リバーシブル・エッジ 11


 リョーマはぼんやりと目をあけた。寝起きでぼやける視界で、視線の先にある、波打つような天井の木目を見つめる。何処までが夢で、何処からが現実なのか、一瞬わからなかった。
 朝の陽射しの差し込む部屋の中はすでに明るい。耳を澄ませば窓の外からは、かすかに鳥のさえずる声が聞こえてくる。──朝だ。何も変わらない、いつもどおりの朝。
 いつもより早く、目が覚めてしまったようだ。枕元の目覚し時計を手にとって見れば、まだアラームが鳴るまで余裕があった。こんなことはめずらしかった。大抵は、目覚ましが鳴っても起きないか、昔の夢を見て飛び起きるかのどちらかだから。
 もっとも、最近は、目覚ましが鳴ったら起きるようになっていた。目覚ましが鳴ったら起きるなど、普通のことのように思えるが、ねぼすけのリョーマにとっては、それは特記するほどすごいことだった。毎朝迎えに来てくれるひとがいるのに、寝坊して遅れるのは悪いから。その気遣いが無意識でもリョーマを起こしていたのだろう。
(──不二、先輩)
 いつも迎えに来てくれていたひと。その笑顔を思い出す。それはとても綺麗で優しげなものだけれど、いつもいつも笑顔ばかりで、その裏の感情が読み取れない。付き合おうと言われたときも、別れようと言われたときも、どちらも同じ笑顔だった。

『もう、やめよう?』

 昨日不二に言われた言葉が、頭の中によみがえる。アレも一応『別れ話』と言えるものなのに、口調だっていつもと同じで、あれはまるで夢のような気さえしてくる。あるいは、不二の意地悪な冗談かもしれない。不二はリョーマにとても甘いけれど、同時にすこし意地悪でもあるから、そんなことを言ってリョーマの反応を楽しむのだ。
 ──そうだったなら、どれだけいいだろう。
 もしそうなら──不二が『ビックリした? リョーマ君?』といつもの笑顔で言ってきてくれたなら。そうしたらリョーマはちょっと拗ねてみせて悪態をつきながら2週間分のファンタを要求して、それから──。
(俺も、何考えてんだか)
 おおきく溜息をつくとリョーマはゆっくりとベッドから起き上がった。まだ鳴る前の目覚し時計を止めて、朝練へ行く仕度をはじめる。
 こんなところで妄想に浸っていても意味はない。不二とは昨日別れたのだ。そしてリョーマはそれを了承した。今日からただの先輩後輩に戻る。それだけだ。
「おはようリョーマ。ちゃんと起きられたのね」
 着替えて階下に降りると、朝食の準備をしている母親が声をかけてきた。
「うん。おはよう」
「もうすぐ朝食できるから、待っててね」
 今日は洋食のようで、テーブルの上にクロワッサンが用意されていた。キッチンからは、おそらくはベーコンエッグか何かを作っているであろう音と匂いがする。
 リョーマはぼんやりと、ダイニングテーブルに肘をついて、その上に顔を乗せたまま、窓から見える庭の景色を見つめた。空には薄く雲が覆っている。けれど雨が降る気配はない。最近は晴れるととても暑いから、部活にはこのくらいの天気がちょうどいいのかもしれない。
 いくら最近遅刻しなくなったとはいえ、こんなふうに朝、時間に余裕があるのはめずらしかった。目覚ましで起きるようになったとはいえ、寝られるだけ寝ていたいから、起きる時間はいつもぎりぎりだった。大抵は、ゆっくり味わうこともなく朝食を掻きこんで家を出るのだ。
(不二先輩も、今頃ゆっくり朝ごはんとか食べてるのかな?)
 不二がリョーマを迎えに来ないのなら、かなり時間的な余裕が出来るはずだ。家族とゆっくり朝食を取ることも、もうすこし寝ていることも出来るはずだ。逆に言えば、今まで不二はそれだけの時間をリョーマのために費やしてくれていたということだ。
(────)
 不二は今何をしているだろう。やっぱり別れてよかったと、朝の時間的余裕を楽しんでいるのだろうか。
 目が覚めたときから、思い浮かぶのは不二のことばかりだ。何故こんなに、彼のことばかり考えているのだろう。
「なんだリョーマ。こんなところで寝てんじゃねえぞ」
 ダイニングテーブルに突っ伏したリョーマに、ちょうど起きてきたらしい南次郎が声をかける。朝だというのに、手にはすでに新聞と一緒にいかがわしい雑誌が握られている。
「なにやってんだおめえ」
「……別に」
「暗えじゃねえか。なんだ、恋人にでも振られたか?」
「…………」
「──って、マジかよオイ」
 南次郎の言葉にいたたまれなくなって、リョーマは突っ伏していた顔を乱暴に上げると、鞄を掴んでダイニングから飛び出した。跳ね飛ばされた椅子が大きな音を立てる。一瞬、驚いたような、気まずそうな南次郎の顔が目に入ったけれど、かまっている余裕はなかった。
「リョーマ!? 朝ごはんは!?」
 大きな音に驚いたのだろう。キッチンから母親が顔を出して、出てゆくリョーマに問い掛けてくる。
「いらない! いってきます!」
「リョーマ……!」
 心配そうな声が後ろから飛んでくるけれど、振り返ることも、足をとめることも出来なかった。
 ああ。こんな態度をとったら、母親が心配する。南次郎だって、軽口を叩いてしまったことを気に病むだろう。もっと普通の顔をしなければいけなかったのに。なんでもないことのように、受け流さなければいけなかったのに。
 南次郎は、ただの冗談で話を切り出してきたのだ。彼が昨日、不二とリョーマのあいだで何があったかなど、知るはずもない。むしろ、どこか落ち込んでいるようなリョーマを慰めようとしてくれたに他ならない。だから、『親父にはカンケーないね』とか『エロ親父。そういうことしか頭にないのかよ』とか、いつものように、いつもの口調で返すべきだったのだ。
 心配をかけないように、気付かれないように。それが、5年前から、リョーマが心がけていることだった。
 そしてそれは、いつもちゃんとうまく出来ているはずだった。今までは。
 不二との『恋人ごっこ』が終わったくらいで、何をそんなに、動揺しているのだろう。
 家を出ても、門に人影はない。不二は、いない。
 いつもより早い時間ではあるが、いくら待ってみたところで、不二は来ない。ちゃんと分かっている。
 それなのに、何を期待しているんだろう。
 別に何が変わるというわけでもない。ほんの数週間前に戻るだけだ。
 短い間の『恋人ごっこ』。十分楽しかった。いろいろなものを奢ってもらったし、一緒にいて楽しかった。こちらにメリットがなかったわけじゃない。
 前と同じに戻るだけだ。それなのに、奇妙な喪失感。何をなくしたわけでもないはずなのに。
 リョーマはひとりきりで、学校へ向かった。ひとりで歩く道のりは、いつもより長いように感じられた。
 学校に着いて、部室に入ると、そこにいた不二と目が合った。
「あ……」
 不二がいても何らおかしくはないのに、何故だかリョーマは呆然と不二を見つめてしまった。
 そんなリョーマに、不二はいつものように笑いかける。
「おはよう、越前君。今日は遅刻じゃないんだね」
「……おはようっす」
 いつもと変わらない笑顔。まるで普通の様子に、リョーマは戸惑ってしまう。
 ここが部室でなく、いつものように家の前だったなら、やっぱりあれは嘘だったのだと錯覚してしまうかもしれない。いや、違う。いつもと同じではない。なぜなら不二は。
「でも、もう時間だね。越前君も早く着替えないと、遅刻になっちゃうよ?」
 綺麗な笑顔も、優しげな口調も、なにひとつ変わらないのに。
『越前君』
 不二はリョーマをそう呼んだ。昨日までは『リョーマ君』と呼んでいたのに。
『恋人を苗字で呼ぶのも変だよね。名前で呼んでもいいかな』
 不意に、不二の言葉を思い出す。付き合うことになった日に言われた言葉。あのときから、不二のリョーマに対する呼び名は変わっていた。ただの後輩から、恋人としての呼び名に。
 そうだ、あれは、恋人同士だったからこそ、そう呼んでいたのだ。恋人でなくなった今、その呼び名は必要ないのだ。もう、彼にそう呼ばれることはない。
 特に何が変わったわけでもない。不二が急に冷たくなったとか、嫌なことをされたわけでもない。変わったことといえば、朝の迎えがなくなったことと、呼び方が変わったこと。それだけ。
 それなのに、何故こんなに胸が苦しいのだろう。
(不二、先輩)
 ──たとえば。
 どんなふうだったなら、あともうすこし、不二の『恋人』を続けられたのだろう。
 もっと素直だったら。もっとわがままを言わなければ。たとえばキスやそれ以上のことをされても、拒んだりしなければ。
 女々しい自分が嫌になる。そんなことに意味はない。都合のいい玩具として気に入られても、そんなことでは意味がない。
 ──不二が好きになってくれなければ。

(──え?)

 浮かんだ自分の考えに戸惑う。自分は一体、なにを思ったのだろう。
(──違う。しっかり、しなくちゃ)
 自分を叱責する。こんな弱い考えではダメだ。もっと強くならなければ。
 弱い自分が嫌だった。兄が殺されても何も出来ずにいたあのときと同じ。それでは嫌なのだ。ダメなのだ。
 強くなりたいと、望むのに。

『大丈夫だよ』

 優しい声が、脳裏に響く。何故だかそれは、お守りのように、リョーマの心の中に存在していた。弱いリョーマを優しく包んで、励ましてくれる。
 けれどあのとき抱きしめてくれた腕は、今はひどく遠かった。



 昼を過ぎ、放課後の部活の時間になっても、薄く雲の張った天気は変わらなかった。夏が近づき暑くなってきたこの季節に、この天気はちょうどいい。暑すぎ寒すぎず。多少湿気が多いような気がしないでもないが、不快になるほどではない。晴れ渡ったまぶしい陽射しのもとより、こんな日のほうが絶好の部活日和だろう。
 都大会も間近に迫った今、こんなときにこそ練習にさらに身を入れねばならない。手塚は身を引き締めようとする。けれどそれはうまくいかなかった。
 ほとんどの部員はいつものように練習に励んでいる。けれど部員達の一部は、どこか練習に身が入らないように、集中力が欠けていた。しかもその一部というのが、手塚自身を含めたレギュラー数人なのだ。
「……手塚あ〜〜」
 手塚のまわりで何か言いたげにそわそわしていた菊丸が、たまらなくなったように声を上げた。
「うるさいぞ菊丸。練習に集中しろ」
「だけどさ、だけどさ〜」
「菊丸。グラウンド20周行って来い」
「うう〜〜」
 手塚の言葉に、菊丸はうなりながらもコートから出てグラウンドに向かう。いつもならもっと文句を言いそうなのに、今日は何も言わずに走るのは、ここにいるといたたまれない空気を感じてしまうからだろう。
 菊丸が何を言いたいのか、手塚にも分かっていた。いたたまれないような気持ちは彼も一緒だった。ただ、手塚は『部長』として、その責任感からこの場を保っているのだ。
 いたたまれない空気をかもし出しているのは、リョーマと不二だ。
 ふたりの様子がおかしいことは、手塚も朝から気付いていた。
 ついこのあいだまで、不二はリョーマにこれでもかというくらい構っていたのに、今日は何故か全然接触がないのだ。おそらく、何も知らない者は、何も気付かないだろう。けれど二人が付き合っていると知っている手塚から見れば、奇妙な光景だった。
 そして、リョーマも不二も、お互い気付いていないようだが、どこかピリピリした雰囲気を出していた。今、不二やリョーマに触れたら、静電気のほうに火花が飛んで弾かれるのではないだろうかと思わせるほどに。
 お互いが気付かないのは、お互いの前でだけは普通のふりをしようとしているからなのだろう。その反動で、他の者には張り詰めた空気が強くなってしまうのかもしれない。
 他の何も知らない部員なら、「今日、リョーマはいつもより機嫌が悪いようだ。ついでに不二先輩もあんまり機嫌よくないらしい」程度にしか思わないだろう。おそらくその関連性など気付かないだろう。
 だが、ふたりの関係を知っている者からすれば、ふたりの間に何かあったことなど一目瞭然だった。
 菊丸も大石も、心配げな視線をふたりに送っている。特に不二と同じクラスである菊丸は、この一日機嫌の悪い不二と一緒にいて、かなり神経をすり減らし参っているようだった。
 ただの喧嘩なら、こんな雰囲気にはならないだろう。それなら何があったのか。
 そんなものは当事者間の問題であるだろうし、第三者が口を挟むことでもないと分かっているが、それでも手塚はリョーマが心配だった。部活中はけじめとして私情を持ち込むことは出来ないが、手塚はこのままほおっておく気はなかった。
「リョーマ」
 部活後、手塚はひとりでいるリョーマに声をかけた。いつもなら、帰りは不二と一緒のはずだったのに、今日は彼はひとりだった。
 手塚に呼ばれて、どこか驚いたようにリョーマが振り向く。それはそうだろう。手塚から話し掛けるなんてことは、滅多にない。以前一度同じように帰りに呼び止めたとき以来だ。
 それに手塚は『越前』ではなく、昔のように『リョーマ』と呼んだ。部活中はけじめをつめなければいけないが、今は部活後だ。それは彼なりの決意の表われだった。リョーマとちゃんと向き合うための。リョーマは嫌がるかもしれないが、手塚はもう逃げないと決めたのだ。みっともなくても、はいつくばっても。
「……部長」
「リョーマ。不二と何かあったのか?」
「別れたんす」
 あっさりとしたリョーマの答えに、手塚は驚きに目を見開く。つい先日まで、あんなに仲がよさそうだったのに。別れたほうがいいと言う手塚に対して、あんなに反発したのに。いきなり何故。
「──俺のせいか? 俺が言ったから」
「違います。部長は関係ないです」
 手塚に対する『部長』という呼び名を、リョーマは崩さない。
「部長が言ったとおり、俺と不二先輩は、別に好きで付き合ってたわけでもないし。だから」
 手塚は、目の前の自分よりちいさな子供を見つめる。頭ふたつ分はちいさな子供は、言い訳のように、あるいは言い聞かせるように、懸命に言い募っているが──自分が泣きそうな顔をしていることに、気付いていないのだろうか。
(リョーマ)
 あの日から、リョーマはいろいろなことを諦めるのがうまくなったと思う。それは物であったり感情であったり、あるいは、自分の心であったり。
 5年前までは、多少意地っ張りでひねくれていても、歳相応の可愛らしい子供だったのに。今の小生意気というよりは大人びた態度は、あの事件の影響だ。
 失くすことを恐れる子供は何も欲しがらない。
 ファンタだとかお菓子だとか、どうでもいいものは欲しがるくせに、本当に欲しいものや大切なものを欲しがらない。そのくせ、それをまわりに気取らせないように、クールな態度をとる。最初から、欲しいものなんてないとでも言いたげに。
 まだ、たった12の子供が。
「リョーマ」
 手塚は、自分の胸のあたりの高さにあるリョーマの小さな頭に手を載せた。跳ねる猫毛をそっと撫でる。
「おまえはどうなんだ?」
「え?」
「おまえは不二が好きなのか?」
「────」
 くちびるを噛むようにして何も答えないリョーマに、少し屈んで目線の高さを合わせる。昔、いたずらをしたリョーマを諭すとき、いつもこんなふうにしていた。
「リョーマ。ちゃんと考えろ。不二が、好きなのか?」
「──だけど」
 不意にリョーマの口からこぼれた接続詞。つながっていないようで、つながっている言葉。失うことを恐れる子供。
「『だけど』じゃない。好きか、嫌いか、それだけを答えろ」
 リョーマの大きな瞳が、ちいさく震える。
「俺は──」
 肉食獣に追い詰められた小動物か、死刑宣告を待つ罪人のように、リョーマはその肩を震わせる。
「……──」
 リョーマのくちびるが何かを言いかけたが、それが言葉になる前に、リョーマは手塚にきびすを返して走り出した。
「リョーマっ!」
 伸ばされた手塚の手を振り切って、リョーマは走ってゆく。
 手塚はそれを、大きな溜息と共に見送ることしか出来なかった。


 To be continued.

 続きを読む