輪舞曲 4


『もし……もし僕が、あと一ヶ月──いや、半月早く帰国してたら、違ったのかな?』
 熱に浮かされたように、リョーマのなかで不二の言葉が回っていた。
(もし──もしも、国兄と婚約する前だったなら)
 そうだったなら、リョーマはどうしていただろうか。どうなっていただろうか。心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられるような気がする。胸に何かが詰まってゆく。苦しくて、リョーマはそれを吐き出すように、おおきく溜息をついた。
「どうしたの、リョーマ。茶碗蒸、食べないの? 気分でも悪いの?」
 声をかけられて、ふと我に返る。夕食の席だというのに、ぼんやりしてしまっていた。顔を上げれば、向かい側に座る彩菜が心配そうな顔でリョーマを見ていた。
 今日の夕食はリョーマの大好物の茶碗蒸だというのに、目の前の碗にはまだ手がつけられていなかった。リョーマは、好きなものはいちばんはじめに食べるタイプだ。いつも茶碗蒸が出たときは、喜んで真っ先に箸をつけていた。それなのに今日は茶碗蒸に手をつけないのを見て、具合でも悪いのかと心配させてしまったのだろう。
「ううん。なんでもないよ、義母さん。ちょっと、今度のテストのことすこし考えてて、ぼーっとしてただけ」
 リョーマは急いで目の前に置かれていた茶碗蒸に手をつける。
 茶碗蒸に匙を入れれば、ふわりと暖かな湯気が上がった。だしのいい香りがする。口に入れれば、さらりと溶けるようにうまみが口に広がった。
「おいしい! やっぱり義母さんの茶碗蒸うまい!」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
 笑顔を見せるリョーマに、彩菜もやさしく微笑み返す。彼女のその笑顔は包み込むように優しげで、それが自分に向けられるだけでリョーマの心はあたたかくなった。
 手塚の母である彩菜は、本当に優しい。彼女といると、本当の母といるような気分になってくる。いや実際、すでに彩菜はリョーマの『母』だった。今では、亡くなった本当の母と同じように、義母である彩菜のことを慕っている。
「リョーマ。よかったら僕の分も食べるかい?」
 斜向かいから、国晴が自分の茶碗蒸をリョーマのほうへ差し出してくる。
 手塚の父親である国晴は、手塚とは違い、おっとりした感じの人のよさそうな紳士だ。リョーマの父親であった南次郎とはだいぶタイプが違うが、それでもいつもリョーマのことを見守っていてくれる優しい父親だった。
 常に忙しい身だが、こうしてできるかぎり一緒に食事をしようとしてくれる。時間を見つけてはリョーマと一緒に遊んでくれたり、話を聞いてくれる。いつもリョーマを気にかけてくれる。
「本当に、具合が悪いわけじゃないのか?」
 角をはさんで隣に座っていた国一が、熱を計るようにリョーマの額に触れる。いつのまにかまた箸がとまってしまっていたリョーマを心配したのだろう。手塚家当主としていつも厳しい国一も、リョーマには甘かった。
「具合が悪いならちゃんと言うんだぞ」
 反対側に座っていた手塚も、気遣うように顔を覗き込んでくる。
「本当に、具合悪いわけじゃないよ。大丈夫」
 みんなを安心させるように、リョーマは微笑んで見せた。
 みんな優しい。みんなあたたかい。みんな、リョーマの大好きな『家族』だった。大切な大切な人達だった。
 ここが、リョーマの居場所だ。今のリョーマが持っている、たったひとつの『家』だ。
(もしもこの場所を失ってしまったら)
 それはとても怖い考えだった。
 リョーマは一度、両親を事故によって失っている。ひとりきりの寂しさも苦しさもつらさも知っている。もう一度あの気持ちを味わうなんてことは──耐えられない。
 この大切な場所を失いたくない。
(もしも、あのひとと────)
 脳裏に、不二の顔が思い浮かんだ。そして、くちびるに触れた熱。胸が苦しい。
 どうして今このとき、彼のことを思い出してしまうのか。
 リョーマ自身にも、分かりかけていた。けれど、気付かない振りをした。それ以上考えないようにした。
 震える胸のうちを誰にも気付かれないように、いつもの振りをしてリョーマは夕食を続けた。



 夕食後、自室に戻ったリョーマは何をするでもなくベッドに寝転がっていると、不意に軽いノックの音がして、扉が開かれた。
「リョーマ。ちょっといいかしら?」
 彩菜が部屋へ入ってくる。
「? なに、義母さん」
 リョーマが寝転んでいたベッドに身を起こすと、彼女もその隣に腰掛けた。
「夕食のとき、やっぱり元気ないみたいだったから、どうしたのかと思って」
 ちいさな子供にするように、そっと前髪をかきあげられる。手塚とは違う、女性特有の優しい手の感触に、リョーマはほんのすこし頬を染めた。
「ほんとに、なんでもないよ」
「嘘ね。隠したって分かるのよ。何か悩み事?」
 さすが母親というべきか、彩菜はあの鉄仮面のような手塚の表情さえも判別できるという特技の持ち主だ。リョーマのことなどお見通しなのだろう。
「…………」
 それでも、彩菜に悩みの内容を打ち明けるわけにはいかなかった。うまく言葉に出来ないということもある。けれどそれ以上に、それを彩菜に知られてはいけないと、心の何処かでわかっていた。
 リョーマのその沈黙を敏感に感じ取ったのだろう。彩菜がすこしまじめな顔をしてリョーマの顔を覗き込んだ。
「──もしかして、国光との婚約のこと?」
「!?」
 言い当てられて、リョーマは驚いて、彩菜を見つめた。
 そんなリョーマに、安心させるように、彩菜は優しく微笑みかける。
「国光との結婚、不安?」
「そういうわけじゃ……」
 手塚との結婚が、不安なわけではない。嫌なわけではない。本当に、嬉しいと思っている。
 けれど────あのひとに出逢ってから、思っている自分がいる。『もしも手塚と婚約していなかったなら』と。それを口に出すことは出来なかった。
 そんなリョーマの戸惑いを、彩菜は違うように解釈したようだった。
「まあリョーマが不安になってしまうのも無理はないわよね。普通、結婚なんて、誰だって迷ってしまう上に、あなたはまだ13歳だし、国光はあんな性格だしね。──ふふっ、性格はあんまり似てなさそうなのに、国光は変なところで国晴さんに似ているんだから」
 自分が結婚する前の頃のことを思い出しているのか、彩菜はほんのすこし懐かしげな遠い目になる。
「国光は口下手だから、リョーマは不安になってしまうかもしれないけれど、大丈夫よ。リョーマ知ってる? 国光はね、5年前あなたがうちに来たときからあなたのことが好きだったのよ」
「え……?」
 その言葉は、リョーマにとっては思いがけないものだった。わずかに目を見開く。
「母さん、余計なことを言わないでください!」
 急にノックもせずに手塚が部屋に入ってきて、彩菜の言葉をさえぎった。
「あらあら、盗み聞きなんてお行儀悪いわよ」
 突然の手塚の登場にリョーマは驚くが、彩菜はすでに気付いていたのか、特に驚く様子も見せなかった。
 盗み聞きとはいわずとも、きっと彼はリョーマを心配して様子をうかがっていたのだろう。
「そんなことより……リョーマに余計なことを言わないでください」
 手塚の表情はまるでいつもと変わらないが、その頬と耳が、いつもより赤くなっているのがリョーマにも見てとれた。
「あら、余計なことなんかじゃないわよ。ちゃんと言葉に出してはっきり言わないと分からないことってあるでしょう? そのせいでリョーマが不安になってしまったりするのよ。あなたはちゃんとリョーマに気持ちを伝えたことがあるの?」
「それは────」
「結婚は、一生の問題なんですからね。自分のことが本当に好きかどうかも分からない相手のところに嫁ぎたいと思う花嫁なんて、いないんですからね」
 諭すようにそれだけ言い残すと、彩菜はリョーマにそっと笑いかけて、部屋を出て行った。きっと手塚とふたりきりのほうがいいだろうと気を使ってくれたのだろう。
 部屋には手塚とふたりだけになる。
「国兄……」
 そのおおきな背中に呼びかける。
(国兄が、俺を好き?)
 リョーマはずっと、手塚のことを兄のように慕ってきた。手塚も同じようにリョーマのことを弟のように想ってくれていると思っていた。
 婚約したときも、手塚と『家族』になれることがうれしくて、ただその事実にばかり目を向けて、手塚の気持ちなど考えたことはなかった。なぜ彼が婚約のことを言い出したのかなんて、深く考えていなかった。
 あるいは、優しい彼はリョーマの『手塚家のみんなと本当の家族になりたい』という願いを感じ取って、その願いをかなえるために婚約を言い出したのかと思っていた。
 手塚がリョーマのほうへ振り返る。
 意志の強そうな、けれど優しい瞳がまっすぐにリョーマを見つめていた。
「そういえば、ちゃんと言ったことはなかったな。すまない。不安にさせてしまったか?」
「国兄。俺は──」
 うまく言葉を続けられない。何を言えばいいのか分からない。
「リョーマ」
 そっと腕が伸ばされ、おおきな手がリョーマの頬に触れる。
「おまえが好きだ」
 照れることも臆すこともなく、はっきりとそう告げられる。そこに込められた、強い熱い想い。
 婚約したときも、『婚約したい』ということが告げられただけで、こうはっきりと気持ちを伝えられたことはなかった。
「おまえが婚約を承諾してくれて、本当にうれしかった。これからも、ずっとおまえだけを愛している。大切にする。ずっと一緒にいる。だから、俺と結婚してほしい」
「国兄────。国光」
 胸の奥から何か熱い塊が競りあがってくるようだった。こんなにも愛されているなんて、思わなかった。
 ずっとずっと、愛されてきた。ひとりきりで泣いていた夜も。抱きしめられて笑顔を取り戻した朝も。リョーマ自身が気付かない間にも。このおおきな愛情にくるまれて、だからリョーマは今まで生きてこられた。
 このまま、手塚と結婚すれば、リョーマはしあわせになれる。みんなしあわせになれる。
 みんなが、この結婚を望んでくれている。祝福してくれている。
 手塚を裏切ることは、できない。手塚だけじゃない、義母も義父も祖父も。大切な『家族』を裏切れない。失いたくない。だから。
 だから──。
「うん。俺も国光が好き。国光と、結婚する」
 リョーマもまっすぐに手塚を見つめ、そう答えた。
 それに、手塚は本当に嬉しそうに笑った。こんな手塚の満面の笑みは、めったに見ることはできないだろう。
「ありがとう、リョーマ」
 そっと、手塚の顔が近づいてくる。その意図を悟って、リョーマは目を閉じた。くちびるにそっと、熱が触れる。
 何度も何度もくちびるが触れ、深く合わさってくる。うまく息もできないほど何度もくちづけられる。口内に入りこんできた舌に、驚いて思わず身を引こうとするけれど、背中に回された腕が、強くリョーマを抱きしめて離さない。開かされた口内で、お互いの舌と唾液が絡み合う。
 やっと離されたとき、リョーマはすでに涙目になっていた。
 そのまなじりに手塚はくちびるを寄せる。
「愛してる。リョーマ」
 深く抱きしめられて、リョーマは頭の片隅に浮かぶ影をそっと振り払った。
(────)
 この気持ちは封印してしまおう。あのひとへの──不二への、この想いは。硬い箱の中に押し込めて、幾重にも鍵をかけて、心の奥底の深い深い水底へ沈めてしまおう。
 そうして、リョーマは手塚を愛して生きていこう。
 大丈夫。それできっと大丈夫。
 目を閉ざしたリョーマのくちびるに、また、手塚のくちびるが触れてくる。はいり込む舌に、今度は怯えることもなく、応えるようにたどたどしく自分から舌を絡ませた。
 手塚のくちびるの熱さに、一瞬触れただけの不二のくちびるの熱を思い出すことは、もう出来なかった。


 To be continued.

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