輪舞曲 1


 春へはまだ遠く、街はまだ冷たい空気と冬の色に包まれている。ゆうべ降った雪はわずかに積もり、世界を淡く白に染め上げていた。その白に、冬の弱い陽射しが乱反射して、波間にこぼれる光のような輝きを放っていた。
 一面の、広い広い庭に積もった雪は、まだ誰に踏み荒らされることもなく、その綺麗な平面を保っている。植え込みの木や花壇の飾り柵に雪が積もっているさまは、まるで一流の芸術家が丹精をこめて作り上げたオブジェのようだった。いや、どんな高名な芸術家でもこれほど美しいものは作れないかもしれない。
 リョーマは木の上からそれらの景色を見つめて感嘆の溜息をついた。吐き出した息は、冷たい空気に白く染まって溶けてゆく。
 老齢の桜の、身長の2倍ほどの高さの枝に腰をおろして、自然の美しい景色に見入る。リョーマはこの場所からこの庭を眺めるのが好きだった。春の花が咲き乱れる様子や、夏の緑あざやかな姿や、秋の紅葉に染まった景色も美しいが、冬の雪景色もまた格別に美しかった。
「リョーマ」
 不意に遠くから、リョーマを呼ぶ声が聞こえた。
 見下ろせば、雪に一筋の足跡を残しながら、手塚がこちらへ歩いて来る姿が見えた。
「国兄!」
 リョーマは勢いをつけて、高い枝から飛び降りる。やわらかな黒髪が、冷たい風にふわりと舞う。
 それを見て、慌てて手塚が木に駆け寄り、両腕を伸ばす。ちいさな体は難なく手塚の腕に受け止められた。
「こらリョーマ。飛び降りるな。危ないだろう。怪我をしたらどうするんだ」
「ヘーキ。だって国兄が受け止めてくれるでしょ」
 諌めるような手塚に、悪びれた様子もなくリョーマは言ってのける。手塚が自分に怪我をさせるなど、微塵も思っていないのだ。甘えたように手塚の胸元に擦り寄れば、手塚はすこし呆れたような顔をしながらも、頬をゆるめた。結局は彼もリョーマにはとことん甘いのだ。
「まったくおまえは……それに、『国光』と呼べと言っているだろう?」
「あ……」
 意識せず国兄と呼んでいたことに気付いて、リョーマはちいさく舌を出す。気をつけているのだが、いつも気を抜くとそうと呼んでしまうのだ。
 この冬、13の誕生日を迎えたときに、リョーマは正式に手塚と婚約した。あと3年経ち16歳になったら、手塚と結婚する約束だ。
 そして、婚約を機に、手塚の呼び方を『国兄』から『国光』へと変えるよう言われていたのだ。まだ先のこととはいえ、結婚相手を兄と呼ぶわけにはいかない。だがリョーマはまだその呼び名に慣れずにいた。
「だって……5年もそう呼んでたんだから、急に変えるのは難しいよ」
「まあ急がなくてもいいがな。式を挙げるまでには直っているだろう」
 拗ねるように言えば、あやすようにそっと髪を撫でられる。その優しい感触に、リョーマは手塚の胸に頬を寄せたままそっと目を閉じた。
 手塚は優しい。まるで本当の兄のように。リョーマにもともと兄弟はいなかったが、きっと兄がいたならこんな感じだったのだろう。すこし厳しいけれど優しくて、リョーマをあたたかく大きく包んでくれる。
 こんなあたたかさは、家族を失ってしまったリョーマの心を癒してくれる。ここにいてもいいのだと──ここにいればいいのだと、思わせてくれる。それが本当に嬉しく、しあわせだった。
 リョーマの本当の両親が亡くなったのは、今から5年前、リョーマが8歳のときのことだった。
 彼はもともと、この国の資産家である越前家の嫡男だった。越前家は、家柄としても由緒正しく歴史ある一族だ。時代の流れについていけず没落する貴族が多い中で、幸いなことに越前家は、興した事業が順調に成長を遂げ資産家と呼ばれるまでになった。
 リョーマの父親である南次郎は、貴族らしからぬ破天荒で明るい性格で、誰からも好かれていた。ひとり息子であるリョーマにも、惜しみない愛情を注いでくれた。優しい性格の母も、リョーマをこれ以上ないほど愛してくれた。
 リョーマはしあわせだった。物も愛情も惜しみなく注がれ、何を失くすこともなく、しあわせに生きてきた。そのしあわせはずっと続くのだと当たり前のように信じていた。
 だが、5年前のある日、突然両親は死んでしまった。
 事故だった。結婚後何年経っても仲のよかった両親は、デートだと言ってふたりで食事に出かけた。その帰り道、居眠り運転をした車の玉突き事故に巻き込まれたのだ。
 遺されたのは、名家の名と、莫大な遺産と、美しい幼い子供がひとり。
 両親に兄弟はなく、祖父母もすでに亡くなっていたため、リョーマに近しい親類はいなかった。卑しい考えを持つ輩が現れるのは当然のようなことだった。リョーマの前には、『親戚』を名乗る者が山のように訪れた。
 財産のおこぼれをもらおうとする者、まだ幼いリョーマの後見人となって資産を手に入れようとする者、幼いリョーマ自身に魔手を伸ばそうとする者……目的は多少違えど欲望に目をぎらつかせた醜い大人たちが、リョーマを取り囲んだ。そして、両親を失った哀しみに暮れる子供の目の前で、目を覆いたくなるほどに醜い争いが繰り広げられた。
 両親を亡くしたことだけでもつらいのに、まわりにはリョーマ自身を気遣う者はなく、皆、欲望に目をぎらつかせていた。リョーマにかけられる優しい言葉や甘い言葉の裏には、何とかリョーマに取り入って利益を得ようとする黒い影が見え隠れしていた。聡いリョーマはそれを敏感に感じ取っていた。
(父さん……母さん……)
 つらい現実ばかりを突きつけられ、人間の醜さばかりを見せ付けられ、つらくてつらくて、哀しくて、いっそこのまま自分も両親のもとへ行ってしまいたいと、そう思うほどに追い詰められていた。
 そんなリョーマを救ってくれたのが、手塚家だった。
 手塚家も、越前家と並ぶ名家だ。手塚の祖父に当たる手塚家当主と南次郎は一回りほども年齢が違ったのだが、南次郎のその破天荒な性格を当主はいたく気に入ったようで、年齢を越えて親しくしていた。
 そして、ひとり遺されてしまったリョーマを不憫に思い、後見人に名乗り出てくれたのだ。
 リョーマは手塚家に引き取られ、越前家の財産はリョーマが成人するまで手塚家が管理することとなった。真面目で厳格な気質の手塚家では、不正をすることなく財産を管理してくれている。数多く現われた見知らぬ『親戚』達も、手塚家の庇護があるということで、誰も財産にもリョーマにも手出しは出来なくなった。
 それだけでもありがたいことだったが、リョーマが何より嬉しかったのは、引き取った彼を、手塚家の皆が本当の家族のようにあたたかく迎えてくれたことだ。
 手塚の両親は、本当の子供である手塚国光と何ら区別することなく、分け隔てなく愛してくれた。むしろ、手塚以上に甘やかされているほどだ。手塚自身も、リョーマを本当に本当に大切にしてくれた。その優しさと愛情が、本当に本当に嬉しかった。傷付いていたリョーマの心を優しく癒してくれた。
 それから5年、リョーマは手塚家で、手塚と本当の兄弟のように過ごしてきた。そんな兄代わりの彼との婚約の話が出たのはつい半年ほど前だ。
 それまで、手塚の両親などが冗談のように「リョーマのような子が国光のお嫁さんだったらいいのに」と言うことはあったが、どれも冗談の域を出てはいなかった。リョーマ自身、手塚と結婚なんて、考えたこともなかった。
 それが、半年ほど前の手塚の15歳の誕生日の日。手塚自身が、リョーマと正式に婚約したいと言いだしたのだ。
 リョーマは突然のその申し出に、驚きながらもうなずいた。
 嬉しかった。
 手塚と結婚したなら、リョーマも正式に手塚家の人間となれるのだ。
 これまで、手塚当主も手塚の両親も、リョーマを疎外したことも差別したこともない。むしろ過保護なほどに愛し甘やかしてくれた。リョーマも本当の祖父や両親ように彼らを愛し、甘えてきたけれど。────やはり心のどこかで、疎外感があった。遠慮があった。
 けれど、手塚と結婚すれば、リョーマは正式に手塚家の人間となれるのだ。彼らと『家族』になれるのだ。それはどれほど嬉しいことだろう。しあわせなことだろう。リョーマが失くしてしまったものを、もういちど手に入れられるのだ。
 婚約の話は、当主も両親も喜んで賛成してくれた。そしてこの冬のリョーマの誕生日に正式なものになった。
(…………あと3年)
 リョーマが16になる年に、手塚もちょうど18になる。そうしたらリョーマは手塚と結婚する。本当の家族になる。
「国光、大好き」
 リョーマは細い腕を伸ばして手塚の胸に抱きついた。
 その気持ちに嘘はない。リョーマがどんなに手塚を慕っているか。
「なんだ急に」
 手塚はリョーマを優しく抱きとめて、そっと髪を撫でてくれる。このぬくもりが、大好きだった。このぬくもりにどれほど救われたか。
 まだ手塚家に来たばかりの頃。両親が死んでしまった哀しみに、リョーマの心が壊れそうだったとき、それでもリョーマは皆に心配をかけたくなくて、表面上はいつもどおりに振舞っていた。ただ真夜中、自室でひとり、声を殺して震えながら泣いていた。誰にも気付かれないように。けれど手塚だけはそれに気付いてくれた。そして、ひとりで泣いているリョーマを抱きしめて、何度も何度も髪を撫でてくれた。泣き疲れたリョーマが眠ってしまうまで。
 もしも手塚が気付いてくれなかったなら──傍にいて抱きしめてくれなかったなら、きっとあのときリョーマの心は哀しみに押し潰されて壊れてしまっていただろう。
 大好きな大好きな国兄。
 国光が好き。この気持ちにひとかけらも嘘はない。もしかしたらそれは、『恋』と呼ばれるものではないのかもしれないけれど。
「大好き、国光。大好き」
 抱きしめられる優しい感触を感じながら、リョーマは繰り返した。すこし照れて困ったように、けれど嬉しそうに、リョーマを抱きしめたまま手塚が笑う。こんなときが、永久に続けばいい。
 あと3年して、手塚と結婚したら、穏やかでしあわせな日々が待っているだろう。きっとしあわせになれる。
 ──きっと。


 To be continued.

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