リバーシブル・エッジ 12
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夕暮れが近づき、薄く広がった雲が夕日を淡く通して、灰色でも朱色でもない微妙な色合いを作り出していた。灰色は闇へとつながっているのに、それさえも綺麗だった。
学校より決められた部活の時間はとっくに過ぎ、誰もいなくなったテニスコートに、それでもボールを打つ音が響く。ここ連日、練習が終わったあと、不二は自主練と称してコートに残っていた。通常とは違う回転をかけられたボールが、不思議な軌道を描きながら、誰もいないコートに打ち付けられる。
練習熱心な海堂などは別として、普段不二がはこうして残ってまで練習することはない。もともと通常のメニューは身体に負担がかからないよう調整されていて、それ以上無理にやれば身体に支障が出ることがあるからだ。
けれど、今は。
球出しをしてくれる人もいないし、打ち返してくる相手もいないから、必然的にサーブのみの練習となる。練習内容としても、あまり効率がよいとはいえない。それでも不二は、ひとり練習を続けていた。
今は、何かに打ち込んでいたかった。ほんのすこしでも、ひとときでも、意識を逸らしたかった。
そうしなければ、その脳裏に心に思い浮かぶのは、彼のことばかりで。
(リョーマ)
それを振り切るように、また一球、ボールを強く打ちつける。力みすぎたせいか、ボールはコートをはずれ、アウトラインだった。ただそれだけのことなのに、苛立ちがつのる。
次の球を打とうと、ボールを手に持ち投げようと構えたところで、不意に声をかけられる。
「それ以上やると肩を壊すから、今日はもうやめたほうがいいよ」
顔を上げて声のほうを振り向けば、いつのまにか乾がコートの端にいた。すでに着替え終わって、鞄とテニスラケットを肩に下げている。きっと他の部員達は、とっくの昔に帰っているだろう。
たしかに、すでに不二の腕はボールを打ち続けた疲労によって、軽い痺れと痙攣を起こしていた。言われるまでは気付かなかったのに、言われた途端、それが一気に出てくる。これ以上やったら、きっと怪我をするだろう。
不二はラケットを持った腕をだらりと下げた。リストバンドで流れてくる汗を拭う。
(もう、大丈夫か)
早く帰りたくなかったもうひとつの理由に、リョーマと顔を合わせづらいということがあった。けれどもうリョーマもとっくに着替えを終えて帰っているだろう。だったらもうそろそろ切り上げてもいいだろう。
不二はやっと帰ることを決め、ひとり後片付けをはじめる。片付けは通常1年生の仕事だが、こんな自主錬まで面倒見てはくれない。レギュラーだろうと、不二が自分で後片付けをしなければならなかった。
ネットをたたんだりボールを拾ったり、やることは結構ある。
それを手伝うでもなく見ていた乾が、不意に不二に言った。
「越前と何かあったのか?」
ぴくりと、不二の肩が動く。
一瞬、その動きが止まる。
数秒ののち、不二は深呼吸でもするように肩を上下させてから、いつもより幾分低い声で返した。
「──乾には関係ないだろう」
「直接は関係ないけどね。部活には影響が出てるよ。今日だけで、不二のミスショットが8回、越前のミスショットが12回。また、菊丸のミスショットが15回、手塚のミスショットが3回、他の部員も平均5回はいつもよりミスが多くなっている。それにメニューの進行速度もいつもの67.3%に……」
「分かった。もう言わなくていいよ」
手元のノートを覗き込みながらデータを言い並べる乾を不二は遮った。こんなふうに乾お得意のデータを並べられたのでは、いくら自分の毒舌でも敵いそうにない。
たしかに、今日自分のミスが多かったことには気付いていた。けれど、リョーマや他の部員にまで影響が出ていたとは気付かなかった。リョーマの前では頑張って平静を装っていたつもりだったが、うまくいっていなかったようだ。気がつかないうちに、イライラしたオーラでも発してしまっていたのかもしれない。
「明日から気をつけるよ」
ネットをたたみ終えた不二は、今度はコート上に散らばったボールを集めはじめる。ラケットを器用に操って、落ちているボールをかごの中へ入れていく。単調なその作業を黙々と続ける。
コート上に散らばるボールが3分の1ほどの数になったとき、乾が再び口を開いた。
「越前と別れたのか?」
「それもデータ?」
今度はボールを拾う手を休めない。
「データに頼らなくても、見ていれば分かる」
乾にそこまで言われるほど態度に出ていたのだろうかと、不二はちいさく溜息をついた。
「見ていて分かるなら、わざわざ聞かないでくれる? 趣味悪いよ」
「越前が好きなんだろう? 何故わざわざ別れるんだ?」
「──それは」
コートに散らばっていたボールの最後のひとつをかごへと落とす。
高い位置から落とされたそれは、落ちた衝撃で他のボールをいくつかを弾き、かごの外へと落としてしまう。コートを転がっていくちいさな球を、なんとなく目で追いかけた。
「──怖くなったんだよ」
ぽつりと、不二は言った。
誰かに、聞いてもらいたかったのかもしれない。ひとりで抱えるには苦しすぎるこの胸のうちを。それは、ほんのすこし、懺悔にも似て。
「僕らは、『好き』で付き合い始めたわけじゃなかった。リョーマ君のほうは、付き合うっていう意味も、もしかしたら好きってことの意味も知らない。最初は別にそれでよかったんだ。一緒に帰って、話して、遊んで。友達の延長、というより、友達と変わらないね。だけど、僕はリョーマ君を好きになって、僕は──僕はいつか、リョーマ君を傷つけるから──」
「越前への性的衝動を抑えられなくなり、そんな自分が怖くなった、ということか?」
途切れた不二の言葉を、乾が引き継ぐ。
あまりに端的な乾の物言いに、不二は眉根を寄せる。
「……そういう言いかたしないでくれる?」
「違うのか?」
「……違わないけど」
何処か憮然とした表情の不二に、乾はちいさく笑う。
「おまえも歳相応の悩みとか、持ったりするんだな」
それを不二が睨みつける。菊丸や桃城あたりなら、蛇に睨まれた蛙のごとくになるであろうその眼光にも、乾は特に動じない。
「そんな怖い顔するなよ。別にデータを取ろうとしているわけじゃない。これでも心配してるんだよ」
漂々と答える口調からは、本気なんだか冗談なんだか区別がつかない。
不二もよく、笑顔の裏で何を考えているか分からないと言われるが、不二から見たら、このデータ男のほうがよっぽど何を考えているか分からなかった。
無表情そうで実は表情があるのが手塚で、表情がありそうで実は無表情なのが不二なら、乾は表情があるのかないのかすら判別が出来ない。もしかして、その顔の皮を剥いだら銀色の部品やコードが見えるのではないかと疑ってしまうくらい。彼の『データマン』という異名は、案外情報収集能力のことだけではないのかもしれない。
乾の手にある、マル秘マークのノートに目を留める。あの中には、部員や他校の強豪達のデータがびっしりと詰まっている。身長体重といった一般的なことから、テニスにおける得意技や対策法、隠れた趣味からペットの名前までありとあらゆることが書かれているという。
全体的な能力やもともとの才能で言えば、乾よりも不二のほうがはるかに勝っている。だが、情報収集と情報分析の点においては、乾は誰よりもずば抜けていた。
(──もしも)
もしも、不二に乾ほどの情報分析能力があったなら、もっとちゃんと分かっていたのだろうか。いちばん最善の方法を。こんなふうに別れる以外の正しい方法を、見つけられていたんだろうか。
「……乾のデータから見たらさ……僕とリョーマ君て」
「おいおい。『天才不二周助』が、ものすごく間抜けなことを言ってるぞ」
乾が呆れたように、おおげさに溜息をついて、不二の言葉を遮った。
「恋愛ごとをデータで割り切ろうなんて、無理に決まってるだろう。まして当事者でもないのに」
「──そうだね」
不二も自分の言ったことの意味のなさに気付いて肩を落とす。
数学のように、問題を解くための公式が決まっているなら簡単なのに。必要な項目を、決まった公式に当てはめ、手順を踏んで変換するだけで、正解が導き出せるなら。
リョーマに出逢うまで、不二は『好き』という言葉の意味さえ分からずにいた。そうして多くの人を傷付けてきた。こんな自分が簡単に答えを導き出せるわけもない。
それでも、以前の不二なら、こんなことにすら気付かなかっただろう。今は、気付いただけでも進歩なのかもしれない。
「不二。まあそう気を落とすな。これは恋愛に限ったことでもないけどな、先人達のよい言葉をひとつ教えてやろう。その言葉とは……」
乾の言葉に、不二は顔を上げて彼の顔を見た。
表情の読めない顔の中で、あやしい占い師の水晶球のように、分厚い眼鏡がきらりと光る。
「『当たって砕けろ』」
どんなすばらしいことを言われるのかと期待していた不二は、誰でも知っているようなその陳腐な言葉にがくりと肩を落とした。
「……なにそれ。砕けたら意味ないじゃない」
「それくらいの心意気で行けということだよ。自衛の駆け引きばっかりでも、どうしようもないだろう。それにおまえは一回くらい本気でぶつかってみればいいんだ。なんだかんだ言って、不二は結局まともに越前と向き合ってもいないんだろう?」
「…………」
たしかに、そうだ。乾の言うことは何ひとつ間違っていない。
結局不二は、リョーマに向き合ってすらいないのだ。好きだと自覚する前も、自覚したあとも。自分の気持ちを無理矢理押し付けるだけで、リョーマの気持ちを考えたことなどなかった。
いつもいつも、自分のことばかり。付き合おうとしたのは自分のくだらない独占欲を満足させるためで。別れを切り出したのだって、リョーマのためと言いいながら、結局は自分のためだ。自分が傷つかないように、苦しまないように。
本当に、なんて身勝手なのだろうと痛感する。
もしもちゃんとリョーマと向き合っていたなら、どうなっていただろうか。
もうすこし違う結果になっただろうか。
そしてそれは、今からでも遅くはないだろうか。
(変われるだろうか)
身勝手であることは重々承知している。自分がどれほどひどい人間かも。それでも、ほんのすこしずつでも変わっていけるだろうか。リョーマにふさわしい人間に。
(リョーマ)
不意に強く強く、彼に逢いたいと思った。
まだ不二は、この気持ちを伝えていない。それ以前にちゃんと向き合ってすらいない。期間としては短いけれど、『恋人』だったあいだ、あんなに一緒にいたのに。
だから、ちゃんとリョーマに逢って。まっすぐに向き合って。この気持ちを伝えたいと思った。
リョーマはこの気持ちを重荷に思うかもしれない。拒絶するかもしれない。
それでも。
(それでも、君が好きだよ)
誇りにも似た気持ちが胸にある。
暗い夜の中の、たったひとつの道標の星のように。
今更ながらに、以前自分に告白してきた少女達に尊敬の念が湧く。きっと彼女らも、こんな想いを抱えて、それでもまっすぐに自分へと想いを伝えてきたのだろう。彼女らは、今の不二と同じように不安な気持ちや苦しい想いを抱えたまま、けれど不二のように逃げたり目を逸らしたりすることはせずに。それを踏みにじってきた不二の罪は重い。
今まで踏みにじってきた想いに報いるためにも、もう逃げることはやめなければいけない。
「ありがとう乾。ちょっと吹っ切れたよ」
「そうか。それはよかった」
やはりあまり表情のわからない顔で乾は眼鏡を押し上げた。
不二は先程かごからこぼれ落ちてしまったボールを拾う。これで大体の片付けは終わりだった。あたりはすでに薄暗い。
「それとな、不二。逐一報告しろとは言わないが、多少は相談とか愚痴を言うとかしてもいいんじゃないか?」
「乾に?」
「いや。俺じゃなくて」
乾は何かを示すように視線を斜め後ろに投げた。不二も同じ方に目をやって、そして、気付いた。
コート脇に、ネットやラケットなどを入れておくための用具小屋がある。その建物で死角になる位置に誰かがいた。本人は気付いていないのだろうが、本体は壁に隠れているが、灯りはじめた電灯に照らされ人型の影がはっきりと地面に落ちているのが見える。その特徴的なはねた髪型は、影だろうと間違えるはずがない。
「──乾がここに来たのって、英二の差し金?」
「人聞きが悪いな。『差し金』じゃなくて『頼まれた』と言ってくれ。それに、あいつだけじゃないぞ。大石とか、タカさんとか……リストにして渡そうか?」
「いやいいよ。でも、ありがとう」
友人達の優しさに、ゆるく締め付けられるようなちいさな痛みとともに、胸があたたかくなる。
おそらくは不二が気付いていないだけで、今までも、今も、そしてこれからも、こうして誰かに助けられたり支えられているのだろう。それがどんなに些細なことでもくだらないことでも、きっと、そんなものの積み重ねで世界は成り立っていくんだろう。
今度は、自分が助けてあげられればいいと思う。菊丸を、大石を、河村を、大切な友人達を。──そして、リョーマを。
(リョーマ)
愛しい彼を想う。
明日、リョーマと話をしよう。
そうして、ちゃんとこの気持ちを伝えよう。もういちど言おう。付き合って欲しいと。本当の『恋人同士』になりたいと。
リョーマがどんな反応をするか分からない。不二が予想したとおり拒絶するかもしれない。嫌悪に顔を歪めるかもしれない。
(それでも、君が好きだから)
どうか、想うことだけは許して欲しい。
そうしてやっと、不二はスタートラインに立てるのだ。
きっと今まで付き合ってきた相手に見せていたような余裕なんてないだろう。自分でも滑稽なほど無様に進んでいくしかないんだろう。でも、それでいい気がした。──きっとそれでいいのだろう。
なにかひとつ、胸のつかえが取れたような気がした。
まだ、悩むことは色々あるが、今はこれ以上考えても仕方がない。すべては明日、リョーマに会ってからのことだった。
翌日、不二はリョーマへの想いと決意を胸に朝練へと出てきたが、リョーマは練習に来なかった。また休み時間ごとに1年の教室へ行ってみたが、リョーマはいなかった。
今はすでに放課後になって、もうすぐ部活の時間だというのに、まだリョーマの姿はない。
(休みかな? それとも、また練習にだけはくるのかな?)
せっかく不二がリョーマと話をしようと決意したというのに。なんだかタイミングが悪い。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと前方に、不二と同じくちょうど部室へ向かう途中の手塚を見つけた。
「手塚!」
らしくもなく大声で呼び止めて、手塚のところへ駆け寄る。
おそらく彼なら知っているはずだった。リョーマのことを。
「手塚。今日リョーマ君は?」
「……休みだ。本人から連絡があった」
「なんで? また具合悪いの? 大丈夫なの?」
重ねて尋く不二に、手塚の眉間のしわが増える。
「不二。何でおまえがそんなことを聞くんだ。おまえ達は別れたんだろう」
手塚の目は明らかに不二を不審がっていた。またリョーマに何かするのではないかと警戒しているのだろう。
「おまえ自身も分かっているかとは思うが、俺は、おまえの人間性についてどうかと思うところがある。だから、そんなヤツがリョーマに近づくのは本意ではない」
「…………」
そう言われてしまえば、不二に返す言葉などない。手塚にそう思われても仕方がないのだ。事実、不二はそういうふうに人と付き合ってきた。
けれど、言い訳にも弁解にもならないけれど。
「それでも、僕は、リョーマ君が好きなんだ」
それだけが理由で、真実だったから。はっきりと、手塚に向かって言い切った。
それで手塚が納得してくれるとは思わない。なんの理由にもなっていない。それでも。
手塚は眉間に皺を寄せたまま、その真意を探るようにしばらく不二を見下ろしていた。不二はその視線を、逸らすこともなくまっすぐに受け止める。睨み合いのような無言の数秒間がすぎる。
「……非常に本意ではないんだがな」
何をどう結論付けたのか、ちいさく溜息をつくと手塚は鞄からルーズリーフを取り出し、そこに簡単に何かを書きつけた。
「リョーマはここに行っている」
差し出された紙には、簡単な地図とその場所への行き方が書いてあった。示された場所に、不二は大体のことを察する。そこには、ある墓地への行き方が示されていたから。
「ありがとう手塚」
渡された紙を受け取ると、不二はきびすを返して走り出した。このあと部活をサボることなど、手塚にも分かっているだろう。
「帰ってきたら、おまえはグラウンド200周だからな!」
うしろから手塚の声が投げられる。
「多いよそれ」
「黙れ、200周でも少ないくらいだ」
それが部活をサボることに対する罰か、リョーマに近づくことへの罰なのかはよく分からないが。リョーマのためなら200周くらい軽いものだ。きっとあっという間に走れるだろう。
そのままもううしろを振り返らずに不二は走り出した。
リョーマがいるだろう場所に向かって。
To be continued.
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