎていった。打ち損ねた高すぎるボールは、長身の乾がジャンプしても届かないだろう。
(あ)
ボールの軌跡を目で追えば、その先には彼がいた。あの、目を引いて離さない1年生。
強く打った球でもないボレーだから、当たったからといって、怪我をするということもない。
(え?)
目を見張ったのは、彼がボールをよけるのではなく、ラケットを構えたからだ。
切れのいいインパクト音を響かせて、次の瞬間彼は綺麗なフォームで打ち返してきた。ボールは一直線に、ボールかごへと入る。
大石の傍らにあるボールかごは、ネットを挟んだ向こう側のコートにある。それをコートの外から決めたのだ。素晴らしいコントロールだった。
誰もがあっけにとられ、騒がしかったコート内が一瞬音を失くす。
「案外簡単だね」
まだ声変わりもしていないだろう高めの声が、静まり返ったコートに響いた。
「──っ。1年が舐めた真似しやがって!」
あっけに取られて動きが止まっていた荒井が、我に返ったように1年生に掴みかかった。
乱闘になるかと一瞬緊張したコート内に、静かな声が落とされた。
「コート内で何を揉めている」
決して声を荒げたわけではない。むしろ静かな落ち着いた声だ。だが、そこには風格や威厳というものがあって、たった一声で皆を黙らせるだけの威力があった。
いつの間に来たのか、部長である手塚がいた。
「手塚……」
「部長……」
あちこちから、尊敬と安堵にも似た声があがる。彼は部員達から、絶対の信服を受けているのだ。
手塚は、騒ぎの中心にいた1年生の姿を見つけると、眉をひそめた。
「────」
(?)
他の部員達なら、何も分からないだろう。けれど付き合いの長い不二には、手塚の様子がどこかおかしいことに気付いていた。ひそめられた眉は、何かを抑えているようにも見えた。
そして、その1年生も、手塚を見ている。
言葉が発せられることはないけれど、その視線は、何かを語っていた。何を語っていたかは、不二には読み取れなかったが。
「騒ぎを起こした罰だ。グラウンド10周して来い」
数秒のためらいののち、手塚はそう告げた。
「──ウッス」
返事ともいえない返事をして、その1年生は手塚から視線を外すとコートを出て行った。
同じくグラウンド10周を言い渡された荒井とともにその1年生が去っていってしまうと、手塚が細く息を吐いたのが分かった。まるで、今まで息ができずにでもいたかのように。
「全員ウォーミングアップ!! 2・3年は済んだ者からコートに入れ!! 1年は球拾いの準備!!」
「あーあ。あのコ行っちゃった」
菊丸は、目当ての1年がいなくなってしまい、残念そうだった。もうやる気をそがれてしまったのか、ラケットをぷらぷらと振っている。
「でもさ、さっき手塚、なんか変じゃなかった?」
「英二もそう思った?」
手塚のちいさな変化に、菊丸も気付いていたようだった。やはり、手塚の様子がおかしいと思ったのは不二の勘違いではないようだ。
「にゃんだろね? それより、あのコの名前知りたいっ!」
「彼が『越前リョーマ』だそうだ」
「うわっ乾!」
またいつのまにか、すぐ傍に乾が現われていた。この長身の友人は、身体は人一倍でかいくせに神出鬼没なのだ。
だが今は、乾の習性よりも、彼が言った内容のほうが気になった。
「それほんと?」
「あそこにいた1年達からデータを取ってきたから間違いない」
「へえ〜〜。あのおチビちゃんが『越前リョーマ』だったんだ〜〜」
噂の1年生が、さっきの子だと知って、菊丸はますます興味を持ったようだった。いたずらそうな猫目がさらに輝いている。
(……『越前リョーマ』……)
不二は、きっと今ごろグラウンドを走っているだろうちいさな人物を思い浮かべる。あと何分くらいしたら、ここに戻ってくるだろうか。またその姿が見られるだろうか。
さっきまで、多すぎるギャラリーに不快になっていた気分など、いつのまにか何処かへ吹き飛んでいた。
「不二! 菊丸! 乾! くだらない話をしていないで、さっさと練習をしろ!!」
ウォーミングアップもせずに固まって話をしているレギュラー3人に、手塚の怒鳴り声が飛んできた。自分達までグラウンドを走らされてはたまらないので、それぞれアップをはじめる。
「なーんかホント、手塚機嫌悪いね。にゃんだろ?」
菊丸が柔軟をしながらこっそりと、背中を押している不二に言った。
手塚が怒鳴るのはいつものことだが、その中に、いつもはないイラツキが混じっているのだ。
眉間のしわだって、いつもついているが、それは怒ってついているわけではない。もともとそういう顔なのと、自他への厳しさと、部を心配する気持ちが、眉間のしわとなって表われるのだ。だが今日は、そのしわもいつもと違うように見えた。怒っているのとも違うかもしれないが、不機嫌であることに変わりはなかった。
「なんか嫌なことでもあったのかな」
「さ〜? でも俺達に当たるのはやめて欲しいにゃ〜」
二人とも、まだそんなに深く手塚の機嫌の悪さについて考えはしなかった。人間誰にだって機嫌の悪い日だってあるだろうと。その原因について──さっき見た微妙な変化について、深く考えていなかった。
「でもこれから、面白くなりそうだね」
「うんうん。楽しみだな〜」
心はすでに、これからの部活に向けられていた。
全国を目指す最後の年というだけでない。いろいろな意味でとても興味を引く1年生の存在が、心を占めていた。
これから、彼との部活がはじまるのだ。彼はどんなテニスをするのだろう。どんな姿を見せてくれるのだろう。この部にどんな変化をもたらしてくれるのだろう。考えるだけで、心が躍る。
きっと今年は楽しくなるだろう。
きっと。
優しい風に乗って、またひとつふたつ、桜の花びらが足元に落ちてくる。この春の陽射しにも似て、不二の心は期待に満ちあふれていた。
To be continued.
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