リバーシブル・エッジ 10
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今日も、明るい朝の陽射しが世界を覆っている。天気は快晴とまではいかないが、雨の心配はないくらいに晴れている。初夏の太陽は、薄曇りでさえまぶしい。
明けない夜はない、と言ったのは、どこかの詩人だったかそれとも哲学者だったか。不二はふと考え、それがひどくどうでもいいことだと気付いた。そんなことは、誰に言われるまでもない、ただの事実でしかない。
闇に怯え夜明けを待つ者にとっては、それは希望の言葉だろう。だが、夜明けを望まない者にとっては、絶望の言葉だ。どんなに朝など来なければいいと願ってみても、やはり朝は来てしまうのだから。
(──くだらない)
どうでもいいことばかりの自分の考えに、不二は、朝だというのにすでに何度目かになる溜息をついた。
目の前には、いつもの朝練前の風景が広がっている。朝練開始時間を前に、ほとんどの部員はすでにコート上にいて、ネット張りをしたり準備運動をしたりしている。
まるで、いつもどおりの風景。
ただひとつ違うのは、──不二の隣にリョーマがいないということだけ。
不二はまた溜息をついた。
「あっ、不二おっはよ〜〜」
コートに入ってきた菊丸が、不二の姿を見つけて寄って来る。そして近くをぐるりと見渡し、リョーマがいないことに首をかしげた。
「不二今日もひとり? てことは、おチビ今日も朝練休み?」
その問いに、不二はちいさく苦笑する。不二の傍にリョーマの姿が見えないと、休みと思われる──裏を返せば、不二の傍にリョーマがいることが当たり前だと思われている、その事実に。
実際、リョーマと付き合い始めてからは、いつも傍にいた。傍にいたのに。
「……さあ、僕も知らないんだ」
菊丸の問いに、不二は曖昧に答えた。それに再び菊丸は首をかしげる。
「? なんで?」
菊丸の疑問は当然だった。不二は毎朝リョーマを迎えに行っているのだから、リョーマが休みかどうか知らないはずがない。
「──今朝は、迎えに行ってないから」
「え?」
猫のような瞳をさらに大きくして、菊丸は不二を見つめてきた。
「不二、おチビと、なんかあった?」
心配そうに尋ねてくる菊丸に曖昧に笑い返して、不二はそれ以上何も言わなかった。菊丸もその雰囲気を察して、それ以上何も訊いてはこなかった。
不二は今朝、リョーマを迎えに行かなかった。いや──行けなかった。
(おチビと、なんかあった?)
菊丸の言葉が、頭の中を回る。それと同時に、わざと考えないようにしていた自分の行動を、思い出してしまう。一度思い出してしまえば、それは不二の頭の中を回る。壊れたメリーゴーラウンドのように。軋んだ音を立てながら、それでもとまることもなくぐるぐると。
──昨日。
リョーマに、無理矢理に、キスをした。
キスくらい、と言ってしまうのは、勝手な言い分だ。程度の問題ではなく、リョーマを傷つけたことには変わりない。まして、彼はまだたった12の子供なのだ。それを力で押さえつけて、無理矢理くちづけた。立派な『暴力』だ。
突き飛ばされた瞬間に見えたリョーマの表情は、明らかに怯えていた。あのいつも強気な大きな瞳は、泣きそうに揺れていた。そして不二を拒絶して走り去ったちいさな背中。追いかけることもできずに、彼の姿が見えなくなるのを、ただ立ち尽くしたまま見つめていた。
(リョーマ)
どんな顔をしてリョーマに会えばいいのか分からなくて。リョーマがどんな顔をするのか見るのが怖くて。不二は今朝、リョーマを迎えに行くことができなかった。リョーマの家に行かず、そのまま学校へ来てしまった。
(──どうしてあんなことをしてしまったのだろう)
不二はリョーマの『恋人』になることを望んたが、それは別に欲望のためではなかった。キスしたいとか抱きたいとか、そんなことを思っていたわけではない。
リョーマが同性だからというより、もとより不二は、他者に対して性的関心が薄かった。今までだって、女性と付き合ったことはあるし、そういう経験がないわけでもないが、自分から進んでしようと思ったことは別にないのだ。
不二には他人に触れたいと思うことの意味がわからない。たしかに多少の快楽は得られるけれど、だったらテニスをやっているときのほうが、強い快感がある。今までは、付き合った相手がそう望むから『恋人の義務』的にキスすることも抱くこともあったけれど、自分から望んだことは、おそらく一度としてないのだ。
でもあのとき。
『なんにも、知らないくせに!』
リョーマは不二を拒絶した。
不二を突っぱね、手塚を擁護した。どんな意味合いであれ、リョーマはあのとき、不二よりも手塚を選んだのだ。
そのことに、瞬間的に頭に血が上った。
気付けば無理矢理くちづけていた。
どうしてあのとき、あんな行動を取ってしまったのか。今冷静に理論立てて説明してみろと言われても、不二には分からない。もとより、生まれてこのかた、あんな激情を持ったことすら、おそらくは初めてなのではないだろうか。
自分の中に、望んだものはどんな手段を使ってでも手に入れようとするような醜い執着心があることは、自覚している。けれど、そんな執着心も、いつもどこか冷静な冷ややかな感情だった。
望んだものがあるのなら、冷静に状況を見極めて、用意周到に罠を張るように。計算高い蜘蛛が、蝶を捕まえるために、朝露に光る美しい糸でひそやかに巣を張るように。いつだって、そうしてきた。
それなのに、どうしてあのときだけ、自分の感情をコントロールできなかったのだろう。
あんな行動は、リョーマを傷つけると、分かっていたのに。
あんな行動をすれば、リョーマに拒絶されると分かっていたのに。
「練習をはじめるぞ! 全員コート内に集合!!」
手塚の声がコートに響き渡る。
その声に、不二は沈みかけていた思考を引き上げられた。
整列するために、蟻のように散らばっていた部員達が真ん中へと集まってくる。そのなかに不二と菊丸も続いた。
「えーと、いない部員は……」
副部長の大石が、出欠を取るために並んだ部員達を見回す。
いくら部員が多いとはいえ、全員でも30人程度だ。仮入部の新入生が大勢いた頃ならともかく、今は数も落ち着き、わざわざ点呼で出席を取ることもない。
「……越前が来てないな……」
たった8人しかいないレギュラーであり、ただでさえ目立つ存在のリョーマの不在は、すぐに大石の目にとまった。
「不二。越前は今日も休みかい?」
大石は前列にいた不二に問い掛けてきた。
さっきの菊丸と同じようなことを問い掛けられて、不二の眉が困ったように歪む。
ここで『知らない』と言ってしまうことは簡単だが、そうしたら、菊丸が気付いたように、手塚や大石にも、不二とリョーマのあいだに何かあったと気付かれてしまうだろう。
菊丸は気を利かせてそれ以上何も訊いてはこなかったけれど、彼らは違うかもしれない。何があったのかと、問い詰めてくるかもしれない。──特に、手塚は。
不二がどう答えようか迷っていると、コート入り口のフェンスの扉を開ける音が響いた。今頃やってくる人物に、並んだ部員達の視線が向けられる。
「すみません、遅くなりました」
息を切らせながら入って来たのは、リョーマだった。急いで来たのだろう。頬が上気している。頬の桜色が鮮やかだ。
リョーマのそんな姿を見るのは久しぶりだった。遅刻常習犯のリョーマは、以前はいつもそんなふうに現われていたが、不二と付き合いだしてからは、遅刻することもなかったから。
「遅いぞ、越前」
「まあまあ手塚。まだ練習は始まってないんだし、これくらいは大目に見てあげようよ」
眉間のしわを増やしながら言う手塚に、横から大石がフォローを入れる。
リョーマは手塚と大石にちいさく頭を下げると、後方の一年生の列へ加わった。
「じゃあだいたいそろったようだから、今日の練習メニューの説明をするよ」
手塚と大石の横に乾が現われて、練習メニューの説明をしていく。けれど不二の耳にはそんなものはなにひとつ入ってこなかった。
斜め後ろにいるリョーマへと視線を向ける。だがリョーマは説明を続けている乾の達のほうを見ていて、不二の視線に気付かない。それでも不二が見つめていると、視線に気付いたのか、ふとリョーマが不二のほうへ視線を向けた。
一瞬、目が合う。
だが次の瞬間、リョーマはすぐに視線をそらしてしまった。うつむき加減のその顔は、帽子のつばが邪魔をして、その表情を見ることができない。
(リョーマ)
視線をそらされてしまったことに、わずかな痛みを感じる。
昨日のことを、まだ怒っているのだろうか。もうすでに嫌われてしまっただろうか。
今朝、迎えに行かなかったことを、リョーマはどう思っただろう。彼も不二と顔を合わせたくないと思っていて、迎えに来なくてちょうどいいと思っただろうか。
彼が朝練に遅れてきたのは、ただ単にいつもの迎えがないから寝坊したのか、それとも──不二が迎えにくるのを、時間ぎりぎりまで待っていたのか。
(──まさかね)
あまりに都合のいい自分の考えに、不二は自嘲する。
「練習メニューの説明は以上。何か質問等あるかな?」
いつのまにか説明は終わっていて、乾が並んだ部員達を見回す。けれど誰からも質問や意見は出なかった。
「では練習を開始する!」
手塚のひとことによって、並んでいた部員達がまたそれぞれのコートへ散りはじめる。
球拾いのためにコートを出て行く1年生達とは違い、レギュラーであるリョーマはコート上に残っていた。
このままここでリョーマを無視してしまったら、タイミングを逃して、もう二度とリョーマとは話せないような、そんな錯覚を感じる。それは大げさではあるけれど、あながち間違いでもないだろう。話すなら、今しかない。不二は誰にも気付かれないよう一度ちいさく深呼吸をすると、リョーマへと近づいていった。
「リョーマ君」
不二の呼びかけに、ちいさくリョーマの肩が震えた。また、不二の胸が痛む。
けれどそれに気付かないふりをして、不二はリョーマへと近づいた。
「ごめんねリョーマ君。今朝迎えに行かなくて」
精一杯普通の振りをして話し掛ける。
「……っす」
リョーマは戸惑ったような、困ったような顔をして、それだけを短く返した。不二の行動を、警戒しているようにも見える。いや実際、警戒しているのだろう。それだけのことを、不二はした。リョーマの信頼を、裏切るようなマネを。
けれど、その警戒さえ押しのけるように、さらに笑みを深くした。
「だけど帰りは一緒に帰ろうね」
「……っす」
ふと、視線に気付いて顔を上げれば、手塚がいた。気遣わしそうに、こちらを見ている。リョーマが心配なのだろう。
また不二の中に、黒い感情が湧きあがってくる。世間一般的な名前を付けるのなら、それは『嫉妬』というのだろう。
頭では分かっているのだ。
5年前の事件のとき、リョーマと手塚のあいだに一体何があったのか、知っているわけではない。けれど、二人は5年前の事件をまだ引きずっていて。それはお互いの心に消えない傷として今も残っているのだろう。
そして今、それをすこしずつすこしずつ癒そうとしているのだろう。
それと不二とリョーマが『恋人同士』であることは、別問題だ。
たとえば不二にだって、兄弟がいる。リョーマと付き合っていても、姉の由美子や弟の裕太に何かあれば、不二はそのことを気にかけるだろう。状況によれば、リョーマよりも兄弟を優先するかもしれない。それと同じようなことだ。
そう分かっているのに、湧き上がるこの感情を抑えられない。醜い独占欲。
どうして、もっと優しい人間に生まれてこなかったのだろう。
上辺だけの優しさや人当たりのよさなら、誰もが不二がいちばん優しいと言うだろう。そう見えるように、生きてきた。けれどそれは本当に優しいわけではない。むしろ不二は、他者への優しさとはいちばんかけ離れている。それは少し深く付き合った者なら、すぐに分かるはずだ。
もっと、本当の意味で優しい人間だったなら。
たとえば大石や河村や海堂のように。まるで『優しさ』の代名詞のような仲間達を思い浮かべる。男でありながら『母』とまで形容されるほどの大石や、普段はいつも柔和な笑顔で自分よりも他人を気遣う河村や、見た目は怖いと思われているがそれに反比例するように誰より繊細で優しい海堂や。
彼らのような本当の優しさを持っていたなら、リョーマを傷つけることなんて、なかっただろうか。
大切に大切に、硝子細工の芸術品を扱うように。傷ひとつつけることもなく。いまだ殻の中で眠る雛鳥を、そっと包み込んであたためるように。
(リョーマ)
どんなにテニスが上手かろうと、どんなに生意気な態度をとっていても、結局のところ、彼はまだ12歳の子供でしかないのだ。傷ついた、ちいさな子供。
いつかきっと、傷つける。
この想いは、このちいさな子供を、傷つけてしまう。
どんなに優しくしようと思っていても、湧き上がる醜い嫉妬や独占欲に支配されて。肉食獣が、獲物の小動物を欲望のままに食い千切るように。思うままに切り裂いて、傷付けて、壊してしまう。そんなことを望んでいるわけではないのに。
(今ならまだ、間に合う)
この想いが、彼を傷付けてしまう前に。今ならまだきっと、引き返せるから。
だから。
帰り道、不二はリョーマとふたりきりになったとき、言った。
付き合おうと言い出したときと、まるで同じほどの軽さで。
「ねえリョーマ君。もう、やめよう?」
急に言われた、目的語のない言葉を理解できなかったようで、リョーマは首をかしげて不二を見上げてきた。
たとえばそんな表情が、不二にどんな感情を起こさせるかなんて、カケラも気づくこともなしに。
「もう、『恋人』、やめよう?」
告げられた言葉は、まるでいつものようにたわいない話をするのと同じ響きで、リョーマは言われた内容を理解するのにほんのすこし時間がかかった。
(やめる……不二先輩の『恋人』をやめる……)
言われた言葉を頭の中で反芻すると、それはゆっくりとリョーマの脳に染みてくる。傷口に涙が染みるような、軽い痛みを伴って。
付き合おうといわれたのもひどく唐突だったけれど、別れもひどく唐突だ。
けれど、不二が何故急にそんなことを言い出したのか。理由なんて、思い当たることは山のようにある。ああ、『理由』なんて、大げさなものですらない。不二がリョーマに付き合おうと言い出したのは、もともとただの『興味』で、それが薄れた。それだけのことだろう。
不二の顔を見上げても、まるでいつもと変わらないように見える。優しげな笑顔はいつもと同じだ。
昨日、無理矢理キスをされて、悩んでいたことさえ莫迦らしくなる。あれも不二の気まぐれのひとつだったのだろう。──あるいは、キスを拒絶したことが、この別れの引き金になったのかもしれない。キスひとつであんなに抵抗するような『恋人』は、別にいらないと。だから今朝も、迎えに来なかったのかもしれない。
いつかこんな日が来ると分かっていた。付き合おうといわれた最初から分かっていた。この『恋人ごっこ』は、不二が飽きるまでのことだと。だからこそ、リョーマもそれを了承した。
その日が来たというだけのことだ。ただそれがあまりに唐突で、前触れがなかったというだけで。
ただあまりに──付き合っているあいだが、しあわせだっただけで。
付き合おうと言われたときも、前触れなんてなかった。だから、こうして別れを切り出すのも唐突なのだろう。
「わかりました。不二先輩」
リョーマも、同じように軽く、それを受け入れた。
不二の目が軽く見開かれる。拒否されるとでも、思っていたのだろうか。
(────)
告白されたときと、とても似ている状況だと思った。
あのときも突然告白されて、リョーマがそれを肯定したら、彼は驚いた顔をしていた。
今も同じ。突然別れを切り出されて、リョーマが肯定して、それを驚いている。なんて、バカげた関係。
もうすこしマトモな告白と別れだったら、せめて理由を問いただすなり、戸惑うなり、きっとできたのに。──イヤだと言うことも、きっとできたのに。
はじまりも終わりもあまりに簡単すぎて、だからリョーマは、それを否定することができない。
「じゃあ明日からは、朝うちに来ないんですよね」
「うん、そうだね。『恋人』でもないのに朝迎えに行くってのもね」
「帰りも、別に一緒じゃないですよね」
「……まあ帰りくらいは、たまには一緒に帰ろうよ。ほら、『先輩と後輩』としてさ」
「いいっすよ」
話しているうちに、ふたりはリョーマの家の前へ着く。
ここが、終点。『恋人』なのは、今日、ここまで。ここで挨拶をして別れたら、そこから先は『先輩と後輩』。
リョーマは肩にかけたテニスバックの取っ手を強く握る。手も声も、震えたりなんかしないように。ちゃんと別れられるように。みっともなくなんか、ならないように。
「送ってくれてありがとうございました。不二先輩」
「ううん。いいんだよ。じゃ、また明日。リョーマ君」
まるで、ついこのあいだまでと同じように、笑ったまま、いつもどおりの挨拶をして、不二はリョーマに背を向けた。まるでためらうこともなく。
リョーマは去ってゆくその姿を見つめていられなくて、自分も背を向けた。逃げるように、家の中へ走りこんだ。──だからそのあと不二が振り返ったことを知らない。
こうして、リョーマは不二と『恋人同士』ではなくなった。
誰かを好きになるということも、『恋』という気持ちも、正しく知らないままに。自分の気持ちにも、相手の気持ちにも、いまだ、気付かないままに。
To be continued.
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