あの扉の向こうに(4)


 一面の赤。
 むせ返るほどの血の匂い。
 赤い池の中に横たわる人影。
 …………おかあさん。
 呟いた言葉は、もう届かない。

 だって、わたしがころしたから。



「………………っ!!」
 アンジェリークは暗闇の中、声にならない悲鳴をあげて目を覚ました。
 痛いくらい、のどが渇いていた。全身に汗をかいて、湿ったパジャマが肌に貼り付いて気持ち悪かった。
 ゆっくりとアンジェリークはベッドの上へ身を起こす。頬を伝わった汗がぽたりとシーツに落ちて、いくつかの染みを作った。
 …………これは、汗?
 あふれてくる水滴が、シーツにいくつもの染みを作る。
「…………っ、………………」
 アンジェリークは膝に顔を埋めた。指先が白くなるほどシーツを握り締める。
 どれほど時が経っても、繰り返し夢に見る。あの日の悪夢は今も消えない。アンジェリークの罪を知らしめるように、何度でもアンジェリークを責める。
 …………おかあさん。
 怖い夢を見ても、泣きながらすがりつく相手はもういない。あれは夢だと、優しく抱きしめてくれる人はもういない。

(……だって、私が殺したから)

 アンジェリークは声を出さずに泣いた。
 消せない過去。消えない傷。どれほど時が経っても、忘れることなど出来ない。
 誰が許してくれても、自分で許せない。
(私は……あんな力なんかいらない。大きくなんて、なりたくない。女王になんて……!!)
 心の中で叫ぶ。
 それなのに、何故こんな処にいるんだろう。こんな処で女王試験なんて受けているのだろう。皆をだましてまで。
(…………だって、他に、何処にも行く処がないから)
 このまま、ずっと小さな子供のままでいたい。実際アンジェリークはそうしている。
 けれどアンジェリークが子供であるかぎり他に何処にも行く処はないのだ。
 もしもっと大人なら、自分の足で立って歩いて行けるくらいの大人なら、他に行く処もあるだろう。何処へだって行ける、障害物があるなら乗り越えて、逃げられる。
 けれど子供は、誰かに守られていなければ生きていけない。自分の足では何処へも行けない。逃げるだけの力もない。
 そして今、アンジェリークの『保護者』は、女王制度なのだ。
 自分の一番憎むものに守られて生きている。
 ……違う、一番憎いのは、自分自身だ。
 何にもできない、ただ嫌なことから精一杯目を逸らしているだけの、守られて生きている自分。
 けれど、大人にもなりたくないのだ。母親を殺したあの力が目覚める。だから、大きくなりたくない。
(……おかあさん)
 アンジェリークは泣いた。声も上げず、その小さな肩を震わせて泣き続けた。



 オスカーは警備と称して夜の飛空都市を見回っていた。
 これが聖地ならこっそり下界に降りたりするのだが、ここが飛空都市であり、女王試験中のため時空回廊の管理も厳しくなっており容易に外へ出ることもできず、ただ本当に夜の街を回るだけだった。
 もともと住んでいる人が少ないこともあり、夜の飛空都市は静まり返っている。
 公園まで差しかかったとき、ふと暗がりの方から、自分のものではない下草を踏む足音が聞こえた。
「誰だ?」
 相手には殺気も気配を消そうとする様子もないことから、剣を抜きはしなかったが、幾分身構えて相手を探った。
 逃げる様子も隠れる様子もなく、暗がりから電灯の下へ人影が現われる。わずかでも光があれば陽光のごとく輝く金髪が暗やみに浮かび上がる。
「アンジェリーク……」
 そこにいたのは、小さな女王候補アンジェリークだった。
「……オスカー様」
 アンジェリークの方も、オスカーがいたことに驚いているようだった。
「こんな処で何をしているんだ?」
 身構えを解いて、問い掛けた。
「眠れないのか?」
「………………ちょっと、散歩に」
 アンジェリークは気まずそうに答える。
「散歩って、こんな夜中に……。いくら飛空都市とはいえ、もし何かあったら……アンジェリーク?」
 ずっとうつ向いているアンジェリークの頬にそっと手を伸ばして上を向かせた。
 電灯の下とはいえ暗がりで、しかもうつ向いていたから分からなかったが、その頬には確かに泣いた跡があり、目も赤かった。
「何かあったのか?!」
 口調が思わず強くなる。泣くようなことがあったのだろうか。自分のことではないのに、その涙の跡に胸が締め付けられるように痛む。
「…………夢を見たんです…………」
「夢? 怖い夢か?」
「昔の、夢……。忘れられるなら忘れたいのに、今も、夢に見る。今も、私を責める……」
 声がかすれるように小さくなって、その肩が震えだす。翡翠の瞳が泣くまいと、強く見開かれるのが分かった。
 オスカーは地面に膝をついて、自分の腰くらいの身長しかないアンジェリークと目線の高さを合わせる。そのまま胸元に抱き寄せた。
 小さくて細くて、力を入れたら壊してしまいそうで、オスカーは硝子細工を抱きしめるように、そっと抱きしめた。
「大丈夫だ、アンジェリーク」
 金の髪に頬を寄せながら囁く。
「もう怖い夢なんて見ないから……だから、泣かないでくれ……」
 アンジェリークを慰めるというよりも、懇願するような声だった。抱きしめているというよりも、すがっているようだった。
 それでもオスカーの肩口でアンジェリークが小さく頷くのがわかった。
 おずおずと、小さな手が背中に回される。それを感じてオスカーは少しだけ抱きしめる腕に力を込めた。
 ふたり、しばらくそのままでいて、やがてアンジェリークがオスカーの背から手を離して顔を上げた。
「あの、私もう、寮に戻ります。おやすみなさい、オスカー様」
 まだ赤い目のまま、それでも小さく微笑んで、身体を離すとアンジェリークは止める間もなく身を翻して寮の方に駆けだしてしまった。
 駆けていって、少しした処でアンジェリークが振り返った。
 アンジェリークの姿を目で追っていたオスカーと視線が絡み合う。
 ほんの一瞬。
 遠目なのに、オスカーには、その翡翠の瞳がはっきりと見えた気がした。心が揺らされる。心臓が音を立てたのがはっきり分かった。
 そしてまたアンジェリークは背を向けて駆け去ってしまう。
 ……もし、見つめ合ったあの一瞬がもう少し長く続いていたら、オスカーはアンジェリークの方へ駆けだしていたかもしれない。
(アンジェリーク)
 どうしてこんなに気になるのか。その答えを、今知った。
 好きになったら年齢なんて関係ないと、その言葉を実際に感じる日が来るとは思わなかった。
 オスカーの周りに美しい妙齢の女性達は山のようにいる。けれど、それらの女性達にこんな気持ちを抱いたことなどなかった。
(……アンジェ、リーク……)
 天使の名を持つ、小さな女王候補。その名をかみしめるように心の中でつぶやく。
 オスカーはそのまましばらくそこに立ち尽くしたまま、彼女が駆け去った特別寮の方を見つめていた。
 月のない、静かな夜だった。


 To be continued.

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