リバーシブル・エッジ 4


 くぐもった悲鳴が聞こえる。それはまだ幼い子供の声。よく知っている声。そして何かをひっくり返すような大きな物音。殴るような音。下卑た笑い声。
 扉一枚隔てた向こうから聞こえてくる物音に、リョーマは耳をふさぐことができない。なぜなら両手は、悲鳴をあげそうな自分の口を押さえることで精一杯だから。耳をふさぐためにこの手を離したら、きっとその瞬間に悲鳴をあげてしまうから。
『ここに、隠れているんだよ。絶対声を出しちゃ駄目だよ。絶対に』
 そう言ってリョーマを部屋の奥にあるちいさなタンスに隠したのは、ひとつ上の兄だった。大量にぶら下げられた衣類の向こうに、子供ひとりがやっと入れるくらいの隙間があった。家でかくれんぼをしていたときに見つけた、いちばんの隠れ場所だった。
『大丈夫。リョーマは、僕が守ってあげるから』
 最後に一度、ぎゅっとリョーマを抱きしめて、彼はタンスの扉を閉めた。
 暗くて狭いこの場所で、リョーマはちいさく膝を抱えたまま、兄に言われたとおり、声を出さないように音を立てないようにじっとしていることしかできなかった。
 扉の向こうから、荒々しい大きな物音や、兄の泣き叫ぶ声が聞こえてきても。
(だれか、たすけて)
 必死に、願った。
 今のリョーマには、何もできない。ここで震えていることしかできない。兄を助けられない。だから、助けてくれるはずの人達を、心の中で、必死で呼んだ。
(おとうさん)
(おかあさん)
(くににい)
 声にならない声で必死に呼ぶのに、誰も助けに来てはくれない。
 どうして誰も、ここにいてくれなかったのだろう。いてくれたなら、きっと助けてくれたのに。どうして、ここにいないの?
(たすけて)
 願いは、声にならない叫びは、誰にも届かない。
 扉の向こうから、くぐもった、鈍い悲鳴が聞こえた。
 それが、彼の最期の声だと、分かった。



「────────っ!!」
 声にならない悲鳴をあげて、リョーマは飛び起きた。
 部屋の中はまだ暗い。夜明けまで、まだかなり時間があった。家族も皆寝ているのだろう。時計の秒針だけが響く静寂の中、自分の心臓の音が聞こえそうだった。
 額からあふれた汗が、頬を伝っていくつもいくつもシーツの上に落ちる。ランニングのあとのように、息が荒い。壊れそうなほど早くなっている鼓動を落ち着けようと、深呼吸を繰り返した。
 こんな夢を見るのは、いつものことだった。昔のように毎日見ることはなくなったけれど、今でも時折こんなふうに夢を見て悲鳴をあげて飛び起きている。
 せめてもの救いなのは、いつだって、悲鳴が声にはならずにあげられることだ。悲鳴が声になっていたら、家族に気付かれてしまう。そうしたら、また心配をかけるだけだ。
 もっとも、あの聡い父親などは、悲鳴なんか聞きつけずとも、リョーマがこうして今でも悪夢を見ていることくらい、気付いているのかもしれないが。
(…………)
 繰り返される、あの日の夢。あの、『5年前』の。
 忘れることなんて一生無理だとわかっているけれど、それでもいまだ、『過去』にできない。
 ぱたりと、汗ではない雫が、頬を伝ってシーツの上に落ちる。
 ベッドの上で、膝を抱えて、ちいさくなる。あのときと同じように。あの、タンスの中に隠れて震えていたときのように。
 悲鳴も泣き声も声に出さないのは、強がっているからではなくて、あのときから染み付いてしまったことなのかもしれない。今のリョーマは、うまく悲鳴をあげることも泣き声をあげることも、できずにいるだけなのかもしれない。
(どうして)
 繰り返される問いは、意味を持たない。
 今更そんなことを問いただしても無意味だし、本当はその答えなどわかっている。
 運が悪かったとかそんな言葉で片付ける気はないけれど、誰が悪かったのかとか、そうでなかったとかは、ちゃんと、分かっているつもりだ。誰にも、どうにもできないことはあると。
 ただ、それをうまく飲み込むことができないだけで。5年経った今でも。
「くににい」
 ちいさな声で、呼んでみる。
 ちいさなちいさな声ではあったが、夜の静寂の中、それはひどく大きく響いた。
 けれど呟きは誰にも届かず、闇に消えるだけ。



 今日も天気がいい。天気の変わりやすい春ではあるが、ここ数日晴天が続き、あたたかないい日だった。
 広い越前家の庭の植物達は、朝露を浴びて、日の光を存分に受けようと、緑を精一杯伸ばし、花を咲き誇らせていた。見る者の心を清々しくするような、美しい光景だった。
 だがリョーマは、庭になど目をくれずに廊下を横切る。庭の美しさをゆっくり感じる余裕などなかった。時間的なゆとりではない。まわりに目を向けるだけの精神的な余裕がないのだ。
「ようリョーマ。今日はめずらしく早えじゃねえか、ねぼすけ小僧のくせに」
 縁側に座って新聞を広げていた南次郎が声をかけてきた。新聞を読んでいると思いきや、その実、新聞の間にはエロ本が挟まれている。
 黒い法衣は着ているものの、エロ本は読むし、咥え煙草だし、無精髭は生やしているしで、とてもではないが仏に仕える坊主には見えない。いっそあの無精髭は、あの形に剃っているのではないかと疑ってしまうほどだ。
 今の職業である坊主にも見えないが、このエロ坊主がかつては世界に名を轟かせた名テニスプレイヤーだとは、普通の人は信じられないだろう。
「俺だって、たまには早く起きるよ。朝練あるし」
 そう言いながら、リョーマは朝食の用意されたテーブルにつく。今日は洋食好きの母にしてはめずらしく、リョーマ好みの純和風の食事が並べられていた。
 本当は、早起きをしたのではない。明け方、夢を見て飛び起きてから、眠れなくてそのまま起きていたのだ。けれどそれには気付かれないように、嘘をつく。泣いて赤くなった目だって、ここへ来る前にちゃんと冷やした。
 なんでもない振りをする。ちゃんとうまく、騙せているだろうか。
「おまえんとこの部長、国光なんだろ? いっつも遅刻して、国光に怒鳴られてんじゃねーのか? あいつジーサンに似て生真面目だからな。親はボケボケだってのに、おっもしれー隔世遺伝だよなありゃ」
 煙草の灰を庭に落としながら、南次郎が笑う。
 南次郎から見て手塚はいとこの子だ。生まれたときから知っているし、5年前まではテニスの指導だってしていたから、よく知った仲だ。だからこんなふうに話題にするのも、別に普通のことだろう。──何も、ないなら。
「…………」
 口に入れた焼き魚を、うまく飲み込むことができない。何度も何度も咀嚼(そしゃく)するのに、うまく喉を通ってくれない。小骨が喉につかえるように、何故だかひどく痛かった。
 この父親は、もう『5年前』のことなど忘れてしまったのだろうか。だから、こんなふうに、何もなかったみたいに彼の名を口に出せるのだろうか。
 ──いや違う。そうではないことくらい、リョーマにだって、本当は、分かっている。
 南次郎だって、忘れたわけではないのだ。忘れるわけなどないのだ。ただ彼は、ちゃんと分かっているだけ。あれは手塚のせいなどではないと、彼は何も悪くないと、ちゃんと分かって、それを飲み込んでいるだけ。
 そんなことは、手塚が悪いわけではないことくらい、リョーマにだって分かっている。
 それでもまだリョーマは、南次郎のように普通に手塚の話をすることができない。今はまだ。
 特に、あの日の夢を見たばかりの、今朝は。
「俺もう行く。いってきます」
 朝食に半分も手を手つけずに、リョーマは席を立った。乱暴に立ちあがったせいで、椅子が大きな音を立てた。
 うしろで南次郎が何か呟いたようだったし、母親が何か声をかけてきていたが、リョーマにはよく聞こえなかった。
 学生鞄とテニスバックを持って玄関から飛び出して──門のところの人影に、驚いて足をとめた。
「おはよう、リョーマ君」
「不二先輩!?」
 思いもかけない人物が、そこにいた。
 朝から変わらぬ笑みをたたえて、門のところに不二がいた。
「なんでこんなところにいるんすか?」
「一緒に学校行こうと思って。よかった時間ぴったりで」
「それだけのために?」
 当然のことのように不二は言うが、それにリョーマは呆れるしかない。
 不二の家は、リョーマの家から見て学校の向こうにある。つまり不二がここに来るためには一度学校の前だって通っただろう。それなのにわざわざここまで迎えに来るなんて。
 たしかに昨日の帰りだって送ってもらったが、朝と夕方とは時間的な余裕が違う。ここに来るために、彼はいつもよりどれだけ早起きしたのだろう。朝練があるからただでさえ早いのに。いつもはねぼすけのリョーマには、とてもではないが真似できない。
「だって、僕ら『恋人同士』なのに、『恋人』の僕じゃなくて、『ただの先輩』の桃が迎えに来るなんて変でしょう?」
「ああ──そうっすね」
 恋人同士。不二に言われて思い出す。そういえば、昨日からリョーマは不二の『恋人』になったのだ。彼の『恋人ごっこ』に付き合うことにしたのだ。
 それで不二は早速、恋人が取るべき行動を、はじめてみたらしい。
 それにしたって、たまに自転車で送り迎えしてくれる桃城だって、ちょうど彼の通学路の途中にリョーマの家があるから乗せてくれるだけで、不二が迎えにくる苦労とは比べようもない。何もここまでしなくてもいいものを。
(まあいいか)
 別にリョーマに何か負担を強いられているわけではない。こうして迎えにくることでつらいのは、そのぶん早く起きなければいけない不二だけだ。自転車のほうが楽だし早いとは思うが、なんだったら、不二に自転車で来るよう頼めばいい。これくらいの『恋人』のわがままは、彼は簡単に聞いてくれるだろう。
(それに)
 リョーマはちらりと不二の顔を見た。相変わらず、何を考えているのか分からない笑顔が浮かんでいる。
 こんなことにも、どうせすぐに飽きるだろう。それだけのこと、それまでのこと、だ。
「じゃあ学校行こうか。まだすこし時間に余裕あるけど、遅刻したら大変だからね。手塚に走らされちゃうよ」
 言われた言葉に、知らず、リョーマの身体がこわばる。
『手塚に』
 不二の言葉のそこだけが、頭の中で繰り返される。
 そうだ。部活に行けば手塚がいる。当然顔を合わせることになるだろう。そんな当たり前のことを、失念していた。
 これから朝練に行って彼に会っても、自分は彼の前でちゃんとなんでもない振りができるだろうか。いつものように、ただの後輩として、接することができるだろうか。
 部活の先輩として、すでに手塚とは何度か話をしたり、接している。昔のように仲良くすることはできなくても、今まで、なんとか普通の後輩のようには接してこれたはずだ。
 でも、今日もちゃんと同じように接することができるだろうか。
 今朝見た夢の残滓が、澱(おり)のように心に溜まっている。このまま手塚に会ったら、叫びだしてしまいそうだった。どうしてあのとき助けてくれなかったのかと、泣き叫びながら責めてしまいそうだった。
 そんなことをしたいわけではないのに。そうではないと、分かっているのに。
 この心は、思うとおりに動いてくれない。
 足がすくむ。立ち尽くしたまま、動けない。
「────」
「リョーマ君?」
 様子のおかしいリョーマに気付いて、不二が心配そうに顔を覗き込む。
「リョーマ君? どうしたの? なんだか顔色悪いみたいだけど、大丈夫? 具合悪いの?」
 熱をはかるために、その手がそっとリョーマの額に触れてくる。
 不二の手は、テニスをやるからか意外と大きくて、でもしなやかで綺麗な手だ。あの何を考えているか分からないような笑顔だけ見ていると、体温なんてないようにも思えるのに、その手はちゃんとあたたかい。
 綺麗な薄茶の瞳が、ひどく間近で、心配そうにリョーマの顔を覗き込んでいる。その瞳の中に、リョーマの姿が映っている。
 なんだか、頬が熱くなりそうだった。
(きっと、こういうのにダマされるオンナノコとか、多いんだろうな)
 無意識なのか、作為的なのかは分からないけれど、こんなふうに優しく触れられて、この綺麗な顔を、あの作った笑みなんかではなく、間近で見たら、きっと皆カンチガイしてしまうだろう。
 そうではないと分かっているのに、リョーマの胸の鼓動も、すこし早くなってしまう。
(気をつけないと)
 これは『恋人ごっこ』なんだから。そのうち終わる、『お遊び』なんだから。カンチガイは、しないように。ちゃんと気をつけておこう。リョーマは自分に言い聞かせて、胸の鼓動を落ち着かせる。
「なんでもないっす。大丈夫っす」
 そっと、不二の手を外した。離れていってしまうぬくもりが、すこし寂しかった。
「そう? ならいいけど。無理はしちゃ駄目だよ。試合だって近いんだからね。具合悪くなったらすぐに言うこと。いいね?」
「──はい」
 いつもは小生意気なリョーマも、何故だか素直に返事をしていた。
(ああそういえば)
 いつのまにか、今朝見た夢の息苦しさは消えていた。まるでその優しい手と微笑みが、嫌なものを全部そっと拭ってくれたかのように。
 手塚にも、今日もちゃんと普通の後輩として会える気がした。
 なんで急にこんな気持ちになれたのか、不思議だった。けれど悪い気分ではない。
「じゃあ行こうか」
 不二と並んで、他愛ない話をしながら、学校への道を歩く。それだけのことだけれど、なんだかとても楽しかった。
 不二との『恋人ごっこ』も、そう悪くないものなのかもしれない。リョーマはそう思う。好きなものを奢ってくれるからとか、なんでもわがままを聞いてくれるからというだけではなくて。
 不二が何を考えているのかは相変わらず分からないし、その笑顔の裏も読めないけれど、こうして一緒にいることはそう嫌ではない。むしろ、心地いいことに気付いた。
 これはただの『お遊び』だけど、そのうち飽きて終わる『恋人ごっこ』だけれど、それまで、楽しく過ごせそうだった。
 いつか不二が『恋人ごっこ』に──リョーマに飽きる、その日まで。



 不二とリョーマが越前家を出たのは、いつもより早い時間であったはずだが、学校に着いてみれば、遅刻寸前とまではいかなくても、朝練の時間ぎりぎりだった。ふたりで話しながら歩くのが楽しくて、いつのまにか歩みが遅くなってしまっていたのかもしれない。
 ふたりが急いで着替えてコートに出れば、すでにほとんどの部員はそろっていた。
「不二、おチビ、おはよっ」
 コートにやって来たリョーマの姿を目ざとく見つけて、もはやそれが挨拶の形であるかのように、菊丸がリョーマに抱きついてきた。朝であっても、彼のテンションが落ちることはない。
「おはようございます」
 身長が20センチも高い菊丸に抱きつかれれば、当然リョーマは菊丸の胸に顔をうずめるような形になってしまう。そのせいですこしくぐもった声になりながら、リョーマも挨拶を返した。
 こんな二人のじゃれあいなどいつものことで、昨日までなら、不二も黙ってそれを見ていた。
 けれど今日は、不二はリョーマの腕を強く引いて、菊丸の腕の中から無理に引き剥がした。引っ張られてバランスを崩したリョーマを、自分の胸に受け止める。
「英二。あんまりリョーマ君にくっつかないでくれる?」
「なんで不二がそんなこと言うんだよ〜」
 リョーマを引き剥がされて、おもちゃを取り上げられた子供のように、不満そうに菊丸がくちびるを尖らせる。
「今日からリョーマ君に抱きついていいのは僕だけなんだからね。あ、昨日から、かな?」
「なにそれ〜〜」
 言いながら、菊丸は不二に取られたリョーマを取り返そうと手を伸ばす。その腕をさえぎるように、不二はこれみよがしにリョーマに腕を回す。そのちいさな身体は、すっぽりと不二の胸に収まってしまう。
「僕とリョーマ君、付き合うことになったから」

「……ええ〜〜っっ!!」

 不二に笑顔で言われた言葉の意味が一瞬飲みこめずにいた菊丸は、数秒ののちにその意味を理解して、コート中に響き渡る絶叫を上げた。
「英二先輩っ!」
 それに驚いたリョーマが、慌てて菊丸の口を両手でふさいで、その音害をとめる。
 けれどすでに放たれた大声は消えはしない。一体何事かと、まわりじゅうから部員達の視線が集まってくる。
 だが幸いなことに、叫んだ菊丸が不二と共にいるのを見て、また菊丸が不二にでもからかわれたのだろうと、特に気にする者もなく、またおのおの朝練前のウオーミングアップへ戻っていった。
 だが、叫んだ張本人の菊丸は平静になど戻れなかった。
 多少まわりを気遣って、他には聞こえない程度の声で、爆弾発言をかました張本人に詰め寄った。
「〜〜付き合うって、付き合うって、不二とおチビがコイビトドーシになったって意味だよねえ?」
「そうだよ」
 あっさりと不二は肯定する。
「でもあんまりみんなに言わないでね。僕はむしろ言いたいくらいなんだけど、あんまりまわりがうるさいとリョーマ君が可哀想だからね」
 口ではそう言いながら、けれど不二は、菊丸やその他に見せつけるように、またリョーマを腕の中へ囲い込む。それでは口では言わなくても、行動で示しているようなものだ。実際、何人かの部員たちは、不二の行動を不思議そうに見つめている。乾などはすでにノートを取り出して、何かを書き込んでいた。
「〜〜俺、ネットの用意手伝ってきます」
 さすがに人前でのそんな行動に耐え切れなくなったのか、リョーマはするりと猫のように不二の腕から抜け出すと、ネット準備をしている同級生達のほうへ駆けていってしまった。走り去る後髪からのぞく可愛らしい耳は、ほんのりと赤くなっている。
 その愛らしい後姿を見送って、また菊丸は不二に向き直った。
「不二とおチビがねえ。驚いた。いつからそんなことになってたわけ?」
「昨日の帰りだよ」
「ふうん。ああでも……うん。よかったね、不二」
 まるで自分のことのように嬉しそうに、菊丸は微笑んだ。
 その言葉にどこか拍子抜けする。彼はもっとうるさく言うと思っていたのに。こんな簡単に納得されるとは思わなかったのだ。
「不二、いつもおチビのこと見てたもんね」
「え?」
「それに今、ホントに嬉しそうだし。しあわせそうだし」
 その言葉に、不二は驚く。思わず口元を隠すように、手で覆ってしまう。そんなにも、しあわせそうな顔をしていただろうか。
 確かに、優越感はある。菊丸よりも手塚よりも、今自分はリョーマにとって特別な位置にいるのだと。菊丸を牽制してリョーマを独占する権利があるのだと。そうなることを望んでリョーマと付き合いはじめたのだ。
 望みどおりになったその優越感と満足感が、顔に出ているのだろうか。だがそれだけだろうか。
 不二はもともとあまり感情が表情に表れない。変わらない笑みで、すべてを曖昧にしてしまう。それが、いくら菊丸が聡いとはいえ、表情から感情を読み取られてしまうほど、知らず知らずのうちに感情があふれだしていたのだろうか。それほどまでに、リョーマの存在が心を動かしているということだろうか。
(しあわせそう)
 ああそうだ。確かに今『しあわせ』なのだ。胸をあたたかくするこの気持ちは。久しく感じることがなかった、優しい感情。それが、あふれてくる。
 不二がリョーマと付き合ったのは、ただの『興味』だ。彼の『特別』になるための手段。ただそれだけのことだ。
 それなのに、それがどうしてこんなにも自分をしあわせにしてくれるのか、分からずにいた。


 To be continued.

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