あの扉の向こうに(8)


 誰の目にも、表面上は何も変わらないように見えた。
 強いて変わったことをあげろと言われるなら、最近炎の守護聖と小さな女王候補アンジェリークが親しくなったようだ、という程度のことだった。それも悪いことではないし、むしろよい傾向に見えたので、誰もそれを特に気にすることはなかった。
 いや、気にする者は、いるにはいた。
「最近アンジェリークとオスカーは親しいようだな」
 ジュリアスは、ルヴァと試験の中間経過報告の資料を作っているときに、そんなことを口にした。
「そうですねー。まあ、親しいというか……」
 ルヴァは歯切れ悪く言葉を切った。
 親しいというよりは、オスカーがアンジェリークに惚れている、というのが正しい表現の気がした。実際、そうなのだが。最近はアンジェリークもオスカーに誘われると断ることもなく一緒に出かけたりしていて、まあ、親しいと言えなくもない。
「? 何だというのだ?」
 けれど、飛空都市にいる者すべてが知っているようなそんなことにも、ジュリアスは気づいていないらしい。
「分かりませんか? まあ、貴方はそうかも知れませんね〜」
 前回の女王試験での、クラヴィスと女王との関係にも、全くもって気づかなかった彼だ。今回も本当に気づいていないのだろう。
「アンジェリークも、試験に真面目に取り組み始めたし、よい傾向だ」
 ジュリアスは自分で言って、自分でうなづいている。
 確かに最近アンジェリークは前より真面目に育成をしているし、それを促したのがジュリアスの腹心の部下であるオスカーだということは、彼にとって喜ばしいことなのだろう。
 けれど、そんなジュリアスを見るルヴァの顔は、何処となく雲っている。
「そうですね、今のところは……」
 そう、今のところは。けれど、この先もよい傾向のまま続くだろうか。ルヴァには漠然とした不安があった。
 アンジェリークがそう簡単に過去を忘れるとは思えない。忘れるはずがない。
 それを乗り越えるためには、大きな壁がある。とてつもなく高くて厚い壁が。そんな簡単に乗り越えられるようなものではない。
「何もなければいいんですが……」
「? お前の言うことは、いつもながらさっぱり分からないぞ、ルヴァ」
 おそらくは、何を言ってもジュリアスには理解できないだろうと判断して、ルヴァはそれに答えなかった。ただ黙々と、報告書造りの作業を進める。心の中では、アンジェリークのことを考えながら。
(……変わろうとすることを、彼女は受け入れられるでしょうか……)
 オスカーの影響か、アンジェリークが少しづつでも変わってきていることは確かだった。でもそれを、アンジェリークは受け入れられるだろうか。変わることを、成長することを拒否して時をとめてしまったアンジェリーク。そうまでした彼女が、そう簡単に、変わる自分を受け入れるとも思えない。
 けれどそれを乗り越えねば、どうにもならないのだ。アンジェリークも、この宇宙も。
 すべては、あのちいさな少女ひとりにかかっているのだから。



「アンジェリーク。来週の日の曜日は暇か?」
 オスカーはアンジェリークを寮まで送ってきたとき、そう尋ねた。
 今日はやはり日の曜日で共に出かけた後だというのに、すぐに来週の約束を尋いてくる。それも、毎週のことだった。
 明日も明後日も聖殿で会うし、平日にも一緒に庭園などへ出かけたりすることもある。いっそ、そんなにずっと一緒にいて飽きないのかと聞きたくなるくらいだ。こんなちいさな子供と一緒にいて、そんなに楽しいのだろうか、と。
「アンジェリーク?」
「来週の日の曜日も……特に予定はないです」
「そうか、それじゃあ、また一緒に遠乗りにでも行かないか。何処へでも、君の行きたい処へ」
(どうして私を誘うの?)
 オスカーと共に休日を過ごしたがる女性は、それこそ山のようにいるだろう。あの整った見た目と、手慣れた柔らかい物腰。炎の守護聖という地位も、魅力のひとつだろう。女性達が騒がぬわけがない。
 アンジェリークが女王候補だから、というのは理由にはならない。オスカーがもうひとりのロザリアを誘うことはない。いつもアンジェリークばかりを誘う。
 アンジェリークを。
「はい。……湖の向こうの花畑に連れていっていただけますか?」
 アンジェリークの答えに、オスカーは整った歯を見せて笑う。
「ああ。わかった。じゃあ、また明日」
 オスカーは、淑女に対するように片膝をついてアンジェリークの手を取り、その甲にくちづけた。そんな気障な姿さえ様になっている。
 オスカーは立ち上がると、マントを翻して、馬に乗って帰っていった。
(……どうして、私、断らないんだろう)
 本当は、断ってしまったってよかったはずなのだ。
 アンジェリークには解からない。自分のことだというのに、自分の気持ちが。
 オスカーと一緒にいると楽しい。気持ちが、癒されるようにあたたかく感じることもある。けれどそれがなんなのか分からない。……分かりたく、ない。
(……私は)
「あら、アンジェ。帰ったの? また、オスカー様と一緒だったの?」
 ロザリアが、アンジェリークの姿を見つけて声をかけた。
「うん……。遠乗りの丘の方へ行ってたの」
 女王候補二人の仲は、やはりまだそんなに親しくなっていないが、それでもロザリアはめげずに、アンジェリークを気にかけてくれる。アンジェリークはそれに感謝しながらも、やはり素直に親しくなれずにいる。
 ロザリアは何も知らない。何も知らずにこの試験を受けている。自分にも女王の資質があり、頑張れば自分が女王になることもありうると信じている。その彼女が、この試験の本当の目的を知ったとき、自分の役割を知ったとき、どんなに誇りを傷つけられて怒り哀しむか。アンジェリーク自身が仕組んだことでなくても、アンジェリークを恨むだろう。だから、その日が怖くて、ロザリアの好意を素直に受けられない。哀しいけれど。
「本当に、オスカー様はあんたにご執心ね」
 ロザリアが、羨ましがるというよりは呆れるように言った。
 それはそうだろう。大の男が、わずか10歳の少女の元に、足しげく通っているというのだから。オスカーに変な趣味があると、悪い噂が立ってもおかしくはなかった。
(私が、小さな子供だから)
 アンジェリークがもっと年上の姿をしていたなら、それは、端から見てもおかしくはないだろう。でも、彼女が幼い姿でいるかぎり、それがどんなに紳士的で真摯な想いでも、『異常』と後ろ指さされてもおかしくはなかった。しかも、悪く言われるのはアンジェリークではない。オスカーだ。おそらくは、彼だけが一方的に悪く言われるのだ。
(私が……もっと大人だったなら)
 知らぬうちに、そう想ってしまう。名前を知らないオスカーへの感情が、いつのまにか、そんな想いを生みだす。心の奥底で、アンジェリーク自身さえも気づかぬうちに。
 けれどいつしか、想いは、形をもって現われる。
「あら」
 部屋へ入ろうとするアンジェリークの後ろ姿に、おかしな処を見つけて、ロザリアは彼女を呼びとめた。
「アンジェリーク。貴方、それ、血ではなくて?」
「え?」
 アンジェリークは驚いて、自分の身体をかえりみた。何処も痛いところなんてない。怪我もしていない。血なんて何処にも……。
「あ…………」
 アンジェリークは言葉を失った。
 スカートの後ろに、少しではあるが、赤い染みがついていた。アンジェリークは思い当たり、愕然とする。初潮が、きたのだ。
「それ、もしかして……」
 ロザリアが呟いた。
 立ちすくんでいるアンジェリークのもとに行って、優しく肩を抱く。
「アンジェリーク。大丈夫よ、それは病気なんかじゃなくてね、貴方が大人になったという証拠なのよ」
 ロザリアは、何も知らないアンジェリークが、自分の血を見て驚いたのだと思った。だからアンジェリークをなだめるようにそんなことを口にした。それが、彼女を打ちのめすとも気づかずに。
『大人になった証拠』
 その言葉が、アンジェリークを打ちのめした。
 アンジェリークの時が止ったままなら、それはありえないはずだ。これは、アンジェリークが少しでも成長している証拠だ。
 アンジェリークは自分の力で自分の時をとめた。彼女自身が望まなければ、もうこれ以上成長するようなことはないはずだった。実際、この7年間、彼女は少しも成長しなかった。10歳のままだった。
 無意識のうちに、望んでいたのだ。成長することを、望んでしまっていたのだ。
 アンジェリークは昔、母親を殺してしまった。死なせてしまった。だからそのとき、もうこれ以上大きくはならないと、大人にはならないと決めたはずなのに。
 あのときのことを、血の海に沈む母親の姿をまだ忘れていない。自分を許していないのに。
 それなのに、自分は成長しようとしている。子供であることをやめて、大人になろうとしている。
(おかあさん……)
 あの日誓ったのに。これ以上サクリアを大きくさせないためにも、もうこれ以上大きくならないと決めたのに。
 誰が許してくれても、アンジェリークは自分で自分が許せない。母親を殺した自分が、自分の力が許せない。
 自分が大きくなることを許せない。
(私は、大きくなりたくないの。このまま、子供のままでいたいの)
 それなのに。
(……オスカー様……)
 無意識のうちに、心が割れる。大人になりたくないと願う心と、大人になりたいと願う心。オスカーに釣り合う女性になりたいと、願ってしまう心。
 アンジェリークはもうこれ以上大きくなりたくなかった。子供のままでいたかった。
 オスカーに惹かれ、成長することを望む自分を許せなかった。
 でも、惹かれていってしまう自分も止めることが出来なくて。
(……私は、子供のままでいたいの。もうこれ以上、大きくなんてなりたくないの。大人になんて、なりたくない……)
 アンジェリークは気を失うように、ゆっくりと目を閉じた。
(私は……大きくなんてならない……)
 がくり、と身体の力が抜け、ロザリアの肩にもたれた。アンジェリークは、深い眠りに、自ら落ちていった。
 眠ることで、外界すべてを遮断した。
 そうすることで、オスカーに惹かれる自分の心も、成長しようとする自分の心も止めようとした。
「アンジェ? ちょっと、アンジェリーク?」
 急に腕の中で意識を失ったアンジェリークにロザリアは慌てる。
 起こそうと頬を叩いても揺すっても、アンジェリークが目覚める気配もない。
「アンジェ! アンジェ!?」
 アンジェリークは目覚めない。
 規則正しいその呼吸はそのままに、死んだかのように閉ざされた瞳は開かれない。



 アンジェリークは心の扉をかたくかたく閉ざして、眠りという世界に逃げ込んだ。
 そうすることしか、できなかった。
 そうすることでしか、オスカーに惹かれていく自分を止める術を見つけられなかった。


 To be continued.

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