あの扉の向こうに(11)


「今日の実験は、ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくれるかな? アンジェちゃん」
 まだ年若い女の研究員が、しゃがんで、アンジェリークと同じ目の高さになってそう言った。
 アンジェリークは嫌々ながら、それでも素直にうなづく。
 痛いのは嫌だが、あんまり駄々をこねて、この研究員のおねえさんや母親に迷惑をかけたくはなかった。実験自体はいつものことなので、もう慣れっこだ。
 毎日飲ませられる、色々な薬。頭にたくさんいろんな機械をつけられて、よくわからない実験。毎日その繰り返しだった。
 アンジェリークはそれがなんなのか、よく理解していない。ただ、自分には『サクリア』というなにかすごい力があって、それを皆がどうにかして引き出そうと必死になっていることだけは分かった。それがどういう意味を持つことなのか、どれほのことなのかは分かっていなかった。
 けれどアンジェリークにとって、研究員のおにいさんもおねえさんも優しかったし、そんな生活にも慣れてしまっていて、そんなに嫌なことでもなかった。
「おかあさんも、ついててくれる?」
 アンジェリークは隣にいる母親を見上げた。
 いつもはひとりでも平気だったが、今日の実験は痛いかもと聞いて、少し心細くなったのだ。
 母親は、研究員の女を見る。彼女は了解するようにうなずいた。母親も、実験に付き添っていいということだ。
「大丈夫よ、一緒にいるわ」
 母親はアンジェリークに微笑み返す。
 途端にアンジェリークの顔が明るくなる。母親が傍にいてくれるということは、なによりも心強いのだ。多少痛いのも、きっと我慢できる。
「じゃあ、こっちに来て」
 アンジェリークと母親は促されて、実験室へと入っていった。
 アンジェリークは次期女王となるべき存在。女王と同等に、丁重に敬意を持って接しなければならないはずだった。
 けれどアンジェリークがまだ10歳の少女であること、今はまだ女王ではないことなどから、皆、あまりそれを意識しなかった。女王として敬うよりも、ちいさな妹を可愛がるように親しみを持って接するのほうが、アンジェリークの愛らしさにはふさわしかったのだ。
 次期女王、という考えがずっと念頭にあったなら、あんな無理な実験はしなかっただろう。現女王に、細心の注意を持って接するように、アンジェリークにも接しただろう。けれど、実験の成果が現われてくると共に、だんだんと実験はエスカレートしてきていた。反対意見がないこともなかったが、賛成意見のほうが圧倒的に多かったのだ。
 今日の実験も同じだった。多少の危険が伴うことは皆承知だった。
 アンジェリークは実験のためのベッドに寝かされて、身体中になにかを付けられた。それには長い管がついていて、その先は、見知らぬ機械につながっている。前にも同じような機械を付けられたことがあった。そのときは、何かの測定のためだった。今日も同じだろうか? それとも違うものだろうか?
 分からぬまま、とりあえずアンジェリークはおとなしくしていた。これがどんな実験か尋いても、いつも教えてくれないか、ごまかされるか、あるいはアンジェリークには理解できないことばかりだったのだ。
 部屋にいる研究員はそう多くなかった。実験結果はデータとして別室に送られる。この部屋の様子も、モニターで送られている。ほとんどの研究員はそちらのほうにいるのだ。
「アンジェちゃん。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
 研究員のひとりが言った。
 アンジェリークは顔を少し動かして、母親を見た。母親は励ますように微笑んでくれる。本当は手を握っていて欲しいけれど、それは駄目らしい。それでも、傍にいてくれるだけで、心強かった。
「実験開始します。測定お願いします」
 声がして、小さな機械音が聞こえ始める。
 アンジェリークは特にすることもなく、ただ瞳をつぶって実験が終わるのを待っていた。
 いつもそうだ。いつもそうやって、ただ実験が終わるのを待つ。
 実験が終われば、母親と共に遊んだり散歩をしたり、楽しい時間が待っているのだ。いつも、今日はこのあと何をしようか考えながら、実験が終わるのをただ待っていればよかった。
 けれど。
「……………………っ!!」
 身体中に付けられた機械から、電流が走った。あるいは、電流ではないのかもしれない。それが何なのかなど、アンジェリークには分からない。ともかく、すごい力が、アンジェリークの中を走り抜けていった。

 目の前が白くなった。

 次の瞬間、身体の中から、まるで何かが身体を突き破って出てくるような衝撃が襲った。
 たとえば自分が風船で、一瞬にして空気を入れられて、膨らんでゆくような感覚。空気が入り過ぎて、もうすぐ割れてしまいそうな感覚。

(トメテ!)

 けれど、声を出すことすらできなかった。
 ただ、自分の中からあふれだしてゆくものを、何処か遠くで見ていることしかできなかった。
「うわあっ!?」
 そう叫んだのは、アンジェリークの一番近くにいた研究員だった。
 アンジェリークの身体から、光が放たれていた。淡く放たれる光などではなく、レーザー光があふれるような、強くて激しい光。
「アンジェリーク!?」
 娘の異変に、母親は叫んだ。何があったのかと、傍へ駆け寄る。
「おい、実験は中止だ! とめろ!」
 誰かが叫んだ。
「とりません! コントロールが……!」
 切羽詰まった声がマイクごしに聞こえた。
「アンジェ……っ!!!」
 瞬間、すさまじい光が部屋を覆った。
 何が起きたか、誰もわからなかった。



 その瞬間、部屋は、時間と空間が歪められた。



 その異変に最初に気づいたのは、同じくサクリアを持つ女王と守護聖達だった。
 皆、それぞれの場所で、異様に大きく、そして歪められたサクリアの存在を察知した。
 こんなふうに歪んだサクリアなど感じたことがなかった。とてもまがまがしい感じがした。どちらにしろ、そんなサクリアが存在すること自体、異常事態だ。
 そのサクリアの出処を皆探した。サクリアが何処から発せられたか、大体の方向と距離くらいは分かる。そして、それが発せられた場所が王立研究院だと分かると、皆が嫌な予感に襲われた。
(あそこには、アンジェリークが、いるはず…………)
 普通の人間がサクリアを持っているはずがない。それなら、この歪んだサクリアを発したのはアンジェリークということになる。
 一体、何があったのか。
 何が起きたのか確かめるために、動ける守護聖達は王立研究院へ向かっていった。ルヴァも、読んでいた本を途中で放りだして研究院へ向かった。
 研究院は騒然としていた。人々が何かを叫んで指示を出していたり、おびえて動けずにただ震えているだけの者もいる、怪我をしたらしく血を流している者もいた。何かあったことは一目瞭然だった。
 ルヴァは誰かを捕まえて事情を聞くよりも、まず自分の目でアンジェリークの安全を確かめようと、そこらにいる人を無視して奥の実験エリアへ向かった。
 ある実験室の手前に、人垣が出来ていた。……アンジェリークがいたはずの、実験室だ。
「どうしました!?」
 ルヴァは走り寄って、人垣を押し退けて、実験室の中をのぞいて。
「っ!」
 言葉がのどで凍り付く。
 部屋は、真っ赤に変わっていた。
 血の、紅。淡いクリーム色であったはずの実験室は、赤い液体に塗り替えられていた。錆びた鉄のような重い匂い。血の池の中に所々にある物体。あれは、ひとの手ではないだろうか? 足ではないだろうか? あれは──。
「…………っ!!」
 衝撃に気を失いそうになって、ふらりと踏み出した足が、ぱしゃんと、赤い液体に浸る。
 血。ひとの、血。その言葉どおりの、血の池地獄。
「…………」
 遠のいていきそうな意識を、ルヴァは必死で押しとどめる。それは、責任感や使命感というよりも、今気を失ったらこの血の中に倒れこんでしまうという恐怖感だったのかもしれない。
「おかあさん……おかあさん……」
 ちいさな泣き声が、ルヴァの耳に入ってきた。
 今までは、見た光景の衝撃で、音など何も頭に入ってこなかったのだ。ほんの少し落ち着きを取り戻して、やっと、彼女の存在に気づいた。
 真っ赤な部屋の真ん中で、自らも真っ赤に染まりながら、ちいさな少女が泣いていた。
 少女が抱きしめている塊、多分それは、かつて母親だったものだろう。すさまじい衝撃のせいで、その死体はほぼ飛び散り、壊れ、とうてい元の形など想像もできないほどになっていたけれど。
「アンジェリーク……」
 泣いている少女は、名を呼ばれたことにも、背後に人が集まっていることにも気づかない。ただ、母親を抱きしめて泣いている。その名を呼んでいる。
「……おかあさん……」
 そのちいさな肩に、一体どんな言葉をかけてやればよかったというのだろう。



 あのとき決めたの。もう大きくならないって。
 だから、私はこのまま眠っていたいの。
 お願い。
 私を起こさないで。


 やめて、私を起こさないで。
 このまま眠っていたいの。


 …………おかあさん…………


 …………オ……………………


 To be continued.

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