リバーシブル・エッジ 7


 青学は地区予選を優勝して、都大会への出場を決めた。
 だがそれに安心して、気を抜くことは出来なかった。
 地区予選ですら、不動峰というダークホースに苦戦を強いられた。これから先の大会では、もっと強い相手が現われるだろう。青学が目指すのは『全国一』なのだ。こんなところで立ち止まっているわけにはいかなかった。
 次の都大会へ向けて、再び厳しい練習がはじまっていた。
「よし。越前と海堂は5分休憩。代わりに大石と河村。コートに入って」
「ウイーッス」
「よっしゃあああーー! いくぜ!!」
 乾の指示に、打ち合いをしていたリョーマと海堂がコートを出る。代わりにラケットを持って人格が変わった河村と、その様子に苦笑を浮かべる大石がコートに入っていった。
 リョーマはコート脇のフェンス近くに座り込む。海堂とのラリーは、思った以上に大変だった。スネイクは一度破っているものの、最近さらにその切れがよくなったように思う。きついカーブを描くその球を打ち返すために、右へ左へ走らされた。今だって、疲れて座り込むリョーマとは裏腹に、海堂はあまり息も切れていない。きっと彼は、見えないところで想像も出来ない程の練習をしているのだろう。
(きっと、他のすべてを忘れるほど、テニスを)
 そう考えかけて、リョーマは自分の思考をとめた。思考が嫌なほうへ流れていこうとするのを、必死に押しとどめようとするように。
 多分そんなことは、考えるべきことではないのだ。どちらがどれほど大事かなんて、比べられないものだってあるし、それがすべてに比例するわけではないのだから。
 思考を他へ向けようと、リョーマはコートのほうへ視線を戻した。
 リョーマのすぐ目の前のコートでは、不二が桃城相手に打ち合いをしていた。リョーマはそれをぼんやりと眺める。さすがに青学ナンバー2と言われるだけあって、とてもきれいなフォームだ。なめらかな動きは優雅とさえ思える。桃城の打ち出す剛速球を、そつなく返してゆくプレイはさすがだ。
 打ち出されるボールを目で追って──ふと、審判席に座っている手塚と、目が合う。
「……っ」
 思わずリョーマは視線をそらしてしまう。
 そうして、そうしてしまってから後悔する。今の態度を、手塚はどう思っただろうか。
『嘘つき!』
 数日前、自分が放った言葉が、頭の中によみがえる。
(あんなことを言うつもりじゃ、なかったのに)
 思わず頭に血がのぼって、あんなことを言ってしまった。それで手塚が傷つくと、分かっていたのに。あふれだす自分の感情を、抑えられなかった。
 謝らなければと思うのに、結局あれから大会前後の忙しさに、うやむやになってしまっている。
 このことだけではない。入学してから今までだって、まだまともに手塚と向き合えていない。なんだかんだと理由をつけて向き合うことから逃げて、時折接触するときは『先輩と後輩』という立場に逃げ込んで。これでは何のために青学(ここ)へ来たのか。
 こんな自分がイヤになる。もっと、ちゃんと感情がうまくコントロールできるくらいの大人になりたいのに。どうしてもっと強くなれないのだろう。
 胸が圧迫されるように息苦しい。肺に静かに水が注ぎ込まれるかのように、うまく息が出来なくなってくる。
(不二先輩)
 不意に、目の前でラリーを続けている『恋人』のことを想った。
 今、彼が隣にいてくれればよかったのに。
 不二が傍にいてくるとき、リョーマはこの息苦しさから解放された。過去になにがあったかなんて不二は知らないだろうし、リョーマも言うつもりはない。それでも、彼がいてくれるだけで、リョーマはいつも救われていた。
 もしも彼が、抱きしめて、微笑みかけてくれれば、この息苦しさなんて、すぐに消えてしまうのに。
 だが今、不二はラリーの真っ最中で、きっとリョーマの視線にも気付いていないだろう。彼の目が追うのは、ちいさな黄色いボールのみだ。距離的にはすぐ近くにいるのに、コートの中にいる不二は、何故だかひどく遠く感じられた。
「おっチビ〜〜」
 不意にリョーマの背中に重圧がかかる。振り向かなくても、それが誰かなんてすぐにわかる。こんなことをするのも、リョーマをそう呼ぶのもたったひとりだ。
「……重いですよ、英二先輩」
 同じように休憩中らしい菊丸が、後ろから羽交い絞めにするようにリョーマにのしかかっていた。
「なになに〜おチビったら不二のこと見つめちゃって。熱いにゃ〜〜」
「別に。ラリー見てただけじゃないすか」
 菊丸に指摘されて、リョーマは素っ気なくコートから視線をそらした。不二を見ていたのは事実だが、他人にそれを見抜かれるのは恥ずかしい。耳がわずかに熱くなる。照れを隠すために、背中の菊丸を振り落とすように立ち上がった。
「も〜おチビはほんとにカワイイにゃ〜〜」
 だがそんなリョーマの照れ隠しの行動など菊丸にはお見通しのようで、一度振り落とされた菊丸はすぐに立ち上がると、またリョーマを腕の中にしっかり押さえつけて、髪にほおずりしてくる。
 いつもならここで不二の邪魔が入るところだが、不二は今ラリーをしていてここへは来れない。菊丸もそれを分かっていて、鬼の居ぬ間とばかりにリョーマにかまってくるのだ。
「おチビほんとかわいー。あーあ。俺、おチビみたいな弟欲しかった〜」
 言われた言葉に、ちいさくリョーマの肩が揺れる。だがそれに菊丸は気付かなかったようだ。そのまま言葉を続ける。
「なあなあおチビ、俺の弟になんない?」
「なに言ってんすか」
「え〜いいじゃん。なあおチビ。俺のことちょっと呼んでみてよ。『おにーちゃーん』てさ」
「────」
 菊丸に他意がないことなんて分かってる。菊丸は本当に純粋に、リョーマが弟のように可愛くて、そう思って、それを口にしているだけなのだろう。でも。
「──いやっすよ。何で俺がそんなこと言わなきゃいけないんすか」
「なんだよー。いーじゃんそれくらい。『おにーちゃん』て言うまで離してやらない」
 突っぱねるリョーマの態度に、菊丸もすこし意地になったのか、さらに強い力で抱きついてくる。きっと彼は、リョーマが言うまで離してくれないだろう。菊丸の腕力は案外強くて、リョーマには振りほどけない。
 まわりにいる部員達も、いつものじゃれあいとでも思っているのか、誰も助け舟を出す者はいない。むしろ、微笑ましそうに見守っている。
(────)
 多分それは、なんでもないことだ。先輩をふざけて『おにいちゃん』と呼ぶことくらい。普通ならきっと、何気なくやることなんだろう。ここで変に突っぱねるほうが、きっとおかしいのだ。
 たった一言、そう呼びかければ、菊丸だって満足するだろう。ひとこと、その単語を口にする。それだけのことだ。ひとことその単語を口にして、”これで満足しました?”とでも、いつもの生意気な態度をとって見せなければ。
 普通の振りをしなくちゃ。なんでもない振りを。誰にも心配かけないように。
「おに……い……」
 リョーマは必死にくちびるを動かして、その言葉を言おうとした。たった5つの音を、順番に並べるだけだ。たったそれだけなのに。
(おにいちゃん)
 不意に、フラッシュバックのように、記憶がよみがえる。ただひとり、リョーマがそう呼んでいた相手。優しい笑顔。彼と、一緒に過ごした時間。それはもちろん、しあわせな記憶が多い。けれど必ず最後に、あの日に辿り着いてしまうのだ。
 あの、5年前の日。
『大丈夫。リョーマは、僕が守ってあげるから』
 最後に一度抱きしめられたぬくもりと、告げられた優しい声だけが、今も鮮明に残っている。
 暗くて狭いあの空間で、ただ、彼の泣き叫ぶ声を聞いていた。
 扉越しに聞こえた、くぐもった悲鳴。彼の、最期の声。何も出来なかった自分。
(────)
 世界が歪むように、視界がぐにゃりと曲がった。うまく膝に力が入らない。立っていられない。すべてが遠くなるような感覚が襲う。
「おチビっ!?」
「越前!?」
 聞こえる声も、どこか遠い。まるで、水の中で音を聞いているかのように。うまくリョーマの元まで届かない。
 世界が光を失くすように、視界が暗くなってゆく。
 あのとき、あの暗い場所で、膝を抱えていたときのように。
 暗い、世界。そこへ飲み込まれてゆく。
(たすけて)

「リョーマっ!!」

 ゆっくりと閉ざされる視界の中で、走り寄ってくる影が見えた。けれどそれが誰なのか、もうリョーマには判別できない。重いまぶたが閉ざされる。
 崩れる体は、地面につく前に、しなやかな腕に抱きとめられた。その腕を、知ってる。優しい腕。
「────………」
 そのひとの名前を、呼ぼうとした。その名前を。
 それはうまく声になっただろうか。そのひとに届いただろうか。
 何も分からないまま、リョーマの意識は、そこで途切れた。



 部室の中は、張り詰めた嫌な空気に満ちていた。何かちいさなきっかけさえあれば、風船が割れるように何かが壊れて、嫌なものがあふれだしてきそうだった。
 そんな雰囲気をかもし出している源は自分であると、不二は気付いていたが、それをとめることが出来なかった。秒針がひとつ進むごとに苛立ちがひとつ増えていくようだった。いつもの笑顔を張り付かせていることさえ出来ない。
 居心地の悪い空気を感じて、一般部員は部活が終わるとすぐに皆帰っていった。ここに残っているのは、都大会のミーティングがあるレギュラー陣と参謀役の乾だけだった。──いや、正確には、レギュラーの中で、手塚とリョーマだけがここにいなかった。それが不二の機嫌をここまで悪くさせている原因だった。
 今日の練習中に、突然リョーマは倒れた。不二がラケットを放りだしてリョーマのもとに駆けつけたときには、彼は血の気のない青い顔をして、力なく目を伏せていた。投げ出された細い手足はまるで壊れた人形のようだった。
 詳しいことは分からないが、倒れた原因は、病気や怪我などではなく、どうやら精神的なことらしい。しばらく様子を見ていたがリョーマは目を覚ます気配はなく、結局自宅に連絡して、彼の父親が迎えに来ることになった。
 そのときに顧問であるスミレがひとこと言ったのだ。
『手塚。おまえもついてってやんな』
 それに手塚は、無言のままちいさくうなずいた。
 そうして、リョーマは意識のないまま、迎えに来た彼の父親の車に乗せられて、手塚と共に帰っていった。
 不二は、自分もリョーマについていこうとした。彼に付き添っていたかった。だが、それはスミレにとめられた。
『越前のことは手塚に任せておきな。これはあいつらの問題なんだからね』
 彼女が何を言っているのか分からなかった。彼らの問題とはどういう意味なのか。リョーマが倒れたことに手塚が関係しているのか。なにひとつ、不二には分からない。だがスミレはそれ以上何も言わなかった。
 なにひとつ納得できないまま、けれどスミレにそう言われてしまった以上、無理矢理リョーマについていくことも出来ずに、不二は苛立ちを抱えたまま、ここに残るしかなかった。
 手塚がリョーマについていったのは、『部長としての責任』などではない。それなら一体なんだというのか。『はとこだから』だろうか。
 それなら、自分は『恋人』なのに、どうして倒れた彼の傍にいる権利がないのだろう。リョーマとの関係が秘密にされているとはいえ、理不尽に思えてならなかった。
 いらつく不二のオーラは隠しようもなく部室中に満ちていて、他のレギュラー達も、それをひしひしと感じていた。けれどそれをどうすることも出来ない。
「……おチビ倒れたの、俺のせいかな……?」
 いつもは明るい菊丸も、今日ばかりはうなだれていた。菊丸と話している最中にリョーマは倒れたのだから。
「俺、おチビになんかしちゃったかな」
「別に英二のせいじゃないだろ。越前と普通に話してただけなんだろ?」
「そうだけど……」
 うなだれる菊丸を大石がなぐさめる。だが彼の元気はまだ戻らなかった。不二もそれに気付いていたけれど、菊丸のことにまで気を回してやる余裕などなかった。
「大会前なのに、越前大丈夫っすかね」
「お見舞い……行ったほうがいいのかな? でも手塚が行ってるし……」
 レギュラー達は、それぞれリョーマを心配したり気遣ったりしていた。彼らにとっても、リョーマは戦力というだけでなく、生意気でかわいい後輩なのだ。
 だがその中で、乾だけが皆の会話に加わるでもなく、ただじっと皆の様子を見つめていることに、不二はふと気付いた。
 たとえばそうやっていたのが海堂なら、特に疑問にも思わないだろう。彼はもともと無口で、あまり皆と交わらないのだから。だが乾は違う。どちらかといえば彼は、こういう場面でいちばん動きそうな人物だった。それが何も動かないというのはおかしい。
 不二は静かに、皆から離れたところにいる乾のもとへと近づいた。
「乾。君、何か知ってるの?」
「何でそう思うんだ」
「いつもの君なら、真っ先に原因究明に乗り出しそうなのに、今は何も動いていない。ノートさえ開いていない。ということは、もうすでに『知っている』ってことじゃないの?」
 それに乾はデータ収集を得意としている。なにか不二らも知らない情報を、先につかんでいるということも十分考えられた。
 乾の表情は、厚い眼鏡に阻まれて読みにくい。けれど、不二は彼が何か知ってるとにらんでいた。
「君は何を知ってる? リョーマ君はなんで倒れたの?」
 不二は乾を睨みつけるように見つめた。普通の人間なら思わずあとずさってしまいそうなその強さにも、乾は眉ひとつ動かさない。
「……確かに俺は、おまえよりすこしだけ事情を知っている。でもそれを俺から言うことはできないよ」
「なんで? 僕はあのこの『恋人』だよ」
 詰め寄る不二に、乾は無表情のまま言葉を返した。
「不二。『恋人』ってのは、免罪符じゃないんだ」
「────」
「『恋人』だからって、何でも許されるわけでもないし、なんでも権利があるわけじゃない」
 乾の言葉に、不二はくちびるを噛む。
 そんなことは分かっている。恋人という立場を免罪符にしたいわけじゃない。
「──違う。僕は、ただ──リョーマ君が──」
 ただリョーマが、心配で心配でならないのだ。
 彼が、自分の知らないことで苦しんでいるのが耐えられないのだ。苦しんでいることがあるなら助けてあげたい。苦しみも痛みも分かち合いたい。そうしてまた笑って欲しい。笑いかけて欲しい。
 彼がつらいときもしあわせなときも、その傍らにいるのは自分でありたいのだ。
 ──それは、何故?

(僕は、ただ、リョーマ君が──)

 不二は不意にそれに気付いた。
 モノクロの世界が色づくように、音のなかった世界に音が響くように、それは不意に不二の心に落ちてきた。今まで名前を持たなかった、その想いは。

 好き、なんだ。

 あのこが。越前リョーマが。
 興味でも、好奇心でもない。
 心臓をゆるく締め付けるように痛ませるこの気持ちは。ちいさな灯りをともすように心をあたたかくするこの気持ちは。
 ただひとり、愛しいと想う。
 すべての理由など、ただ、それだけ。

「頼む。教えてくれ。乾……」
 自分の胸を抑えるようにきつく掴んだまま、不二は言葉を絞り出すように乾に告げた。
 その姿に、乾はちいさく溜息をつく。
「おまえがそんな顔するなんてな、不二」
 乾にそう言われても、不二は自分が今どんな顔をしているのか分からなかった。
「……俺だって、全部を知ってるわけじゃない。具体的に何があったのか、手塚がどうかかわっているのか知ってるわけじゃないんだ」
 乾はファイルから一枚の紙を取り出して、不二へ差し出した。
 受け取って、それに不二は目を通す。新聞のコピーだった。上欄の日付に目をやれば、それは5年も前のものだ。その中に、ひとつの記事を見つけて、その内容を読んで、目を見開いた。
「──これ……っ!!」
「これ以上のことは、俺も知らない」
「────……………」
 不二は言葉を詰まらせる。
 そこにあったのは、その前日に起きた、強盗事件を報じた、ちいさな記事だった。


『……──×日夕方、××市の越前南次郎さん宅に、強盗が入り──
 留守番をしていた長男のリョータ君が殺害され──
 一緒に留守番をしていた次男のリョーマ君は無事保護され──……』



 To be continued.

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