あの扉の向こうに(9)


 もうずっと、アンジェリークは目を覚まさない。お伽話の眠り姫のごとくに。彼女が眠ってから、もう10日以上経つ。けれど一向に目を覚ます気配もない。
 アンジェリークは研究院に移されて、その特別病棟にいる。
 白い壁、白い床、白いシーツ、白い患者服に包まれて、ちいさな身体はそのまま白に溶けてしまいそうだった。白い肌も淡い金の髪も、白に溶け込んでしまいそうだった。本来は淡い桜色をしていた頬も、紅色をしていたくちびるも、今はあざやかさを失って、ただ静かにそこにあるだけ。彼女が白に溶け込みそうになるのを引き止める枷にはなってくれない。
(この翡翠の瞳が開いたら……)
 眠るアンジェリークを見ながら、オスカーは思う。
 あの鮮やかな翡翠の瞳なら、こんな白に負けはしないだろう。こんなふうに不安になることもないだろう。
 けれど、瞳は開かれない。彼女は眠ったまま。
 はじめは皆、どうにか彼女を起こそうと、色々な手を使った。頬を叩いたり、耳元で大きな音を出したり。アンジェリークの異変を聞いて駆け付けたオスカーも、散々手を尽くした。大声で名前を呼んで、ずっとずっと揺さぶっていた。けれどアンジェリークは目覚めなかった。つい夕方まで共にいた少女は、死んだように眠ったままだった。
 あらゆる手を尽くしたあと、アンジェリークを調べた研究院が報告をしてきた。彼女の眠りは、普通の眠りではない、と。
 人は、眠っているときでも生きてゆくために、栄養を補給することが必要だ。だから植物状態の患者にだって点滴を打って栄養を与えるのだ。けれど、アンジェリークは栄養を必要としていないのだ。かすかな呼吸以外は、身体の機能のほとんどが止まっているのだという。だから栄養を必要とすることもない。実際、今横たわっている彼女の腕に点滴はない。
 まるで、身体の時を止めてしまったかのような眠りだ、と、その報告をしてきた年若い研究員は言った。
 その言葉を聞いたときに、ディアと年長の守護聖3人は凍り付いた。明らかに、何かを知っているふうだった。問いただした処で、話すはずもないと分かっていたが。
 アンジェリークは目覚めない。美しい死体と見違うくらい深い深い眠りから帰らない。
「ああ、オスカー。やはりここでしたか〜」
 ノックもなしに扉が開いて、地の守護聖が病室に入ってきた。廊下を歩いてくる気配にも足音にも気づいていたので、オスカーは別段驚かない。
「なにかご用ですか? ルヴァ様」
「先程、アンジェリークに関する今後の処遇が決定しました」
 アンジェリークの処遇に関する話し合いがあるなど、オスカーは何ひとつ知らなかった。おそらくは、知らぬうちに、上層だけで話し合ったのだろう。
 最近、というよりはこの試験に関しては、そういうことがひどく多かった。オスカーの知らない処ですべてが動いている。腹立たしいと同時に、それに対して何もできない自分が悔しかった。
「アンジェリークは……どうなるんですか?」
「アンジェリークが、好きですか?」
 逆にそんなことを尋ね返されて、オスカーは戸惑う。けれどはっきりと答えていた。
「愛しています」
 オスカーの、真摯だとはっきり分かるその答えに、ルヴァは優しく微笑む。
「アンジェリークも、貴方が好きだと思いますよ。だからこそ、彼女はああやって眠りについてしまったのでしょう」
「俺のせいなんですか? 彼女がこうして目覚めないのは、俺のせいなんですか?」
「貴方が原因ではあるんでしょうが……貴方のせい、というのは違うと思います」
 オスカーには訳が分からない。この地の守護聖は、彼女が目覚めない理由を知っているのだろうか。
 オスカーがルヴァに詰め寄るより早く、ルヴァが口を開いた。
「貴方には、お話ししないといけませんね」
「何を……ですか?」
「すべて、です。この試験に関することも、アンジェリークに関することも、すべてお話しします。おそらくは、彼女を救えるのは貴方だけでしょうから」



 場所をかえましょう、とルヴァに言われて、オスカーは研究院内にある応接室のひとつに連れてこられた。ルヴァがはじめからそこの鍵を持っていたことから見ても、前もって用意してあったようだった。
 テーブルに、向かい合わせに座る。そういえば、この地の守護聖とこんなふうに肩を並べたことなどなかったなと、オスカーはぼんやり思った。
 ルヴァはオスカーにすべてを話すと言った。一体どんなことがあるのだろう。オスカーは地の守護聖の言葉を神妙な顔で待った。それを見て、ルヴァもゆっくりと話しだす。
「えーと、何処からお話しすればいいんでしょうかね。……そう、まず最初に言っておかなければならないことは、次期女王はアンジェリークなのです」
「!?」
 さらりと言われた重大な事実に、オスカーは目を見開く。
 確かにアンジェリークの女王の資質は認められているし、ほんの少しではあるが彼女の方が育成が進んでいるが、現在の試験の状況ではそこまではっきり次期女王だと言いきれるほどではない。それなのに、何故、地の守護聖は、そうはっきりとアンジェリークが女王だと言いきるのか。
「まさか……」
 オスカーの言葉が震えた。
 そんな炎の守護聖の反応を、地の守護聖はいたって冷静に見つめる。
「そう、この試験は最初から仕組まれたものでした。試験なんて本当は意味がなかったんです。ロザリアは、アンジェリークの、言ってしまえば誘発剤としてここへ招かれました。もちろん本人は知らないことですが」
 その答えに、オスカーは頭に血が昇りそうになる。怒鳴り付けそうになるのを必死にこらえて、努めて冷静な声を出そうとした。
「俺達もだましていたんですか!? 女王試験なんて、茶番劇だったんですか!?」
 それでも、語尾が荒くなってしまうのはとめようがなかった。
 女王試験がどれほど重大なものか知っている。だからこそ、皆、真剣に取り組んできたのだ。それなのに、それには何も意味がなかったなんて。
「しかたなかったんです……」
 ルヴァの声には、やるせなさと、苦々しさが混じり合っていた。
 それから察するに、皆を弄ぶためだけに、こんな嘘の試験を開いたわけではなさそうだった。そう思うと、オスカーの怒りも少し鎮まる。
「次期女王はアンジェリークです。それは、10年近く前から分かっていたことでした。でも、ある事件が起きて……彼女は自分の時を止めてしまいました。彼女は10歳の時から、成長していないんです。もう薄々ご存じかも知れませんが、アンジェリークは普通の子供ではありません。本当なら、彼女は今17歳なのです」
 彼女の実年齢が、見た目どおりでないだろうことは、オスカーも予想していた。彼女の考えかたや理解力はどう考えても10歳の少女のものではなかった。
「……アンジェリークに、何があったんですか」
 自分の時をとめてしまうほどの、何があったのだろう。
 自然の理りを覆してしまうほどの事件とは。一体、幼いアンジェリークの身に何があったというのか。
 本当なら、言葉にもしたくないことなのだろう。ルヴァは大きく息を吸い込んで、それから、吐き出すように言った。

「彼女は、自分の母親を、殺してしまったんです」

「!?」
 オスカーの目が見開かれる。言葉に詰まる。
 そんなオスカーに、ルヴァはゆるく首を振った。
「もちろん、彼女が意識してそんなことをしたわけではありません。彼女は何も悪くありません。悪いのは……私達なんです。でも、彼女は自分が母親を殺したと、自分を責めているんです」
 オスカーの脳裏に、いつかの夜のアンジェリークの姿が思い浮かんだ。怖い夢を見たと、忘れたくても忘れられない昔の夢を見たと言って泣いていた。そのとき見た夢は、このことだったのだろうか。
「オスカーもご存じとは思いますが、普通サクリアというのは成長するに従って大きくなり、表にも現われてきます。そして、ある程度サクリアが強くなると、聖地でもそれを察知できます。私はまだその時聖地にいなかったのですが、聖地でアンジェリークの女王のサクリアを確認したのは、アンジェリークが7歳のときだったと聞きます」
「7歳で?」
 オスカーは驚いた。まれにジュリアスやクラヴィスのように幼いころからサクリアを持つ例もあるが、それは守護聖に関してだ。第一、守護聖の中ですら、それは非常に特殊でまれな例だ。それを、しかも女王のサクリアを、そんな幼いころから聖地で察知できるほど持っていたなんて。
 アンジェリークの持つ女王のサクリアは、成長しきったら、一体どれほどの大きさになるのだろう?
「この宇宙は今、崩壊の危機にさらされています。宇宙移転の計画が上がっていますが、それには考えられないほどの力が必要です。今までの歴代の女王の力では無理なほどの力です。けれど、宇宙の意志によって、歴代の女王とは比べものにならないほどの力を持った者が生まれました。そう、宇宙移転を可能にするほどの力を持った者が……それが、アンジェリークです」
 つまりアンジェリークは、女王となるべくして生まれた特別な者なのだ。今のこの世界は、彼女でなくては救えない。あるいは、世界が、自らを救うために、彼女を生み出したといってもいいだろう。
 そこでふと、オスカーは不思議に思った。今のアンジェリークからは、女王のサクリアは全くといっていいほど感じられない。ロザリアのほうが、女王のサクリアを感じるくらいだ。それも、その事件に関係しているのだろうか。
 オスカーはその疑問は口にせずに、ルヴァが続ける言葉を聞くことにした。
「サクリアを確認した聖地は、アンジェリークを聖地へ招きました。そのとき、特別措置として、彼女の母親も共にここへ招きました。ジュリアスやクラヴィスなどは、5歳で親元を引き離され、ひとりでここへ連れられてきましたが、アンジェリークの場合は特別でした。守護聖のサクリアと違って、女王のサクリアというのは自らで成長させることも必要なのです。だから、彼女の場合、幼い彼女を無理に母親と引き離してサクリアに影響が出ることを恐れたのです。アンジェリークとその母親は、聖地で暮らすことになりました。その頃、私も聖地に招かれ、彼女に出会いました」
 今までの話から考えると、少なくともジュリアス、クラヴィス、ルヴァの3人は、この試験が始まるずっと前からアンジェリークを知っていたことになる。当然、彼女が次期女王であることも知っていただろう。
 彼らがなにか噛んでいるだろうことは分かっていたが、それをはっきり示されると、やはり少し腹立たしい。けれどオスカーはそれを今口に出すことはやめた。それよりも、話の続きが気になった。
「そのころ、研究院では、アンジェリークのサクリアについての研究も行われていました。……私達は、不安だったんです。彼女の女王のサクリアは、少しづつですがちゃんと成長していました。サクリアが成長しきったら、歴代女王など比べものにならないほど大きな力になるだろうとわかっていました。でも、それが宇宙崩壊に間に合うのか、本当に宇宙を支えられるか、いつだって不安はぬぐえなかったんです」
 テーブルの上に置かれていたルヴァの手が、強く握りしめられるのに、オスカーは気づいた。
 隠されていた凶々しいものが、黒い影を伴って現われてくるような、そんな錯覚に捕われそうだった。
「……その不安から、ある実験が始まりました。それが、悲劇を引き起こしたんです」


 To be continued.

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