輪舞曲 3


 リョーマはぼんやりと、自室の窓から外の景色を眺めていた。今日は冬の最中(さなか)にはめずらしく、あたたかい小春日和だった。おだやかにおだやかに、日は流れてゆく。
 舞踏会という名のリョーマのお披露目パーティから、すでに数日が過ぎていた。
 そこであったことを、リョーマは自分の心の中から消そうとしていた。そこで出逢った──不二周助という男のことを。胸の奥に灯った、ちいさな炎のことを。すべては無意識のうちだったけれど、リョーマには分かっていた。そうしなければならないと。
 それでも、ふと気付けば、いつのまにか自分の頬に手をあてていた。あの日、ただ一度だけ、彼に触れられた場所。そっとたどられた指の感触を、まだ覚えている。
(なんで…………)
 何故こんなにも彼のことが気になるのか、リョーマは自分でも分からずにいた。けれど、その理由を知りたくはなかった。気付きたくはなかった。知ってはいけないと──気付いてはいけないと、無意識のうちに分かっていた。
 だってリョーマは、手塚の婚約者なのだから。あと3年経ったら、彼と結婚するのだから。
 空へをさまよわせていた視線をふと庭へ落とせば、門のあたりに人影を見つけた。門をくぐり、屋敷まで続く敷石を渡ってくる。遠目だったが、それが手塚だとすぐにわかった。手塚の他にも何人か一緒にいた。それが誰かははっきり分からなかったが、おそらくは菊丸達だろう。
 手塚を出迎えようと、リョーマは自室を出て玄関へと向かった。
「おかえり、国兄」
「やっほー! おっチビ〜〜!!」
 扉を開けた途端、家人である手塚よりも先に勢いよく菊丸が入ってくる。やはり、一緒にいたのは彼だったようだ。そのうしろには、菊丸の様子にあきれたような顔をした手塚と困ったように笑う大石の姿が見えた。
 菊丸はいつものようにリョーマに抱きつこうと腕を伸ばし──けれど寸前で腕を止めた。
「うーん。おチビちゃんに抱きつきたいけど、抱きつくとコワーイヒトがいるからな〜」
 わざとらしくちらりと投げつけられた視線は、明らかにただ一人を指している。
 その張本人の手塚は、眉間のしわを深くして、腕を組んだまま菊丸をにらみつけた。
「おまえは人に軽々しく抱きつきすぎなんだ」
「えー俺だって抱きつく相手くらい選んでるよ。おチビみたいなカワイイ子にしか抱きつかないもーん」
 言いながら、結局リョーマに抱きついてくる。
 だが、それに対し手塚の眉間のしわは深くなるものの、前回のように引き剥がそうとはしてこない。
 その様子に、菊丸が不思議そうに尋ねる。
「あっれ〜? 手塚怒んないの?」
「おまえには何を言っても無駄だろう。第一、おまえが抱きつくのは、犬か猫が擦り寄るようなものだしな」
「ひっで〜〜! おチビちゃん聞いた? 手塚ひどくね?」
「国兄の言うこと、合ってると思いますけど」
「おチビまで〜! コノヤロ、コノヤロ!」
 わしゃわしゃと、大きな手で髪をかきまぜられる。柔らかな髪がもつれて撥ねる。リョーマも笑いながらそれを受け止める。菊丸の明るさは、リョーマの沈みがちだった心をも明るくしてくれる。
「それで、今日はどうしたんですか、菊丸先輩も大石先輩も」
 菊丸に抱きつかれたまま、リョーマは疑問を口にする。
「もうすぐ試験だろう? だから、みんなで勉強会をしようということになってね」
「んで、手塚のうちでやることにしたんだよ。ここ来ればおチビにも会えるしね」
 その答えにリョーマは納得する。リョーマ達の通う学校では、もうすぐ定期試験が行われることになっていた。
「ほら、いつまでも玄関先で遊んでないで中に入れ。勉強しに来たんだろう」
「お邪魔しまーす」
 手塚が中へ入るよう促す。それに従って、菊丸と大石が動いた。
 そのときになって、リョーマはやっと、そこにもう一人いたことに気付いた。
「やあ、こんにちわ。越前君」
 大石の後ろから、不二が現れる。ちょうど影になっていて、今までその存在に気付かなかった。
「──────」
 一瞬息が止まる。
 まさか、彼もいるとは、思いもしなかったから。
 こんなに早く、また会うとは思わなかったから。
 彼もいたことにリョーマは内心ひどく驚く。けれど、彼はもともと手塚や菊丸と友人なのだから、彼が一緒に来ても何もおかしくはない。
「おチビ、こないだのパーティで会ったよね? 覚えてる? こいつ、不二っていうんだ」
「……覚えて、ます」
「覚えていてくれたんだ。うれしいな」
 不二の言葉に、胸が苦しくなる。
 彼にとって、あのとき頬に触れたのなんて、特に意味はないのかもしれない。たとえばめずらしい骨董品に興味を引かれてふと手を伸ばしてみるような、その程度のことだったのかもしれない。それなのに、リョーマばかりが、こんなにも彼を意識していて。何故だかこんなにも、苦しくて。
 無意識のうちに、痛む胸元をきつく握り締めていた。
「ほら、英二もいつまでも抱きついていないで、勉強会はじめるよ。今回赤点取ったらまずいんでしょう」
「うう〜そうなんだよな〜」
 しぶしぶといった様子で、菊丸はリョーマから腕を離す。
「リョーマも一緒にどうだ?」
「え?」
「おまえも試験だろう? 分からないところがあるなら教えるぞ」
「おチビも一緒に勉強しよーよ」
「うん……」
 手塚の誘いと、菊丸の後押しに、リョーマも勉強会に混ざることにした。
 みんなで手塚の部屋に移動し、広い室内で、おのおのが参考書やノートなどを広げる。リョーマも自室から勉強道具を持ってきて手塚の隣に腰をおろした。
 勉強会とはいうものの、分からないところがあったらそれぞれの得意教科を教えあい、それ以外はおのおの勉強するという形になっていた。時々誰かが質問する声と、ノートをめくる音、何かを書き付ける音だけが室内に響く。
 リョーマは必死になって参考書に向かっていた。それ以外には意識を向けないように。それ以外は考えないように。
 意識しないようにするのに、おのずと声が耳に飛び込んできてしまう。
「な〜不二〜。ここの問題なんだけどさ〜」
「それは、ほら、これがサ行変格活用だから、語尾がこう変わって……」
「あ、な〜るほど。さすが不二。相変わらず頭いいな〜」
 聞き耳を立てるわけではないが、リョーマの斜め向かいに座った彼のことを、意識してしまう。
 ノートから顔を上げられない。一度顔を上げてしまったら──見てしまったら、目をそらせなくなりそうで。
「どうしたリョーマ。解きかたが分からないのか?」
 手塚に言われて、ふと我に返る。さっきから手が止まり、問題が進んでいなかった。それをごまかすようにリョーマは笑う。
「あ、うん。ちょっと難しくて」
「この問題か。これはこの公式を使って、こっちのグラフに当てはめるんだ」
 手塚がすぐ傍らに来て、解きかたを教えてくれる。
「ここに当てはめて……こう?」
「そうだ。よくできたな」
 おおきなあたたかい手が、リョーマの髪をそっとなでる。
 大好きな手塚の手。優しい仕草。隣を見上げれば、手塚が優しく微笑んでいる。それに微笑み返しながらも、何故か、胸が痛いような気がした。
「あー喉渇いたー」
 菊丸がもう勉強に飽きたのか、机の上に腕を投げ出してそう言った。
「俺、なんか飲み物もらってくる」
 リョーマは立ち上がる。手塚家にはメイドも何人かいるのだが、わざわざそれで呼びつけることもない。むしろ、ずっと気を張り詰めさせていて、ちょうどよくこの場を離れる口実ができたと思った。
 ほんのひとときでいいから、この場所を離れたかった。それでも、不自然に席を立てば、手塚に不審に思われてしまうだろう。だが、『飲み物を取りにいくため』なら、誰もおかしいとは思わない。
「じゃあ僕も手伝うよ」
 リョーマに続くように、不二も席を立った。
「え……」
 それにリョーマは驚く。
「俺も行こうか?」
 立ち上がりかける大石を、不二は片手を軽く挙げて制した。
「僕らだけで大丈夫だよ。手塚と大石は、英二を見てあげてて。そうしないとすぐサボるからね」
 その言葉に苦笑して、大石は浮かしかけていた腰をまた落とした。
 菊丸が不二の言葉に抗議するように何か言っていたが、もうリョーマの耳には入らなかった。
「…………」
 不二のいる空間から離れたくてリョーマは飲み物を取りにいくことを申し出たのに、不二も来ることになってしまって、リョーマは内心穏やかではなかった。だからといって、いまさら行かないとは言えない。そんなことを言えば、みんなが不審に思うだろう。
 リョーマは不二とともに、飲み物を取りに、部屋を出た。
 階下に行き、メイドが用意してくれた飲み物と茶菓子を、トレイに載せて運んでゆく。
 移動距離など、たかが部屋へ戻るだけだ。いくら屋敷が広いといっても、その距離はほんのわずかだ。それでも、不二とふたりきりのこの空間が、なぜかたまらなく居心地が悪かった。胸の中がざわめく。
 早く部屋に戻りたかった。部屋に戻れば、みんながいる。手塚がいる。早くその空間に戻りたかった。このまま、不二とふたりきりでいたら──いけないような気がしていた。
 それでも、手には飲み物の載ったトレイがあるから、こぼさないように、自然、進みはゆっくりになってしまう。
 リョーマは、うかがうように隣を歩く不二を横目で見た。彼も同じようにトレイを持っているのに、その足取りはまるで危なげない。その水面も眠るように静かだ。おそらく彼は、ゆっくり歩くリョーマに合わせてくれているのだろう。
 不意に、前を向いていた不二が、リョーマのほうへ視線を向けた。見つめていたことに気付かれたのだろうかと、一瞬リョーマの心臓が跳ねる。
「リョーマ君、て呼んでもいいかな?」
「え?」
 言われた言葉の意味が分からなくて、リョーマは訊き返す。
「だってほら、君はそのうち『手塚』になるでしょう? だったら、『越前君』って呼ぶより、そのほうがいいかなって思って」
「ああ……」
 今はまだ『越前』を名乗っているが、手塚と結婚すれば、リョーマは『手塚』を名乗ることになる。たしかに、そのうち変わってしまう呼び名をわざわざ使うこともない。名前で呼んでいたほうが好都合だろう。
「うん」
 リョーマは素直に頷きながらも、きつくトレイを握り締めていた。
(俺は、国兄と結婚する……『手塚』になる)
 それはリョーマが望んだことだ。うれしいことだ。それでリョーマはしあわせになれる。それなのに、その事実を不二が言ったというだけで、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
「本当に、手塚が、うらやましいな」
 隣を歩いていた不二が、急に足を止める。つられて、リョーマも足を止めてしまった。
 不二が、リョーマを見つめる。淡い色の瞳がリョーマを映していた。そのことに、胸が痛くなる。きつく、締め付けられるように。
「もし……もし僕が、あと一ヶ月──いや、半月早く帰国してたら、違ったのかな?」
 もし出逢うのが、あと半月早ければ──手塚と婚約する前だったなら。
 何が、とは訊けなかった。訊いてはいけない気がした。訊いてしまったら──きっともう、戻れない。
「────俺は」
 無意識のうちに、リョーマの口から言葉がこぼれていた。
「俺は、両親が死んでから、ずっとひとりで、ずっとずっと寂しくて、国兄がいなければ生きてこられなかった。国兄がいてくれたから。国兄がずっと傍にいて抱きしめてくれたから。だから、国兄と本当の『家族』になれるのが、本当にうれしい」
 リョーマの言葉を、不二はただ黙って聞いている。
 でも何故だか、不二の瞳を見ることができなかった。逃げるように彼から目をそらし、トレイの上のティカップを見つめる。その水面は不安定に揺れていた。
「国兄が俺と婚約したいって言ってくれて、義父さんも義母さんもじいさんも喜んで賛成してくれて、本当に、うれしかったんだ。俺は──俺は、国兄が、好きなんだ」
 言い聞かせるように、リョーマは言葉をしぼりだす。誰に言い聞かせようとしているのか、リョーマ自身にも分からなかった。
「うん。分かってるよ」
 穏やかな不二の声が落ちてくる。
 リョーマの持つトレイがちいさく揺れて、カップがちいさく音を立てた。
「リョーマ君」
 不意に、ふわりと、目の前を影が覆った。つられるように、顔を上げる。

 気づけば、不二のくちびるが、自分のくちびるに触れていた。

 突然のことに、リョーマは反応ができない。両手はトレイを持っていて、動かすことができない。目を閉じる間もなく、それを受けていた。
 おそらくは、一瞬にも満たない時間のあと、触れたときと同じ軽さで、くちびるが離れてゆく。
 見開いたままの目に、すぐ間近に、不二の顔が映った。すこし哀しそうな、どこか困惑したような顔をしている。きれいな眉が、ゆがんでいる。
「ごめんね。もうこんなこと、しないから」
 彼は決まり悪そうにリョーマから目をそらして、また歩き出した。リョーマを置いて、先に部屋へ戻ってゆく。
 リョーマはその場に呆然と立ち尽くしていた。体中に見えない蔦が絡んだかのように動けない。
(何…………?)
 ほんの一瞬、触れたくちびる。それは偶然とか事故とかではなく、明確な意思を持って触れられた。
 不二にキスされたのだと理解するまでに、ひどく時間を要した。
「なんで……」
 呆然と、言葉がこぼれる。
 何で触れたりするのだろう。リョーマが手塚の婚約者だと知っているのに。分かっていると、言ったくせに。どうして。あんなふうに顔をゆがませて。
 くちびるが熱い。心臓が痛い。頬に触れられたときとは比べ物にならない熱さで、痛さで。
 カタカタと、トレイを持つ手が震えた。それに伴って、ティカップも揺れて音を立てる。お茶をこぼしそうになって、我に返った。
(いけない)
 早く部屋に戻らなくてはいけない。遅いと、手塚に変に思われてしまう。何かあったと気付かれてしまう。そんなことはできなかった。
 リョーマは急いで部屋に戻った。必死でなんでもない顔をして。
「リョーマ。わざわざすまなかったな。重かったか?」
 部屋に戻ると、手塚がすぐに傍に来てリョーマの持っていたトレイを受け取った。
「ううん。平気」
 ふと部屋の中を見渡せば、不二は、まるで何事もなかったかのような顔でもとの席に座り、大石と何か話していた。リョーマが帰ってきたことに気付いているのだろうが、こちらのほうを見ることもない。
 その様子に、さっきのことは幻だったかのような気になってしまう。リョーマひとりが、勝手な妄想を見たのかと。
(ちがう────)
 あれは、幻などではない。だって、ほんの一瞬のことだったけれど、まだこのくちびるにはっきりと残っている。そのやわらかな感触も、溶けそうな熱さも。幻では、ない。たしかに触れたのだ。
「リョーマ? どうかしたのか?」
 扉のところに立ち尽くしたままだったリョーマに、心配そうに手塚が声をかける。
 その声に、リョーマは現実に引き戻される。はっとして、気を引き締める。
 手塚に、気付かれてはいけない。知られてはいけない。不二とキスしたなんてことは、知られては、いけない。決して、決して──。
「ううん、なんでもない」
 今まで、手塚に隠し事なんてしたことがなかった。どんなことでも手塚に悩みを打ち明け相談してきた。はじめての秘密に、罪悪感が心をさいなんだ。
 それでもリョーマは何もなかった振りをした。また手塚の隣の席に着く。それでも気になって、カップを取る振りをしながら、向かい側に座る不二を見た。
 不二は目の前のノートに目を落としたままこちらを見ない。
「熱っ」
 不二に気を取られていたせいで、湯気を立てる紅茶をそのまま口に運んでしまった。思わぬ熱さに顔をしかめる。
「リョーマ! 火傷したのか? 見せてみろ」
 すぐ隣にいた手塚が、リョーマの口元に手を伸ばす。
「やっ」
 反射的に、くちびるに触れそうになった手を振り払っていた。
「リョーマ?」
(あ……)
 自分の行動に、リョーマ自身も驚いていた。手塚の手を、振り払ってしまうなんて。今までそんなことは一度もなかった。大好きな大好きな、あたたかいその手を、拒否してしまうなんて。
 それでも、今、くちびるに触れられたくはなかったのだ。
「ごめん、国兄。でも、大丈夫だから。ちょっと熱かっただけで、火傷してないし」
「そうか、ならいいが。気をつけるんだぞ。おまえはすこしそそっかしいからな」
「そんなことないよっ」
 ふと視線を感じてその方向を見れば、こちらを見ている不二と目が合った。
 彼に表情はなく、そこからどんな感情も読み取れない。彼が何を考えているのか分からない。それが耐えられなくて、リョーマは目をそらした。また参考書に目を落とす。
「国兄。ここわかんない。解きかた教えて」
「これはさっきの問題の応用だな。さっきと同じ公式を使ってこの答えを求めたあと、今度はこっちの公式で……」
 手塚はまた丁寧に教えてくれるが、その内容はリョーマの頭の中に入っていかなかった。意識は、不二のほうにばかり向いてしまっている。
 胸が、痛くて苦しい。くちびるが、熱い。
 この気持ちがなんなのか、リョーマも気付きかけていた。触れたくちびるが、それを気付かせた。この、苦しいほどの想いは。
 それでもリョーマはそれに気付かない振りをした。気付きたくなかった。気付いてはいけなかった。
(だって俺は)
「……それで、これを移項すれば、この答えが出るんだ。分かったか、リョーマ」
「うん。ありがとう、国兄」
「他にも判らないところがあったら言うんだぞ」
「うん」
 手塚は優しい。いつだってリョーマのことを想い、大切にしてくれる。手塚と結婚したらきっとしあわせになれる。これ以上望むことなんてない。望むことなんて、ない。
 だからリョーマは、もう不二のほうを見なかった。相変わらず、胸は痛かったけれど。くちびるは、熱かったけれど。


 To be continued.

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