リバーシブル・エッジ 8


 倒れたリョーマを連れて、手塚は越前家へ来ていた。
 運ぶために抱き上げたリョーマの身体は、子猫のように軽い。
 たしかに5年前に比べればリョーマも大きくなっているが、同時に手塚自身も成長した。だから抱き上げた身体は、あのころよりちいさくなっているような錯覚におちいってしまう。
 ちいさな子供。きっと、ほんのすこし力を込めれば壊すことなんて簡単だろう。その頼りない細さの身体も、その純粋すぎるゆえにもろい心も。
 だからこそ、子供は、守らなければいけない、守られなければいけない存在なのだ。雛鳥のように、あたたかでやわらかな羽毛に幾重にもくるまれて。
 実際手塚もそう思っていた。あのちいさなはとこ達を、守ってやらなければと。子供ながらに振りかざしたあの正義感と愛しさは、たしかに本当だったのに。
 リョーマの自室に入り、意識のないままの彼をベッドに寝かせた。そのとたん、毛並みの長い猫がベッドに飛び乗ってきた。猫もどこか心配そうに、眠ったままの飼い主を見つめている。だがあの大きな瞳はまぶたに閉ざされたままだ。
「リョーマ」
 手塚はそっと、リョーマの髪をなでる。だが起きる気配は欠片もない。
 あの強気な大きな瞳が隠れているぶん、眠った顔は幼さを増して、手塚に昔を思い起こさせる。いつも一緒にいた昔を。
 いつもいつも笑っていた、あのころ。それは、あることが当たり前で、なくなってしまうことがあるなんて、あのころは知りもしなかった。
 リョーマが倒れた原因は、分かっている。彼が倒れたとき、菊丸はふざけて、彼に兄弟の話をしていたと言っていた。それが引き金となってしまったのだろう。
 引き金となって、5年前のあの日を思い出してしまったのだろう。──彼のすぐ傍で、彼の兄が殺された、あの日を。
(────)
 今も彼の中では、あの日の光景が繰り返されているのだろうか。壊れたビデオテープがそれだけを繰り返すように。長い迷路の中で、出口を見つけられずにさまようように。彼は、今も。
 胸がふさがれるような苦しさを感じる。リョーマにその苦しみを与えたのは、手塚だ。あのとき手塚が約束を破らなければ、きっと結果は違っていたのに。
(あのとき、俺が)
 ふと、手にリョーマの髪以外の感触を感じた。見ると、猫が、手塚の手に自分の頭をこすりつけるように擦り寄っていた。まるで、手塚を慰めようとするかのように。
 じっと見上げてくる大きなアーモンド形の瞳は、リョーマに似ている。もっとも、今は彼がこんなふうにまっすぐ見つめてくれることなどないけれど。
「おまえ、ご主人様を、看ててくれよ」
 猫の頭を軽くなでると、まるで返事をするように猫は一声鳴いた。それに手塚はちいさく笑って、立ち上がって部屋を出た。リョーマを起こさないように、静かに扉を閉める。
 一階に降りてくると、縁側で煙草を吸っていた南次郎が手塚に声をかけてきた。
「よお。悪かったな、国光。運ばせるの付き合せちまって。練習休んじまって大丈夫か? おめー部長なんだろ?」
「いえ……俺こそ……こんなことになって……」
 どう答えていいか分からずに、言葉に詰まる。
 手塚が南次郎に会うのも、5年ぶりだった。
 手塚の両親や祖父は、彼らがアメリカから帰ってきた直後に一度挨拶で会っていたが、手塚はその席に同席していなかった。
 ──怖かったのだ。
 リョーマに向き合うことが怖かったように、南次郎に会うことも怖かった。あの日のことを、責められるのではないかと。南次郎はそんなことをしないと、頭では分かっていても。
 5年ぶりに、こんな形で再会した南次郎は、けれどあのころとあまり変わっていないように見える。着てるのは見慣れない法衣だが、どこか人をからかうような雰囲気や喋り方も、剃られていない無精髭も、──強い光を秘めた鋭いまなざしも。すべてはあのころのままだ。
「あいつも最近は落ち着いてたんだが……まあタイミングが悪かったんだろ」
 彼の息子が倒れたというのに、南次郎は慌てた様子もなく、こんなところでのんきに煙草を吸っている。リョーマが倒れたと連絡したときも、南次郎はそれほど慌てた様子は見せなかった。その様子に、それはめずらしいことではないのだと気付かされる。
「…………」
 本当は、分かっていたことだった。いくら普段普通の振りをしていても、リョーマがまだ5年前の事件の苦しみから解放されてなどいないことくらい。
 5年前のあの事件の直後、そのショックから、リョーマは心神喪失状態におちいっていた。
 その瞳は何も映さず、その耳には何も届かず、泣くことも笑うこともない、人形のようになっていた。まだ10にも満たない子供が、兄が殺される場面に遭遇してしまったのだ。無理のないことだった。
 南次郎が家族と共にアメリカへ行ったのは、リョーマのためだった。つらい記憶のあるこの地から離れたかったということもあるだろう。だがなにより、リョーマの精神的な治療と療養のために、日本を離れたのだ。
 それほどに、リョーマの傷は深いのだ。そして5年経った今でも、癒されることなどない。
 もしもあの日、手塚が、約束を破らなければ。一緒にいてやれば。
「──おじさん、俺は……」
「おまえのせいじゃねえよ」
 南次郎が手塚の言葉をさえぎる。
 手塚が顔を上げると、南次郎とまっすぐに目が合った。その目には、憎しみも同情も哀れみもない。その奥には、たしかにちいさな痛みはある。それでも南次郎はまっすぐに手塚を見ていた。
「あのときおまえがいたところで、なんも変わんねえだろ」
「────」
 それは手塚も思ったことだ。
 あのとき、手塚だってまだ10歳の、ただの子供でしかなかった。もし手塚があの場にいたからといって、何が出来たかなんてわからない。いたとして、彼らを助けられたかどうか。
 逆に、もしあの場にいたら、きっと手塚も殺されていただろうから、いなくてよかった、運がよかったのだと言うひとまでいた。いや実際そうなのだろう。あの場所に手塚がいても、どうにもならなかっただろう。それは手塚もわかっている。
 でも、そんな意味ではないのだ。そんなことではないのだ!
 あの日、あのとき、手塚は一緒にいると約束していた。それなのに、約束を破った。彼らを見捨てたのだ。彼らより、テニスを選んだ。その結果がこれなのだ!
『たすけて』
『たすけてくににー』
 きっと彼らは泣きながら助けを求めたはずだ。手塚の名前も、何度も呼んだはずだ。助けられたかどうかは問題ではない。たとえ助けられなかったとしても、一緒に殺されたとしても、手塚はあの場にいなければいけなかった。いなければいけなかったのだ!
(それなのに、俺は──!!)
 封印していた想いが堰を切ったようにあふれだす。普段は直視することが怖くて、心の奥に閉じ込めて考えないようにしている後悔や自責が、今、手塚を飲み込もうとあふれだす。
 爪が手のひらに食い込むほど強く握り締めた拳が、小刻みに震えた。うまく言葉が出ない。
 それをなだめるように、軽く二の腕を叩かれた。
「国光。ひとりで全部背負い込もうとすんな。おまえなんかより、──あのときあいつらを置いてった俺らのほうが、よっぽど悪いさ」
「────」
 南次郎の言葉に、手塚はいつの間にかうつむいていた顔を上げた。南次郎を見つめる。彼は片眉を歪めてどこか痛みをこらえるような顔をしながら、けれどいつものように笑っていた。
 その笑い顔に、紙風船の空気が抜けるように、握り締めていた拳の力が抜けてゆく。
 たしかに、誰がどれほど悪かったのか、誰にどんな責任があるのかと問われるなら、それは手塚などよりも、南次郎や他の大人たちのほうに責任があるのだろう。
(──でも)
 今南次郎が着ているのは、見慣れない法衣だ。5年前、彼がこんなものを着ている姿など想像できなかった。彼はいつも、テニスウエアをまとっていた。だが、あれから南次郎は、指導者としてもテニスにかかわることをやめてしまった。そうして坊主という、いつも家にいられる仕事を選んだ。
 それなのに、手塚は。今ここで、青学テニス部のジャージを着ていて。
「……でも俺は、あんなことがあったのに、それでもテニスを続けてる」
 あの日、手塚はリョーマ達よりテニスを選んだ。それを後悔しているのに、それでも結局テニスを捨てられずにいる。今もこうしてテニスを続けている。それはきっと、許されることではない。
「俺だって毎日テニスしてるぜ? 裏のコートでな。それにリョーマだってテニスしてるじゃねえか」
「それは──」
 言いかけて、手塚は言葉を詰まらせた。その答えが、うまく見つからなくて。
(────?)
 不意に気付く。そういえば、何故リョーマがテニスをしているのだろう。父親の血を継いだあの才能のことは置いておくとしても、彼はテニスを憎んでいてもおかしくないのに。そうだ。何故、彼はわざわざ、『青学』へ来て、『テニス部』へ入ったのだろう? 手塚になど、もう二度と会いたくないと思われても仕方ない状況だ。むしろ、彼はきっとそう思っていると思っていた。それなのに、何故──?
 その答えは、分かりそうで分からなかった。
 だまし絵のように、すべては手塚の前に見えているはずなのに、そこに秘められた『何か』に気付くことができない。きっと、なにかちいさなきっかけで気付いてしまえば、すべては見えてくるはずなのに。今はまだ、気付くことができない。
 答えが見つからずに考え込む手塚の姿に、南次郎は短くなった煙草の煙をくゆらせた。
「国光。おまえテニス好きか?」
 不意の南次郎の問いかけに、手塚は目を見開く。
 昔、同じ問いをされたことがあった。あの事件が起きる前だ。手塚がテニスをはじめたばかりのころ。南次郎のようになりたいと、子供ながらに精一杯の真剣さで告げたとき、南次郎は笑いながら、けれど真剣なまなざしでそう問い返してきた。あのときは、一瞬のためらいもなく、それに答えていた。迷うことなどなかった。
 だが今は、なんと答えるべきか迷う。それを自分が口にして許されるのかと。
(──俺は)
 数秒ためらった後、手塚はゆっくりと口を開いた。
 あのとき、大切なはとこ達よりテニスを選んでしまったことを今でも後悔している。それが許されるとは思わない。
 それでも嘘はつけなかった。
「──はい。テニスが、好きです」
 それは、ただひとつの真実だから。それだけは、偽れなかった。
 手塚の答えに、くわえタバコのまま、南次郎は笑った。
「それでいいんだよ」
「……」
 南次郎の言葉の真意を、手塚はうまくつかめない。
 それでも否定されなかったことに、許されたことに、ちいさな枷がひとつ外されたような気がする。
「国光。今度、飯でも食いに来いよ。あと、テニスもしようぜ。おまえがどれほど強くなったか見てやる」
 まるで昔と同じに、南次郎は手塚に笑いかける。それに何故だか、手塚は泣きたいような感情を覚える。目頭が痛むように熱くなるのを、必死にこらえる。
「はい、是非お願いします」
 答えた声は、かすかに震えてかすれた。
 南次郎は、強いひとだと思う。テニスの腕だけでなく、いろいろな意味で。
 とてもとても、強いひとだと。
 そうだ。まるで自分とリョーマばかりが傷ついたような気になっていたが、傷ついたのはそれだけではないのだ。
 南次郎は、実の子供を殺されたのだ。そして残されたもう一人の子供は心に大きな傷を負って。彼が、仕事で家を留守にしたときに。本当は、後悔も自責の念も、手塚の比ではないだろう。どれほど自分を責めただろう。どれほどの痛みを抱えたのだろう。おそらくは、手塚の想像もつかないくらい。
 その傷も痛みも、彼の中から消えはしないだろう。今も、その胸に深く深くあるのだろう。
 それでも南次郎は、今ここでこうしてまっすぐに立って、手塚に向き合って。手塚を責めもせずに、むしろ、なぐさめようとさえしてくれる。
 目をそらすこともなく、ちゃんと、リョーマにも手塚にも向き合っている。
 こんなふうに強くなれたらと思う。テニスだけでなく、人間としても。
 そして、強くならなければと思う。今すぐには無理でも、少しずつでも。手探りで、這いずりながらでも。みっともなくても。
(強く、なる)
 もう誰も傷つけないために。
 そして、前に進むために。



 陽は沈んだばかりで、まだ西の空は淡い朱色に染まっていた。東からやってくる闇も、街をすべて覆い尽くすには、まだ時間がある。それでも空には、何かの道標のように、ひとつふたつ、星が瞬きはじめていた。
 夕飯を食っていくかと誘ったのだが、一度学校へ戻るからと、手塚は礼儀正しく挨拶をして越前家を出て行った。
 南次郎はそれを玄関先から見送って、その姿が角を曲がって見えなくなったころ、振り向かないまま背後に向かって声をかけた。
「おい。いつまでそんなトコにいる気だ?」
 だが予想していたとおり返事は返らない。
 南次郎が廊下のほうへ戻ってくると、ちょうど玄関から死角になった位置に、リョーマがカルピンを抱えたまま座り込んでいた。目を覚まして2階から降りてきたのだろう。
 ここは、さっき手塚と話をしていた縁側からも死角になっている。いつからここにいたのか、どこから話を聞いていたかは知らないが。
 リョーマは膝を抱えて、その腕にカルピンを抱きこんで、その毛に顔をうずめたまま顔を上げない。カルピンは飼い主を心配するように、顔をリョーマのやわらかな頬に擦り付けている。
「リョーマ。おめえ、あとで国光に礼言っとけよ。ここまで運んでもらったんだからな」
 そう言っても、やはりリョーマから返事は返らない。ちいさくなって廊下に座り込んだまま、動こうとしない。だがそれを、南次郎は別段とがめない。このちいさな子供が、心の中でいろいろな思いを抱えていることをちゃんと知っているから。
 彼の息子は、大きな傷を抱えて、それでも少しずつではあるが、前に進もうとしている。だからこそ、彼はここにいるのだ。青学へ入り、手塚のいるテニス部へ入ったのだ。その想いを、ちゃんと分かっている。
 ただ、今はまだ、まっすぐには向き合えないだけ。すべてを振り切れないだけ。黒板の落書きを消すようには、すぐには消せないものがある。だからもうすこし、時間が必要なのだ。
 そのあいだ南次郎にできることは、そっと見守ることだけだ。見守ることしかできない自分にもどかしさも感じるが、それは仕方のないことだ。
「ああ。あと、名前は知らねーけど、キレーな顔したテニス部員のヤツにもよ、礼言っとけ」
 ふと、リョーマをここまで運んできたときのことを思い出して、南次郎は短くなった煙草を灰皿に押し付けながら言った。
 その言葉に、ぴくりと、リョーマの肩が震えた。それを南次郎は見逃さなかった。
「そいつ、すごい剣幕でついてくるって言ってたぞ。竜崎のバアさんにとめられてたけどよ。おまえのことすげえ心配してるみたいだったぜ」
 倒れたリョーマを迎えに行ったとき、リョーマの傍らで、心配に顔を歪めながらその手をずっと握っているヤツがいた。リョーマを運ぶときも、自分もついていくと、ついていかせてくれと、南次郎に詰め寄ってきた。
 結局スミレにとめられてソイツは学校に留まることになったのだが、帰り際、南次郎達の乗った車を見えなくなるまでずっと見つめている姿が、バックミラーに映っていた。
「……不二先輩、が?」
 今まで顔を見せなかったリョーマが不意に顔を上げて、南次郎を見つめた。その瞳はちいさく揺れている。
「だから名前は知らねえって。まあ青ジャージ着てたからレギュラーだろありゃ。明日学校行ったら聞いてみろよ」
「……うん」
 ちいさく返事を返して、またリョーマはカルピンに顔をうずめてしまう。やわらかな毛に隠されて、もうその表情は見えない。だが、まとう雰囲気が、さっきより幾分やわらいだように見える。
「────」
 南次郎は新しい煙草に火をつけながら、自分の頭を掻いた。
 彼の息子は、まだちいさな子供でしかないが、それでもすこしずつすこしずつ成長していっているらしい。手塚と向き合おうとちいさな努力をしてみたり、彼の知らない表情をしてみたり。それは雛鳥がたどたどしく歩くさまにすこし似ている。それがすこし寂しくもあり、嬉しくもある。
「おまえが青学行きたいって言い出したときはどうなるかとも思ったが、青学も悪くねえみたいだな」
 リョーマからの返事はない。けれどそれを待たずに南次郎はまた縁側へと戻った。いつもの場所に腰を下ろす。
 もうすぐ梅雨を迎えようとする季節に、庭の木々はこぞって葉を伸ばしている。薄闇の中でも、新緑が目にまぶしい。だからこんなに目頭が痛むのだろう。
(あれから、5年、か)
 自分を責め、後悔して過ごした日々は手塚の比ではない。それは今も変わらない。だがその苦しみは、自分への罰だとも思うのだ。だからこそ、それを抱えて生きていこうと決めた。
 けれど、彼らには、笑っていて欲しい。リョーマにも、手塚にも。いつかまた、昔のように。あの、夏の陽射しを乱反射する木漏れ日のような笑顔で、笑って欲しいと思う。
 彼らのために、何も出来ないけれど。見守ることしか出来ないけれど。
 今はもういない、彼のためにも。
 南次郎は長く煙草の煙を吐き出した。闇の中に煙が揺れながらのぼってゆく。すこし風が出てきたようだ。だからこんなに、煙が目に染みるのだ。


 To be continued.

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