あの扉の向こうに(3)


 うららかな常春の陽気は聖地と変わらない。宮殿と似た造りの、聖殿の執務室の使い心地も悪くはない。仕事も女王試験中とはいえ特に変わったこともなく、順調に進んでいる。
 ……表面上は。
 水面下では何が起こっているのか、オスカーには全く計り知れない。そして、水面が穏やかであればあるだけ、その内部の荒れようが恐ろしい。
 オスカーも、この女王試験に何があるのか色々探ってみようとしていた。ジュリアスからさりげなく聞き出そうとしたり、何か知っていそうな者に近づいたりしていた。
 けれどろくな収穫もないまま日だけが穏やかに過ぎて行く……。
 誰かがオスカーの執務室の扉を、叩いた。
 それに続いて入ってくるのは金の髪の女王候補。
「失礼します、オスカー様」
 豪華で大きな扉は、小さな少女には重そうだ。自分の目線くらいの高さにあるドアノブを必死に掴んでいる。オスカーはさっと近づくと、うやうやしくドアを閉める。
「よう、お嬢ちゃん。今日はなんだい?」
「育成をたくさんお願いします」
 はじめはこんな小さな子供に試験なんて出来るのかと思っていたが、アンジェリークは驚くくらい正確に大陸の育成をしていた。予測表の見方も分からないのではないかと思われたが、きちんと民の望みを把握して育成している。
 難しい書類も、そう苦もなく読んでいる。そしてちゃんと理解している。
 言葉や行動を見ていても、とても10歳には見えない。
 たとえばもし、直接会わずにアンジェリークと手紙だけでやり取りしていたなら、絶対に誰もが17・8の少女だと信じて疑わないだろう。
 天才……? それともまた違う気がする。
 それともこれが、女王候補に選ばれた所以なのか……?
「オスカー様?」
 自分を凝視するオスカーの視線に、アンジェリークは小さく首を傾げる。
 そんな様子は柔らかな金の巻き毛が耳元から桜色の頬に流れて、本当に可愛らしい。
「あと10年……いや、5・6年もすれば、お嬢ちゃんはその輝きに目を覆わんばかりの美しいレディになるんだろうな」
 オスカーは本心を込めて言った。実際この少女が10歳などでなく、もっと年が上だったなら、オスカーは本気になってしまっていたかもしれない。
 けれど。
「なりません」
 アンジェリークの冷たい、そして鋭さを含んだ声が返ってきた。
「私は……もう、大きくなんてなりたくないんです。このままでいたいんです」
 思いもかけないその言葉に、オスカーは驚く。
「おいおい、お嬢ちゃん。そんなこと言うもんじゃないぜ。せっかく美しく花開けるっていうのに、当のお嬢ちゃんがそんなこと言ってちゃ……」
「私は大きくなんてならない! 女王になんて……っ!!」
 悲鳴のような声がオスカーの言葉をさえぎった。
 伏せられた翡翠の瞳は床のあたりを見つめてさまよう。書類を抱えた小さな肩が震えていた。
「……アンジェリーク」
「ごめんなさい、オスカー様。私、少し興奮して、大きな声を出しちゃって……」
 アンジェリークはそれだけ言って扉の処で小さく一礼すると、薄く開けた扉の隙間に滑り込むようにして、執務室から出ていってしまった。
 残されたオスカーは茫然と閉じられた扉をしばらく見つめていた。
 他の女性達を口説くときに使う上辺だけの言葉などではなく、本当にオスカーはそう思ったからそう言っただけなのだ。けれど、その言葉は彼女を傷つけた。そんなつもりなんて、カケラもなかったのに。
 追いかけようと思った。彼女の足なら、まだそんなに遠くには行っていないはずだ。すぐに追い付けるだろう。オスカーは執務室を出た。
 聖殿の出入り口に向かって行く途中、廊下の向こうから人の話し声がした。聞き覚えのある声に、オスカーはとっさに柱の影に身を隠した。
 話していたのはクラヴィスとアンジェリークだった。
「アンジェリーク。試験は……つらいか?」
 クラヴィスは、常の彼では考えられないほど優しい声音でアンジェリークに話し掛けていた。
 アンジェリークはうつ向いたまま答えない。
「まだ忘れられないか、7年前のことを……」
「…………」
 柱に身を隠しているため、オスカーからふたりの詳しい表情などは見えない。けれどアンジェリークが胸に抱えた書類をぎゅっと強く握ったのが分かった。
「7年でも10年でも、きっと100年でも変わらない。私は絶対に忘れることなんて出来ない……!」
(7年前?)
 まだオスカーが守護聖になる前のことだ。オスカーだけでなく、年長組以外の守護聖はまだその任についていない頃だ。
(昔……何があったんだ?)
 柱の影から少しだけ身を乗り出してクラヴィスとアンジェリークの様子をうかがうと、アンジェリークの小さな背中が廊下の向こうへと駆けていく処だった。
「オスカー」
 オスカーに背を向けて、同じように少女を見送っていた闇の守護聖がいきなり名前を呼んだ。気付かれていたのか。一瞬心臓が飛び上がるほど驚くが、すぐに何気ない振りを装って柱の影から姿を現す。
「これはこれは。クラヴィス様にもあんなに優しい声が出せるとは思いもしませんでしたよ。他の者にもそうやって語りかけてやったらいかがです?」
 オスカーのさりげない嫌味にも、クラヴィスは興味なさそうに視線を送るだけだった。
「オスカー……。あまりアンジェリークを傷つけるな。あれは、お前も気付いていると思うが、ただの子供ではない……」
「ただの子供ではない……とは、どういう意味なのです?」
 やはり、彼女には何か秘密があり、クラヴィスもそれを知っているのだ。
 オスカーはクラヴィスに一歩詰め寄った。
「彼女は一体何者なんです? この女王試験には、何があるんです?」
「それを知ってどうするつもりだ?」
 逆に問い返されて、オスカーは答えに戸惑う。
 もし試験に何か裏があったとしても、それをジュリアス達が内密にしているのは、その方が良いと判断したからだろう。それなら、それを無理矢理暴くのは、状況を悪くするだけだ。女王やジュリアスを信じて、いつか話してくれるのを待つべきなのだ。
 今までも、何度かそんなことはあった。そのときオスカーは、向こうが話してくれるときが来るのを辛抱強く待った。
 それなのに、今回だけこんなにも気になって仕方がないのは何故?
「……俺は……」
 自分の気持ちさえ分からずに言い淀むオスカーを、クラヴィスは複雑な瞳で見つめた。この男は、アンジェリークに変化をもたらすかもしれない。そう思ったからだ。
 ただそれが、彼女にとって、そして宇宙にとってどういう影響を与えるか、それはまだ分からなかった。


 To be continued.

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