リバーシブル・エッジ 6


 変わりやすい春の天気は、数日間続いた晴天をあっさりひるがえして、空から雨雫を絶え間なく落としていた。朝はまだ空一面に雲が広がるだけだったが、午前中の授業が半分も過ぎたあたりから降り出しはじめ、放課後になった今では、本格的な雨模様になっていた。
「あーあ。やっぱり雨降っちゃったね。部活どうすんだろ」
 ホームルームを終え、帰る生徒達でざわつく教室の中、菊丸が窓の外を眺めながら呟いた。
「そうだね。これじゃあ練習無理だろうね」
 不二も同じように隣に並び、外を見つめる。
 二人の教室からでは、テニスコートは特別棟の陰になって見ることは出来ない。けれど、すぐ目の前のグラウンドには、すでにおおきな水溜まりがいくつも出来ていた。きっとテニスコートも同じような状態だろう。
 だが、朝練のときから雨の降りそうな空模様であったし、天気予報でも午後には崩れると言われていた。こうなることはあらかじめ予想して、きっと大石か乾あたりが、すでに予定を練っているだろう。
「菊丸。不二」
 教室の入り口から乾が顔をのぞかせて、二人を呼んだ。長身の彼の姿は、他の生徒達より頭ひとつ分抜き出ていて、すこし離れていてもよく目立つ。
「今日の放課後練習は中止になったから」
「やっぱりねー」
「大会前なのに、いいの?」
 普段なら、雨が降れば屋外練習の運動部が練習を中止するのは当たり前だ。だが今は大会の直前だった。こんなときに練習できないのはマイナスになるのではないかと、すこし心配になる。
 もちろん、1日休んだくらいでどうこうなるほど、青学テニス部が弱いとも思わないが、練習のペースというものもある。
「まあ逆に、大会前のいい骨休みになるだろ。うちは無茶する連中が多いから、すこし身体を休めることも大事だしね。でも一応、筋力トレーニングなど、屋内で出来る自主トレをしたいやつのために、小体育館のほう借りてあるから」
 確かに最近の練習量はいつもより多くて、誰の身体にも疲労が溜まっていた。もちろん疲労度なども考慮した練習メニューが組まれているが、張り切りすぎてそれを超えてしまうことが多いのだ。今日一日、ゆっくり体を休めて、溜まった疲れを取るのはいいことかもしれない。
 それに、ちゃんと小体育館を借りるあたりは、さすがに用意がいい。部員の中には、疲労よりも、『大会前の練習を休む』ことに精神的な負担を感じてしまう者もいるだろう。きっと努力家の海堂などは、自主トレーニングをしていくのだろう。
「他の皆には言った?」
「ここへ来る途中、桃城と荒井に会ったから、あいつらには伝えたよ。他の2年には、あいつらが伝えてくれるだろ。1年のところにはこれから行くんだ」
「ああ。じゃあ僕が行ってあげるよ。どうせ今からリョーマ君迎えに行くから」
 リョーマと付き合いはじめてから部活のあと一緒に帰るのはいつもの習慣だが、今日のように部活がない日ははじめてだった。いつも時間を決めて待ち合わせをしているわけでもないので、不二はリョーマを迎えに行こうと思っていたのだ。
 そんな不二の発言に、乾は肌身離さず持っているノートを広げて、早速何かを書きはじめる。
「不二は本当に越前に甘いな。釣った魚に餌をあげたがるタイプだったとは意外だな」
「あれ? 乾なんで知ってるの?」
 リョーマを『釣った魚』と表現するあたり、彼は不二とリョーマが付き合っていることを知っていることになる。付き合っていることは菊丸以外特に言っていないし、そこまであからさまな行動もしていないはずだった。
「データと照合して考えればすぐに分かることだ。データは嘘をつかない」
 きらりと眼鏡を光らせて、意味不明な自信と迫力を見せながら、乾が答える。
「ははは。乾は何でもお見通しだね。怖いなあ」
 怖いと言いつつも、不二はさして困ったふうもなく笑う。
 乾はデータ収集が趣味だが、それをむやみに言いふらしたりすることはないだろう。そのへんの単なる噂好きとは違うのだ。
「じゃあ俺は3年の他のクラスのやつらに伝えてくるから。1年のほうは頼んだぞ、不二」
 何かを書き終えたノートをまた大事そうに抱えて、乾は3年6組の教室を出て行った。
 部活がないことが分かったので、不二は早速帰り支度をはじめる。自主トレをしていってもよかったのだが、今日は骨休めということで、大会に備えて体を休めたほうがいいだろう。
 それに、部活よりも、すこし気になることもあった。
 昨日の帰り、リョーマの様子がおかしかった。
 放課後の部活のときまでは普通だったと思うが、その帰りに、急に不二に抱きついてきた。──まるで何かに怯えるように。不二がしばらく抱きしめてなだめていると、そのうちほとんどいつもの調子に戻って、一緒に帰ったのだが。
(何があった?)
 普段の勝気な様子からはあまり考えられないその様子を考えれば、何かあったことは明白だった。
 だがその理由を、不二はまだ聞き出せずにいた。
 昨日の帰り道では、いくらリョーマの様子がいつものように戻ったとはいえ、すぐに理由を問いただすのは無神経に思えて、あえて何も言わなかった。
 今朝はいつもと同じように迎えに行き、一緒に朝練へ行ったのだが、そのときもリョーマはいつもと同じ様子だった。──あるいは、無理にいつもと同じふりをしていたのかもしれなくて、そう思ったら、不二はまた何も聞くことが出来なかった。
「……なあ不二」
 菊丸に、遠慮がちに声をかけられる。ふと気付くと、何か言いたげに菊丸がこちらを見ていた。
「なに、英二?」
「あのさ、今日、手塚になんか言われた?」
 急にそう問われて、不二はちいさく首をかしげる。どうして急に手塚の名前が出てくるのか分からなかった。
「? ううん。特に何も言われてないけど。なんで?」
 自分でも気付かぬうちに、部活中に何かミスでもしただろうかと、不二は自分の行動を振り返ってみる。だが特に心当たりはない。
 菊丸は言いにくそうに、自分のした悪戯を告白する子供のように、不二とは視線を合わせないまま言葉を続けた。
「不二とおチビのこと、乾は自分で気付いたみたいだけどさ、……俺さ、昨日、手塚と大石に教えちゃったんだよ。不二とおチビが付き合ってるって。そしたら手塚、チョー怖い顔しちゃって。なんかあんまよく思ってないみたい」
「……手塚が?」
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「いいよ。絶対言うなって言ったわけじゃないんだし」
 本当にすまなそうにうなだれる菊丸に、なぐさめるように答える。菊丸に悪気がなかったことなど分かっているし、それを咎めようとは思わない。
 ただ。
(……手塚、か)
 その名前に、不二は眉をひそめる。
 昨日、部活中の時点では、リョーマはいつもどおりだった。そしておそらく部活中に、手塚が菊丸から話を聞いて。部活後の帰り道、リョーマの様子がおかしかった。
 ──そう考えれば、それらは1本の線でつながる。
 おそらく手塚は、部活が終わったあと、不二に何か言う代わりに、リョーマに何か言ったのだろう。それが『部長として』か、『はとことして』か、それ以外としてかは分からないけれど。そして何を言ったかなんて、だいたい想像がつく。つまりは別れたほうがいい、という旨のことだろう。
 それにリョーマはなんと答えたのだろうか。それについて、昨日の様子と照らし合わせたりして考えるのだが、不二はうまく想像することが出来なかった。
『僕と付き合わない?』
『いいっすよ』
 とても簡単に、言葉遊びのように、適当にはじまった関係だ。どうしてリョーマがそのときOKしたのかなんて、考えていなかった。理由なんて、どうでもよかったからだ。
 子供が目新しいおもちゃを独り占めしたがるように、越前リョーマという興味の対象を独り占めしたかった。そう出来るなら、他はどうでもよかった。リョーマ自身の感情さえ。だからリョーマが簡単に付き合いを肯定した理由も、深く考えたこともなかった。
(どうして僕と付き合うことにOKしたの?)
 今更ながらに、その疑問が湧きあがってくる。
 だがその理由も、だいたい想像はつく。彼にとって不二の存在がどうでもよかったからだ。彼は興味のないことにはとても無頓着な人間だから、不二からの告白を、断る労力さえ惜しんだんだろう。
『恋人同士』という名目でありながら、ふたりをつなぐものなど無いに等しい。
 冷静に考えれば、リョーマが不二と付き合うことに対するマイナス要素なんて、いくらでもある。男同士であるとか、部活の先輩後輩であるとか、不二の性格とか、それ以外にも。
 付き合うべきなどではないと冷静に誰かに諭されて、そのデメリットを知って、そうしたら彼はどうするだろう。やはり付き合うことをやめたいと、言い出すだろうか。
(────)
 何かが不二の胸を走った。とても冷たい、何か。切り裂かれるような痛みをともなう、締め付けられるような苦しさをともなう──なにか。
 だがその感情を、不二は正確に把握できない。把握できないまま、雪のように冷たく積もってゆく不安が、いらつきに変わってゆく。
 手塚の存在が、不二に見えないプレッシャーを与える。
『はとこ』というそれだけでも、彼はリョーマと血というつながりを持っているのに、何かは分からないけれどそれ以外の何かもあの二人のあいだにはあって。そのうえ、彼は不二とリョーマの『恋人同士』という関係を壊そうとしているかもしれないのだ。
「不二〜〜」
 菊丸の情けない声に、ふと我に返る。いつのまにか、自分の思考に入り込んでいた。そして笑顔も忘れて険しい顔になっていたようだ。菊丸からすれば、不二が怒っているとでも思ったのかもしれない。急いでいつもの笑顔を作った。
「じゃあ僕はリョーマ君のとこに行くから。また明日ね、英二」
「あ……うん。バイバイ」
 不二は手短に挨拶をして教室を出た。急いで1年の教室へ向かう。
 早くリョーマに会いたかった。
 今朝会ったリョーマはいつものとおりだった。昨日手塚に何を言われたにしろ、今朝のリョーマは、不二と別れたいとか、そんなことを言い出すような雰囲気は何もなかった。それだけが、不二にとっての救いのように思えた。
 リョーマに会って、変わらずに笑いかけて欲しかった。そうしたら、やっとこの不安もいらつきも消えるだろう。
(リョーマ君)
 知らず、進む足が速くなる。歩いていたはずの足は、いつのまにか人影の少ない廊下を走っていた。まるでなにかに追い立てられるかのように。
 1年の教室までほぼ全速力で走って、リョーマがいるはずの1年2組のプレートを目にして、そこで不二は足をとめた。
(──らしく、ないな)
 一体なにを、こんなに息が上がるほど全速力をしているのだろう。たかだか3年の校舎から、1年の校舎へ行くだけなのに。
 数回深呼吸を繰り返して、あがってしまった荒い呼吸を整える。
 そっと1年の教室をのぞくと、中には数人の1年生達とリョーマがいた。1年生達もこの雨で、今日の部活をどうすればいいか分からずに、部室へ行かずにここで何らかの連絡を待っているのだろう。リョーマはだらしなく机の上に座って、足を椅子の背もたれにかけたまま、窓の外を眺めていた。窓を伝う雨だけ見ていた。
「リョーマ君」
 呼びかけると、リョーマだけでなく、教室にいた1年すべての視線が不二に集まった。
「不二先輩!」
 その姿を認めて、確か堀尾という名の1年生が、弾かれたように座っていた机の上から飛び降りて直立した。他の二人の1年も同じように、背中に棒でも突っ込まれたかのように背筋が伸びる。
 まるで敬礼でもしそうなその勢いに、不二は苦笑する。彼らのようなヒラ1年部員にとっては、青学レギュラーナンバー2といわれる不二は、崇拝にも近い憧れの対象なのだろう。
 だがリョーマはだらしなく机に座って、足を椅子に引っ掛けたままだ。その大きな瞳だけが不二に向けられる。それはまったくいつもの彼で、不二はそれにすこし安心する。
「ど、ど、どうしたんですか。不二先輩が、わざわざ1年の教室まで来るなんて」
 堀尾が、緊張のためか、どもりながら尋いてきた。
「今日は部活お休みだって。それを伝えに来たんだ」
「いいんすか、大会前なのに」
「大会前の骨休めだって。でも自主トレしたい場合は、小体育館が使えるらしいよ」
 不二は、もう人もまばらになった1年の教室へ入る。そしてリョーマの近くまで来ると、堀尾達に笑顔で視線を向けた。その途端、彼らの顔は茹でられたように真っ赤になる。
「堀尾君……と、カチロー君と、カツオ君、だっけ? 他の1年生にも伝えてくれるかな?」
「はっ、はい!! 任せてください!!」
 憧れの先輩から、光栄にも直々に頼まれたことを行使すべく、1年生トリオは教室を飛び出していった。バネ仕掛けの人形のような俊敏さだった。これで彼らが他の1年部員へ部活の中止を伝えてくれるだろう。
 不二は机に座ったままのリョーマに視線を向けた。
「じゃあリョーマ君、帰ろうか」
「……ウッス」
 リョーマは荷物を持って、机から飛び降りる。そのまま不二の傍まで来て、何かに気付いたように不二を見上げた。
「あれ。不二先輩、走って来たんすか?」
「え? なんで?」
「すこし、汗かいてる」
 リョーマは腕を伸ばして、すこし長めの不二の前髪を一房すくう。
 不二の心臓が跳ねる。
 何気ない仕草であるはずなのに、リョーマが自分の髪に触れたことに。ほんのすこし屈めば、きっとそのくちびるに触れられる、その近さに。そのリョーマの大きな瞳には、今、自分が大きく映し出されている。
「うん。リョーマ君達に、早く部活休みだってこと伝えなきゃと思ってね。急いで来たんだ」
 わけもなく早くなる鼓動を気付かれないように、いつもの笑みで答える。
「……あそ」
 さして興味もなさそうに、リョーマの手が不二の髪を離れた。
(本当は、早く君に会いたかったんだよ)
 そう伝えたら、彼はどんな顔をするだろうか。どんな反応を返すだろうか。やはり不二はリョーマの返事をうまく想像できずにいた。
「不二先輩。帰ろ」
 リョーマが不二の袖をちいさく引く。
「ああ。うん」
「今日部活なくて早いから、どっか寄り道しようよ」
「うんいいよ。どこに行きたい?」
「えーと。ゲーセン行きたい。あとバーガーショップ」
「はいはい」
 リョーマの様子は、まるでいつもと変わりない。そのことに不二はひどく安心する。昨日手塚に何を言われたにしろ、リョーマはいつもどおりだ。別れたいなんて、言い出す気配はない。ささくれ立っていた心が凪いでいく。
(よかった)
 リョーマがいつもどおり笑いかけてくれるから、それだけでもうよかった。
 それだけで。



 渡り廊下を歩いていた手塚は、通り過ぎる影に気付いてふと足をとめた。
 外に面した渡り廊下からは、雨の中傘をさして帰ってゆく生徒達がよく見える。雨でくすんだその向こう、その中にある、見知った影。
(……リョーマ)
 ちいさな身体に、大きめの紺色の傘をさして。リョーマはこちらに気付くこともなく校門のほうへ向かって歩いていた。
 その隣には、当然のように不二がいて、その姿を認めて手塚は眉をひそめた。昨日、リョーマには不二に関して忠告をしたというのに。
(──昨日)
 昨日の、リョーマとのやり取りが思い出される。
『嘘つき!!』
 リョーマの言葉が、今も手塚の耳に残る。それはきれいに研がれた銀のナイフの鋭さで、手塚を切りつける。
『じゃあなんであのとき──!!!』
 飲み込まれて途切れた言葉の先は、ちゃんとわかっている。それは許されることのない手塚の罪だ。

 なんであのとき、助けてくれなかったの?

 それは、手塚自身も何度も思った。抱えきれない後悔と共に。どうして、助けられなかったのだろう。どうして、あのとき、傍にいてあげなかったのだろうと。あんなことになると知っていたなら。
 あのころの、5年前の記憶がよみがえる。
 あのころ──あの事件がおきた5年前、リョーマの両親は仕事が忙しく、いつも留守がちだった。
 父親である南次郎は腕を痛めプロを引退したとはいえ、そのテニスの腕が劣ったわけではない。激しい試合や長時間のプレーは無理だが、テニスが出来なくなるというほどではなかった。そして彼は『サムライ』と恐れられた名テニスプレイヤーだ。引退した南次郎のもとには、テニスの指導をしてくれないかという依頼が殺到していた。
 南次郎だって、テニスが嫌いでやめたわけではない。できればずっと好きなテニスにかかわっていきたかっただろう。だから彼はその依頼のいくつかを受けていた。
 名選手だった彼は、指導者としてもその才能を発揮した。破天荒な教え方ではあったが、型にはまらないその指導に惹かれた者も多い。南次郎自身も、指導者としての面白みややりがいを感じていたのだろう。だんだんと引き受ける仕事の数も増え、家を空けることが多くなった。
 一方母親は、国際弁護士としてバリバリと働いていた。もともと行動的な彼女は、いつも忙しく日本中を飛び回っていたし、海外へ出張することも多かった。
 そのせいで、まだ小学校にあがったばかりのリョーマと、そのひとつ上の兄だけで、家にいることも多かった。
 だがもちろん、いくら多忙とはいえ、南次郎達だって子供達のことを全く気にしていなかったわけではない。彼らは子供を十分に愛していた。だから、どうしても両親共に家を空けるときは、親戚である手塚家にリョーマ達を預けたり、様子を見てくれるよう頼んでいた。手塚家のほうもそれを快く引き受け、リョーマ達の面倒を見ていた。
 あの日も、そうだった。
 南次郎もリョーマ達の母親も、仕事で家を空けていて、家には子供達二人だけが留守番をしていた。出来れば手塚家で預かりたかったのだが、その日はちょうど手塚家のほうでも皆がそれぞれ出かける用事を持っており、しかたなく子供達二人だけで留守番することになってしまった。
 その代わり、テニススクールの帰りに、手塚が越前家へ寄ることになっていた。すでにテニスに興味を持ち、テニスをはじめていた手塚は、近くのジュニア向けテニススクールへ通っていたのだ。
「国光。練習が終わったら、リョーマ君たちのおうちに行ってあげてね。ちゃんと面倒見てあげるのよ」
 出掛けに母にそう言われた。
 それに手塚も快く返事をした。
「わかった」
 リョーマ達と手塚はそう年が離れているわけでもないが、年の割にしっかりしている手塚は、よくはとこ達の面倒を見ていた。その日も、リョーマ達の家に行って、彼らの両親が帰ってくるまで一緒にいてあげるはずだった。
 だが、スクールへ行って、テニスをしているうちに、それに夢中になってしまった。
 テニスは面白かった。憧れの南次郎にはまだまだ及ばないけれど、だんだんと力もついてゆき、自分がどんどん伸びてゆくのが、自分でも感じられた。まるで、あとすこしで空でも飛べるかのような飛翔感にも似た気持ちがあった。それにその日はコーチに新しい打ち方を教えてもらったばかりで、それをマスターすることに夢中になってしまった。
「もうそろそろ帰る時間だね。でももうすこし打っていくかい?」
 コーチ言われ、気づけばすでに帰る予定の時間だった。時間も忘れるほど手塚はテニスの練習に夢中になっていた。けれど、まだ満足できるほどではなかった。もっと練習したかった。あとすこしで望むものに手が届きそうな、そんな高揚感があった。この流れをとめたくなかった。
 手塚の脳裏にちらりと、家に二人きりでいるだろうちいさなはとこ達のことがよぎった。彼らはきっと、自分が来るのを待っているだろう。
(でも)
 リョーマ達が、家で留守番するなんて、いつものことだ。今日だってちゃんと、二人で留守番しているだろう。手塚がいないからといって、困ることはない。今日は手塚が行く約束をしていたが、普段は二人きりで待っていることだって多いのだ。夕飯もちゃんと用意されていて、あとはレンジで暖めるだけだし、火を使うようなこともない。
 すこし行くのが遅くなったって、困ることなんてないはずだ。
「もうすこし、練習していきます」
 頭に浮かんだはとこ達の姿を頭から振り払って、手塚はまたテニスの練習を続けた。一緒にいると、約束したのに。その約束を破って。
 そのときリョーマ達の身に何が起こっているかなんて、カケラも想像も出来ずに。
(もしもあのとき、傍にいたなら)
 そんな後悔はもう意味を持たない。時間はもう戻らない。失われた命も。
『嘘つき!!』
 そうだ。手塚は嘘をついた。一緒にいると、約束したのに。
 だからこれは、手塚の罪だ。他の誰が許しても、他の誰に悪くないと言われても、手塚は自分を許せはしない。5年経った今でも。
(リョーマ)
 渡り廊下には一応屋根がついているとはいえ、外に面したそこには、雨が吹き込んでくる。そこに立つ手塚の髪に肩に頬に、冷たい雫が打ち付けてくる。
 けれど手塚は、立ちすくんだように、その場に立ち尽くしていた。


 To be continued.

 続きを読む