輪舞曲 2


「舞踏会?」
 手塚から聞かされたあまり聞きなれぬその単語に、リョーマはわずかに眉をひそめた。
「ああ。だが、正式なものでも堅苦しいものでもない。菊丸が企画した、余興のようなものだ」
「菊丸先輩が」
 リョーマの脳裏に、はねた髪の、明るい笑顔の男が思い浮かんだ。
 菊丸英二のことは、リョーマもよく知っていた。手塚の同級生で、リョーマにとっては先輩にあたる男だ。その明るく人懐っこい性格で、いつも皆の中心にいる。彼は何故だかリョーマをいたく気に入っていて、何かとかまってきていた。
 お祭り好きな彼の企画だというのなら、舞踏会といっても手塚の言う通り堅苦しいものではなく、同年代の友人達で集まって騒ぎながら踊るような、その程度のものだろう。
「それ、俺も出なくちゃいけないの?」
 もともと人付き合いがあまりよくないリョーマは、そういう騒ぎに興味がない。そんなものに出るくらいなら、家でのんびりと過ごしていたい。
「菊丸は、絶対おまえを連れて来いと言ってはいたがな」
「…………」
 リョーマには、菊丸の意図は大体見えていた。おそらくこれは、舞踏会だなんだと理由をつけた、手塚の婚約者となったリョーマの『お披露目パーティ』なのだろう。
 その容姿や家柄や才能から、同年代の者達──特に女性達から多大な関心を寄せられている手塚国光が婚約したとなれば、その相手を見てみたいというのが誰もの心情だろう。
 手塚と特に親しくしている菊丸や大石などは、すでに何度もリョーマとも逢っているが、他の者達はリョーマを知らない。きっと菊丸や大石に、相手はどんな奴なんだと興味津々で詰め寄ったりしたのだろう。そして百聞は一見にしかずとばかりに、婚約祝いを兼ねて、お披露目の場を作ろうというのだろう。
「おまえが行きたくないなら断ってもよいが……」
「────行く」
 ほんのすこし迷いながらも、リョーマはそう返事をした。
 彼がそう言ったことに、手塚もすこし驚いたようだった。
「めずらしいな。おまえが行く気になるなんて」
「…………別に。なんとなく」
 本当のことを言ってしまえば、そんなパーティなど煩わしいだけだと思っている。できるなら、そんなものには出ずに、家でのんびりと過ごしていたい。
 けれど、菊丸の考案したそのパーティには、きっと数多くの者達がやってくるだろう。手塚に想いを寄せる少女達や、手塚に一目置く友人達が。『手塚の婚約者』を見るために。
 そう分かっていながら欠席するのは、逃げるようでなんとなく嫌だったのだ。
 そしてできることならみんなに認めて欲しかった。自分は手塚の『婚約者』なのだと。やがて、手塚と『家族』になるのだと。子供っぽい自己主張だと分かっている。それでもリョーマは、認めて欲しかった。
「それじゃあ菊丸にはおまえも出ると伝えておくぞ」
「うん」
 そうしてリョーマは舞踏会への出席を決めた。
 それが、運命の分かれ道だったとも知らずに。



 菊丸の企画した舞踏会は、菊丸家の大広間で行われていた。手塚の言ったとおり、そう堅苦しいものではなく、同年代の友人達の集まるパーティとなっていた。それでも、来ている者は皆、華やかな正装に身を包み、どこか気品あふれる空気を漂わせていた。
 リョーマは手塚とともにそのパーティにやってきた。
「手塚、おチビちゃん! 婚約おめでとー!!」
「おめでとう、手塚、越前」
 会場に入った途端、挨拶もそこそこに主催者である菊丸と大石がリョーマと手塚と囲んだ。ちいさなクラッカーも鳴らされ、会場の注目がいっせいに集まる。
「あーあ。手塚と婚約かー。おチビだったら俺がお嫁に欲しかったのにーー!!」
 菊丸はリョーマを抱きかかえて、その髪に頬擦りする。人懐っこい彼のこんな過剰なスキンシップもいつものことだった。
「菊丸、離れろ。リョーマは俺のものだ」
 手塚が菊丸の首根っこを掴んで、さながら猫のようにリョーマから引き剥がした。それに菊丸が抗議する。
「あーなにそれー。大石今の聞いた? 『リョーマは俺のもの』だってー。早速ノロケだよ〜」
 掴まれた首を大袈裟にさすりながら、大石に泣きつく真似をする。こんなやり取りはいつものことで、大石は笑ってそれを見ている。
 泣き真似をしていた菊丸が、ふと思い出したように顔を上げて手塚を見た。
「ああ、そうだ手塚。不二来てるんだよ」
「不二? 帰ってきていたのか」
「うん。えーと、4日前、かな?」
「で、その本人はどこにいる?」
「どこだろう、さっきまでいたんだけどなあ」
「相変わらずマイペースな奴だな」
(フジ?)
 誰のことを話しているのか、リョーマには分からなかった。聞いたことのない名前だ。
 リョーマは近くにいた大石を見上げた。
「大石先輩。『フジ』って誰のこと?」
「ああ、越前は知らないんだな。不二っていうのは俺達の同級生の名前だよ。家の都合でしばらく海外にいたんだけど、このあいだ戻ってきたんだ」
「ふーん」
 話す様子からは、かなり親しい友人のようだ。このパーティに来ているのだから、そのうち会うだろう。
「国光様っ!」
「手塚様っ!」
 そのとき、今まで遠巻きに見ているだけだった少女達の一団が、黄色い声を上げながら、手塚を取り囲んだ。おそらくは手塚に想いを寄せていた少女達なのだろう。誰かひとりが勇気を出して声をかけたのをきっかけに、一斉に大挙して押し寄せてきたようだった。ある者は興奮気味に頬を染め、ある者は涙ぐみハンカチを握り締めている。
「婚約されてしまったというのは本当なんですね」
「私ずっとお慕いしておりましたのに……」
 輪の中心で少女達に取り囲まれている手塚は困惑した表情だった。一応女性相手に大声を出したり乱暴に扱うわけにもいかず、対応に困っているのだろう。傍にいる菊丸は面白そうに眺めるだけで助け舟を出さないし、大石は手塚と同じように対応に困っているようだった。
 くしくも少女達の集団に弾かれるような形になってしまったリョーマは、その輪の外からその様子を呆れ気味に眺めた。弾かれたのは、いっそ幸運だったかもしれない。あの輪の中に揉まれるなど、御免こうむりたい。
 それにしても、取り囲む人の多さに、改めて手塚の人気というものを思い知らされた。きっと実際に手塚を想っているひとの数は、この倍では足りないだろう。
「気になるかい?」
 いつのまにか、乾がリョーマのすぐ傍に来ていた。
 四角いメガネがあやしく光るこの男も、手塚の同級生であり、親しく付き合っている友人のひとりだった。
「別に」
「大丈夫だよ、手塚は越前一筋だからね。浮気をする確率は0.025%だ」
「なにそれ」
 この精密機械のような先輩は、どういう計算でそうなるんだか分からないが、なんでもかんでも数値化したがる。だが、それは大抵の場合かなり正確で、だからリョーマは乾に一目置いていた。
「ところで越前。親愛と恋愛の違いに付いて考えたことはあるかい?」
「?」
 不意の質問の意味がわからなくて、リョーマは隣に立つ男を見上げた。乾は手塚以上の長身のため、思い切り振り仰ぐことになる。
「まあせっかくの祝いの席に水をさすつもりもないしね、越前がそれでしあわせだというのならそれでいいだろうしね」
「? 何言ってんのか分かんないよ、乾先輩」
「分からないなら、別にいいんだ。一生、分からないままでいてくれ」
 彼が何を言いたいのか、リョーマには何ひとつ分からなかった。
 乾の顔を見つめてみても、その表情からは何ひとつ読み取れない。この男は、笑っている口元がはっきり見えていても、その分厚いメガネのせいか、真意がまったく分からなかった。表情の多さでいうなら、手塚のほうがよっぽど表情が少ないだろう。だがそんな手塚のほうがまだ感情が読める。
 分からない不快に眉をひそめるリョーマに気付いて、乾はなだめるようにリョーマの頭に手を置いた。
「越前。そんなに拗ねないでくれ。向こうにケーキがあるぞ。食べるか?」
「子供扱いしないでください!」
 乾の手を振り払って、リョーマはその場を歩き出した。
 歩き出してみたものの、リョーマに行く当てなどない。このパーティは手塚や菊丸の知り合いが主で、リョーマの知っている人物は少なかった。ふと見回しても、ぱっと見、話し相手になるような知り合いは見当たらなかった。ちらりと振り返れば、手塚はまだ少女達に取り囲まれている。
(どうしよう……)
 まわりにたくさんいるパーティの客達は、興味深げにリョーマに視線を注いでいる。『手塚の婚約者』がどんなものか、値踏みしているのだろう。かといって、話しかけてはこない。このままこの人込みにひとりでいるのは居心地が悪かった。
(そうだ)
 リョーマはひとりでテラスに出た。思った通りテラスには誰もいなかった。
 夜も更け、空気は刺すように冷たい。吐いた息が、白く変わって闇に溶けていく。パーティの喧騒が、硝子越しにかすかに聞こえる。まるでここは向こうとは違う、切り取られた別空間のようだった。
 ひとりきりになり、やっと人心地ついたようにリョーマは大きく息を吐き出した。
 やっぱり人込みは、すこし苦手かもしれない。知り合いばかりならばいいが、不特定多数に取り囲まれるというのは苦手だった。
 両親が死んだ直後、手塚家に引き取られる前。見たことも聞いたこともない『親戚』達が、リョーマを取り囲んだ。いやらしい笑いをその顔に浮かべて、口先だけの甘い言葉を吐いて。誰も信じられずにひとりきりで膝を抱えていたあのころを、思い出してしまう。
 リョーマはちいさく頭を振った。嫌な考えを追い払おうとするように。リョーマはもう、そんなものに怯える必要はないのだ。もうひとりではない。手塚がいてくれるのだから。だから、大丈夫。
 物思いにふけっていたリョーマの耳に、不意にちいさな足音がした。
 広いテラスは、いくつかの窓で続いている。テラスに置かれた大きな鉢の観葉植物のせいで気付かなかったけれど、先客がいたようだった。
「誰……?」
 誰かが暗がりから一歩進み出る。窓から落とされる光の中に、その姿が入ってくる。
「ごめん。驚かせたかな?」
 そこにいたのは、柔和な笑みを浮かべた、物腰のやわらかそうな男だった。淡い灰色の仕立てのよい服をそつなく着こなしている。おそらくは、このパーティに招かれた、菊丸達の友人なのだろう。
「僕は不二周助」
(フジ……)
 聞いたことのある名前だった。記憶を探り、すぐにその名に思い当たる。さっき、手塚と菊丸が話していた名前だ。数日前まで海外に行っていたという、彼らの友人だ。それが、彼なのだろう。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
「越前……リョーマ」
「ああ──君が、手塚の婚約者なんだ。英二からいろいろ聞いているよ」
「菊丸先輩が? なんか変なこと言ってなかった?」
 初対面の相手はあまり得意ではないリョーマだが、何故かこの不二に対しては特に警戒することもなく普通に話していた。さっき、手塚と菊丸の口からその名前を聞いていたせいだろうか。それとも、そのやわらかい笑みのせいだろうか。
「すっごい可愛い子だって言ってて、実はあんまり信用していなかったんだけど、君を見て、英二の言っていたこと納得したよ」
 不意に不二の腕がリョーマのほうへと伸ばされた。
 その指先が、リョーマの耳に触れる。それから輪郭をたどるように、頬に落とされる。
(何……?)
 何故だか、リョーマは動けない。はじめて逢ったばかりなのに、こんなふうに触れてきて、いつもならきっと反射的に手を振り払っているだろう。それでも今、何故か、その手を振り払えなかった。
 不二の瞳は、まっすぐにリョーマを見つめている。視線さえ、振りほどけない。捕らわれる。
(────────)
 頬をたどる指先がくちびるに触れそうになったとき、急に背後の窓が開き、明るいおおきな声が聞こえてきた。
「ふっじーー! こんなところにいたんだーー。あっ! おチビもいる!」
 張り詰めていた空気を壊すように、騒々しく菊丸がテラスへとやってくる。姿の見えない不二を探していたのだろう。菊丸に気付かれる前に、何事もなかったかのように、不二の指はリョーマから離れる。
「うん。ちょっと涼んでいたんだ」
「涼むような気温じゃないだろー。寒ー。ほら、早く中入ろうぜ。おチビも」
 菊丸は不二とともに室内に戻ってゆく。ちょうどそれと入れ違うように手塚がテラスへとやってくる。
「リョーマ。風邪をひくぞ」
 そっと肩を抱き寄せられる。自分では気付かなかったが、冷たい外気にだいぶ冷えていたようだ。
「おまえは風邪をひきやすいんだからな。気をつけないと駄目だぞ」
 冷えてしまった頬を暖めるように、手塚のおおきな手のひらがリョーマの頬をそっと包む。リョーマはそっと目を閉じる。あたたかい、手のひら。リョーマの大好きなもの。
(だけど────)
 さっき触れた不二の手は、同じように外にいたせいか、冷たく冷えていた。だけど、触れられた場所が、火を押し付けられたように熱くて──頬をたどった指の感触が、まだ残っている。
「ほら。中に戻るぞ」
「あ、うん」
 手塚に促されて、室内に戻る。あたたかな室内に入ると、自分がどれほど冷えていたのかを気付かされた。
「ほら。これでも飲んでおけ」
 いつの間に用意したのか、ホットココアを差し出される。白い湯気を立ち上らせているそれを一口飲めば、体内からふんわりとあたたかくなった。さりげない手塚の気遣いが嬉しい。
 ふと前に目をやると、不二が、菊丸と大石と何か話していた。
(────────)
 何故だろう。胸が、ちいさく痛んだような気がした。無意識に、触れられた頬を押さえる。
「リョーマ? どうした? まだ寒いのか?」
「ううん。平気。ありがとう、国兄」
 微笑んで見せれば、手塚も微笑み返してくれる。普段あまり笑わない手塚の、笑顔が好きだった。
 リョーマの望むものは、今すべてここにある。優しいぬくもり。『家族』になってくれるひと。これ以上、望むことなんてない。
 あと3年して、手塚と結婚すれば、しあわせになれる。しあわせになれる。それを疑ったことなんてない。
(でも────)
 リョーマは視線を上げた。その先にいるのは、不二周助。
(──────)
 そのちいさな胸の痛みに、リョーマは気付かない振りをした。それはおそらく知ってはいけないことだと、無意識のうちに気付いていた。その意味に、気付いてはいけない──気付いたら────。
 すがるように、隣にいる手塚の腕を掴んでいた。
「リョーマ? やっぱり寒いんじゃないのか? 大丈夫か?」
 心配そうに、手塚はリョーマの背中をそっとさする。リョーマはその腕に強くすがりついた。
「リョーマ?」
「──なんでもない。なんでもないよ、国兄」
「なんだよもー。見せつけてくれちゃって!」
 リョーマの様子を手塚に甘えていると取ったのか、菊丸がはやし立てる。
 いつもなら、冷静にあるいは頬を染めながら菊丸に反論するところだが、今日はそれが出来なかった。菊丸のほうを向けない。そっちには、不二がいるから。
「いいね、手塚は。こんな可愛い婚約者がいて。うらやましいよ」
「だろー、不二もそう思うだろ?」
 聞こえてくる声に、胸が締め付けられる。
 リョーマは手塚の婚約者だ。あと3年経ったら手塚と結婚する。今日はそのお祝いのパーティ。それなのに、何故こんな気持ちになるんだろう。
 相変わらず、手塚の手はリョーマの背を撫でている。そのあたたかさに意識を向ける。優しい優しい、大好きな国兄。
 気付いてはいけない。気付いてはいけない。
 それがリョーマのしあわせだから。それでリョーマは、しあわせになれるのだから。だからどうか────この気持ちに、気付かせないで。祈るように思った。
 けれど、かすかな胸の痛みは消えなかった。
 触れられた頬の熱さは────どうしても、消えなかった。


 To be continued.

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