リバーシブル・エッジ 3


 誰も文句もつけられないほどの強さを見せ付けて、越前リョーマは青学テニス部のレギュラーの座を掴んだ。海堂だけでなく、青学ナンバー3といわれた乾を破ったのだ。Dブロックの他の2・3年生など、誰もリョーマから、1セットどころか1ポイントも取ることすらできずにラブゲームに終わってしまった。誰も文句が言えるわけもなかった。
 そうして、越前リョーマという新たな戦力を加えて、青学男子テニス部は、地区予選を、そして全国を目指すことになった。
「ウオーミングアップのあと、2・3年生はABコートでラリー! レギュラーはCDコートで練習だ! 1年は球拾い!!」
 放課後のテニスコートに、手塚の声が響く。よく通る声は威厳に満ちていて、声を聞いた途端、部員達は急にスタートスイッチを押されたミニカーのように走り出してゆく。まるで一種のパブロフの犬のようだ。
「手塚、張り切ってるにゃ〜」
「そうだね」
 いつものように一緒にストレッチをしながら、菊丸が不二に話しかけた。仲がいいというだけでなく、身長の近い二人はストレッチ相手にちょうどいいのだ。背中合わせに腕を組んで、相手を背中に乗せながら、話をする。
 地区予選まではもう10日を切っていた。練習に熱が入るのも、無理なからぬことだった。
 昨年は、惜しいところまで行きながら、結局途中で敗れてしまった。今年は手塚達も3年で、中学最後の年だ。今年こそはと、誰もが思っていた。
「ほら、不二、菊丸。これが今日のラリー対決の組み合わせ表だよ」
 菊丸と不二のもとへ、乾がコピーした紙を持ってくる。
 レギュラー落ちしてしまった乾は、けれど卑屈になることもなく、その分析力を活かして皆のコーチ役へ回っていた。彼の綿密なデータに基づいた練習メニューは、確実にその成果を見せていた。
 あるいはむしろ、彼にはこういう役回りのほうが合っているのかもしれない。もちろんそれだけの男でないことは重々承知しているが、彼の的確なバックアップで、青学はもっと強くなってゆくだろう。
「あ〜俺おチビとだ」
 組み合わせ表を見た菊丸が、嬉しそうに声をあげた。リョーマと対戦できることが嬉しいのだろう。彼は一目見たときからリョーマを気に入っていて、何かとかまっていた。
「菊丸はサーブ&ボレーヤータイプだからね。越前のようなオールラウンダータイプと対戦して、あらゆるボールに対応できるよう練習しないとね」
「……で、肝心の越前君は?」
 不二はコートを見回した。
 レギュラー達がいるCDコートのまわりに、リョーマの姿はなかった。レギュラーはたった8人しかいないのだから、一目で誰がいるかいないかなんて判別できる。他のコートにいたとしても、レギュラーのみが着ることのできる青いジャージは目立つからすぐわかるはずだった。
 ──いや、もし彼が他の部員と同じ学校指定の緑色のジャージを着ていたとしても、不二は一目で彼を見つけられただろう。何故だかそんな確信があった。
 だがどこにもリョーマの姿はない。
「ああ。越前は今日は委員会があって、すこし遅くなるらしい。まず河村対海堂、大石対桃の試合をするから、菊丸と不二は待っていてくれ」
 そう言い置いて、乾は審判をするためにコートのほうへと去ってしまった。
 不二はそのままフェンスにもたれて、菊丸と共にはじまった海堂と河村の試合を眺める。
 普段からは想像もつかないほど荒い気性になって豪快な球を打つ河村と、スネイクという得意技で応戦する海堂の試合は、どちらも一歩も引かず、白熱した接戦だった。他のコートで練習しているヒラ部員達は、思わず練習の手をとめて、試合に見入っている。
 けれど不二はそんなものにあまり興味も惹かれず、ただぼんやりと、それを眺めていた。
 こんなにつまらない部活は久しぶりだった。最近は──越前リョーマが入部してきてからは、楽しくて楽しくてしょうがなかったのに。彼がいないというだけで、こんなにもつまらない。
 越前リョーマは、不二にとって、とても興味をひく存在だった。
 あの綺麗な容姿も、それに反するような生意気な態度も、テニスの実力も。──そして、あの手塚のはとこだということも。すべてが不二の関心をひいてやまない。目を奪われて、離せない。『天才』といわれ、実際テニスでも勉強でも、すべてのことをそつなくこなしてきた不二にとって、何かに興味を持つことはめずらしいことだった。
 彼が試合をしている姿を見るのはもちろん楽しかったし、そうでなくても、彼の姿を目で追うだけでも楽しかった。たとえば、休憩時間にファンタをおいしそうに飲んでいる姿や、朝眠そうに目をこすりながらやってくる姿でさえ、何故だか不二の興味をひいた。
 いつもいつも、目で追ってしまう。最近では、授業中でも家でも、いつも、早く部活の時間にならないかと、思ってしまうほどだ。
「あ。おチビだ」
 菊丸の声に、コートの入り口に目を向ければ、急いで着替えを終えたらしい彼が、青いジャージを羽織ながら、小走りにこちらへ向かってきているところだった。
「おっチビ〜〜!! 今日はこれから俺とラリー対決だよ〜〜ん! 負けないにゃ〜〜〜!!」
 コートの脇まで走ってきたリョーマに、菊丸が飛びつくように抱きつく。菊丸のこんな過剰なスキンシップはいつものことで、はじめはリョーマも驚いて嫌がっていたが、今では慣れたものだ。
「英二先輩とですか? 俺だって負けませんよ」
 抱きついてくる菊丸を無理に引き剥がすこともせず、意外と長身の菊丸を生意気に見上げながら、強気な口調でリョーマが答える。
(あれ?)
 不意に、不二は違和感を感じた。
 なんとなく、リョーマの言葉に違和感を感じたのだ。
「ムッ、後輩のくせに生意気な! じゃあ、負けたほうが、帰りにハンバーガー奢るってことでどうにゃ!」
「いいっすよ。今日もゴチになります。英二先輩」
「む〜〜ホントに生意気にゃ〜〜!! そこがカワイイんだけど〜〜!!」
「何言ってるんすか。苦しいっすよ」
 本当に可愛くて可愛くて仕方ないというように、菊丸はリョーマの首を絞めるようにきつく抱きつき、その髪に頬をぐりぐりと押し付ける。こんな光景もいつものことになってきて、まわりで見ているレギュラー達も、それを微笑ましそうに見ている。
 二人がじゃれていると、本当に仲のよい兄弟のようだった。実際、末っ子の菊丸にとって、リョーマは本当の弟のように可愛くてしかたないのだろう。
「あっ手塚が睨んでる!」
 頬をリョーマの髪に押し付けるようにしたまま、菊丸が声をあげた。
 見れば、コートの向こうに立っている手塚が、こちらを険しい顔で見ていた。彼はいつも眉間にしわが寄った険しい顔をしているが、それが本当に睨んでいるのかそうでないのかくらいは、レギュラー達なら判別できた。
「越前君。一応、遅れたこと、報告に行ったほうがいいんじゃない?」
 今日遅れたのは委員会というちゃんとした名目があるのだから、それについては怒られることはないだろうが、遅れてコートに入って挨拶もなしというのは、けじめに厳しい部長としては、許されざることだろう。
「……そうっすね。そうします。不二先輩」
(──ああ)
 さっき感じた違和感の正体に、不二は気付いた。名前だ。リョーマは不二を『不二先輩』と呼んだが、菊丸は『英二先輩』と名前で呼んでいたのだ。このあいだまで、いや、つい昨日までは『菊丸先輩』だったはずだ。いつから、何故急に呼び名が変わっているのだろう。
 リョーマは菊丸の腕から抜け出す。さすがに菊丸も無理に引き止めることもなくおとなしく腕を離す。リョーマは嫌そうな顔をしながら、手塚のほうへと歩いていった。
 それを見送りながら、不二は隣にいる菊丸に尋ねた。
「……越前君、いつから英二のこと名前で呼ぶようになったの?」
「えっ? ああ名前? 昨日の帰り、桃とおチビがバーガーショップ行くって言ってたから、俺も一緒に行ったの。で、そのときに、桃は『桃先輩』で、俺が『菊丸先輩』なのはなんかズルイから、俺のことは『英二先輩』って呼んでって」
 何がどうズルイのか、いまいち分かりづらいが、つまり菊丸は、桃城だけが『桃』と略した親しげな呼び方をされていることにやきもちを焼いたのだろう。そうして、自分も名前で呼んで欲しいと駄々をこねたに違いない。その様子が、ありありと不二の脳裏に浮かんだ。
 話題の主である1年生は、ちょうど手塚に向かって何か語りかけているところだった。おそらくは、委員会で遅れたことを伝えているのだろう。ここからでは、何を言っているのか分からないが、手塚がリョーマに2・3言言葉を返した。眉間のしわは深く刻まれたままだ。リョーマは首だけを動かすようにしてちいさく頭を下げて、手塚の傍を離れる。
 数秒にも満たない、短いやり取りだった。
 それを一緒に見ていた菊丸が、ポツリとちいさく呟く。
「手塚も、そんな気にしなくてもいいのにね」
 何を、とはっきり口にはしないが、菊丸の言いたいことは不二にも分かった。手塚のリョーマに対する態度があまりにもそっけないと思っているのだろう。あるいは、わざとそっけなくしていると思っているのかもしれない。
 手塚とリョーマが親戚であることは、レギュラーと乾のみの秘密となった。それほど隠すことでもないのかもしれないが、言いふらすほどのことでもないからだ。
 菊丸や他のレギュラー達から見れば、手塚が公私のけじめをつけて、リョーマにわざとそっけなく接しているように見えるのだろう。
 だが、不二から見れば、手塚が、けじめをつけてリョーマを特別扱いしないようにしているだけには見えなかった。
(ほら。今だって)
 コート脇にいるリョーマを、手塚はじっと見ていた。何か言いたそうに。それに気付いたのか偶然か、リョーマが顔を上げて、手塚の視線とぶつかる。数秒ののちに、リョーマは逃げるように視線を外してしまい、手塚はすこし眉をひそめる。寂しそうに。
 そうして、リョーマは視線をそらしているくせに、逆に手塚が見ていないときには、彼を見ているのだ。やはり、何か言いたげに。
 どう考えても、特別扱いしないよう気をつけているのではなくて、何か親しくできない隠された事情があるとしか思えなかった。
(────)
 胸の中が、モヤモヤする。
 彼が菊丸を『英二先輩』と呼ぶことも。手塚と、何か含んだ視線を交し合うことも。
 すべてが、面白くない。
 こう言うと高慢に聞こえるかもしれないが、不二にとって、今まで生きてきた中で、思い通りにならなかったことなど、数えるほどしかない。
 望めば何でも叶ってきた。頭脳も容姿もテニスの実力も、すべては生まれつき備わっていた。それでも叶わないことは、無理にでも叶えた。そう、無理にでも。たとえば、親の力や金という、卑怯な手を使っても。
 もともと執着心が薄く何かを望むことが少なかったため、それが実際実行されることは少なかったし、まわりに気付かれるような莫迦でもなかったから、ほとんどの者には気付かれていないが、不二にはそういう一面があった。
 欲しいものは必ず手に入れないと気がすまない癇癪持ちの子供のような。
 美しい蝶が舞う姿を見ているだけでは満足できずに、捕まえて展翅板に留めなければ気がすまないような。
 不二はこれほどまでに越前リョーマに興味を持っているのに、肝心のリョーマのほうは、不二などカケラも意識していない。『同じ部の先輩』とひとくくりにされて、しかもその中での順位も低いのだろう。菊丸や桃城のほうが、よっぽど高い位置をしめているのだろう。
 彼の興味をこちらに向けさせたかった。
 彼にとってはとこである手塚や、仲のいい菊丸が、『特別』であることは分かる。でもそれが許せなかった。彼らよりももっと『特別』な存在になりたかった。
(どうしようか)
 どうしたら、彼の興味をこちらへ向けさせることができるのだろう。彼の『特別』になれるのだろう。
 たとえば、テニスにおける強さをみせつけること。
 たとえば、菊丸のように彼にかまって仲良くなること。
 確かにそれでも彼の興味は向いてくれるだろう。けれどそれでは足りない。もっともっといちばんの『特別』になりたいのだ。
(いちばんの、『特別』に……)
 仲のよい菊丸や桃城よりも、はとこである手塚よりも、『特別』な存在に。
 だから、不二はその日の帰り、偶然部室にふたりきりになったとき、リョーマに言ったのだ。

「ねえ越前君。僕と付き合わない?」




 リョーマにとって不二周助という存在は、テニスのうまい先輩という認識でしかなかった。それ以上でも、それ以下でもない。
 1年で急にレギュラーになったリョーマではあったが、他のレギュラー達との関係はうまくいっていた。
 手塚は置いておくとしても、大石や河村はもともと人がよく優しかったし、菊丸はあの明るい性格で何かとかまってくる。桃城とはとても気が合って、登下校時にはよく自転車の後ろに乗せてもらうほどだ。海堂とはあまり接点がないが、それはリョーマに対してだけではなく、誰にでもそうなのだ。唯一気がかりだったのが、リョーマのせいでレギュラーから外れた乾だが、彼は特に気にした風もなく快くコーチ役をしてくれている。
 不二に関しては、特別親しくもなく、仲が悪くもなく、という状態だった。会えば挨拶もするし、多少言葉も交わすが、それだけだ。同じレギュラー内であるなら桃城や菊丸のほうがよっぽど親しかった。

「ねえ越前君。僕と付き合わない?」

 だから急にそう言われたとき、リョーマは驚いた。そんなことを不二に言われる要素も前振りもなかったからだ。その微笑みの裏で何を考えているか分からないとは思っていたが、これほどとは思っていなかった。
 帰国子女のリョーマでも、それが『go with(一緒に行く)』か『go out with(恋人になる)』かくらいは分かる。そしてそれが、普通男が男に言う言葉ではないことも。
 けれど、驚きはしたが、それ以上別になんとも思わなかった。
 アメリカにいたから、同性愛というものにそう抵抗はなかった。向こうでは、キリスト教の考えから頑なに反対している人もいるが、社会的にもだいぶ受け入れられてきて、法的に結婚できる州だってある。実際にリョーマの知り合いや友人にも同性愛者はいたし、その人達とも普通に友達として付き合ってきた。
 かといって、それはリョーマが同性愛を受け入れているというわけではない。リョーマにとっては同性であろうと異性であろうと、まだ恋愛そのものに興味がなかった。男であろうと女であろうと、まだ誰も恋愛の対象ではないのだ。
 もしそう言ってきたのが、頬を真っ赤に染めて、あるだけの勇気を振り絞ってやって来たというふうの女の子であったなら、リョーマは困惑しただろう。断ることは決まっていても、どうやったらあまり傷つけずに断ることができるだろうかと。
 けれど不二の言葉には、困惑することもなかった。
 いつも淡い微笑をたたえている不二の感情は、とても読みづらい。笑ったままのその瞳の奥が、本当に笑っているのかそうでないのか。それでも、不二が何故そんなことを言い出したのか、リョーマにはだいたい分かっていた。
 多分、彼は別に自分のことが『好き』で、そんなことを言ってきたのではない。
 ただ『興味』があるからそう言ってきたのだ。
 欲しいおもちゃを手に入れるように、自分の興味あるものを、手元に置いておきたいだけ。その手段が『付き合う』ということなのだろう。普通の告白なら「好きです、だから付き合ってください」となるところが、急に「付きあわない?」と、『好き』という言葉がないところが、そのよい証拠だ。
 だから、どうでもよかった。
 自分に本当に好意を寄せている相手にならそれなりの対応もするが、こんな気まぐれに、真剣に対応するのも莫迦らしかった。それにこの手のタイプは、拒絶されれば余計燃え上がって、反対に手に入れたらすぐに冷めるタイプだろう。
 だから。
「いいっすよ。不二先輩」
 リョーマは、不二が言い出したのと同じくらい軽く、そう答えた。
 肯定の返事が返ったことに、話を持ちかけた本人も驚いたようで、いつもは閉じられたその目を丸くして驚いていた。
(ああ。不二先輩の瞳って、こんな色なんだ)
 わけもなく、そんなことを思う。
 そういえば、いつも微笑みの形に閉じられている不二の瞳を間近で見たのは、これがはじめてだった。髪と同じく瞳も色素が薄めの、綺麗な薄茶色をしていた。
 こんな、瞳の色さえ知らずにいたような相手と付き合うだの付き合わないだの、よく考えればひどく莫迦げた話だ。本当に、不二は何を考えているのか、リョーマにはわからない。
 けれど、その予想外の返答さえ、彼のお気に召したらしい。彼は心底楽しそうに笑った。
「じゃあ今から僕と君は『恋人同士』だね」
「そうっすね」
「恋人を苗字で呼ぶのも変だよね。名前で呼んでもいいかな、『リョーマ君』」
「どうぞご勝手に」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ。送っていくよ」
「はあ。でも不二先輩の家、俺んちと反対じゃないですか?」
「いいんだよ、君と一緒にいるってことに意味があるんだから」
「はあ」
 楽しげな不二に適当に返事をする。
 今から恋人です、と言われても、その変化などリョーマには分からない。不二はひどく楽しげだが、何がどう楽しいのか理解できない。
 でも、そのうち彼の興味もすぐに失せるだろう。そうしたら、この『恋人ごっこ』も終わる。それまでのことだ。それまですこし我慢すればいい。
 あるいは、『恋人』の特権で、わがままを言ってみるのもいいかもしれない。このいつも余裕シャクシャクの先輩が困った顔をするのを見てみたい気もするし、なによりこの『お遊び』に付き合う代償くらい、もらってもいいだろう。
「じゃあ不二先輩。帰りにファンタおごって」
「もちろんいいよ、リョーマ君」
「アイスも」
「うん。何でも買ってあげるよ」
 快く了承する不二に、リョーマの機嫌もよくなる。『恋人ごっこ』は莫迦らしいが、好きなものを奢ってもらえることは嬉しい。所詮リョーマはまだ12歳の子供だった。
 こうして、リョーマは不二と『恋人同士』になった。
 誰かを好きになるということも、『恋』という気持ちも、なにひとつ、知らないままに。自分の気持ちにも、相手の気持ちにも、なにひとつ、気付かないままに。


 To be continued.

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