この、腕の中の君に
-Last Kiss for dear Doze Angel-
1


 夜の星鏡の間は、死んだように静かだった。
 ここは、いつもそうだ。ここから、宇宙のすべてに対してその源とされる力が送られるに相応しく、いつもおごそかに静寂を保っている。
 だから、自分の呼吸音と足音が、やけに響いて大きく聞こえた。
 オスカーはそっと、部屋の中央へ向かった。そこから、サクリアを、彼女の大陸へ送るために。毎夜続いたそんな作業も、今夜が最後になるだろう。
 女王試験も、今夜終わる。
 自分が送るサクリアによって、アンジェリークが女王となって。
『あんた、アンジェリークが女王になって、本当にいいの?』
 世話好きの友人に言われた言葉が、ふと頭に浮かんだ。
 他の守護聖達も同じように、はっきり忠告する者や陰ながら心配する者など、表現はさまざまだったが、皆、アンジェリークを女王にしようとする自分をとめようとしていた。
 それらをすべて振り切って、オスカーはここへ来た。アンジェリークを女王にするために。
(これでいいんだ)
 部屋の中央は、サクリアを送るための場所として、一段高くなっている。そこに片足を踏みいれようとしたとき。
「本当に、よろしいのですか?」
 不意に、後ろから声をかけられた。振り向くと、部屋の入り口にパスハがいた。気配も物音ひとつもしなかったから、気づかなかった。
「なんのことだ?」
 オスカーは、驚いた様子ひとつ見せずに返した。
「今夜大陸に力を送れば、エリューシオンの民は中央の島にたどり着くでしょう。それでいいのですか?」
 皆が言ったのと同じことを、パスハもまたオスカーに繰り返した。おそらくは、これが本当に最後の忠告になるだろう。
「それがこの試験の目的じゃないのか」
 今更、王立研究院の主任でもある彼が何を言い出すのかと、オスカーは鼻で笑う。
 彼はエリューシオンにサクリアを送るのをやめるつもりはないようだった。どうしても、アンジェリークを女王にするつもりだった。その行動が、パスハには分からない。それは、彼に忠告を与えた皆も同じだろう。 「何故ですか、オスカー様。あなたは、金の髪の女王候補のことを……」
 その名前を出されて、ほんの一瞬、わずかに炎の守護聖の指先が震えた。

(オスカー様)

 自分に微笑みかけたあの笑顔を思い出す。笑顔をふちどる金の髪と、翡翠の瞳がまぶしくて、いつもその笑顔を目を細めて見つめていた。
 彼女が、自分を想っていてくれていることは、知っていた。
 彼女を女王にしようと、サクリアを送り続ける自分を、哀しそうに見つめていたことも。
 試験も終盤にさしかかった今、アンジェリークの気持ちを知る他の守護聖達は、彼女の大陸に力を贈らなくなった。女王になることは、必ずしも彼女のいちばん望むことではないと知っているからだ。
 けれど、オスカー本人だけは、彼女の大陸にサクリアを送り続けていた。
「オスカー様。無理にアンジェリークを女王にしなくとも、候補はもうひとりいます」
 パスハの言いたいことは、オスカーにも分かっていた。
 女王候補はもうひとりいる。ロザリアだって女王になれる。アンジェリークがどうしても女王にならなければいけないということもない。
 アンジェリークが女王候補を降りて、たとえばオスカーと結婚して補佐官になっても、なんら問題はないのだ。いや、そのほうが、彼女はしあわせかもしれない。
 …………しあわせ?

『オスカー。おまえは、いつか』

 不意に頭の中に、声が響く。
 記憶の中にある、おごそかな声。

『愛するものを、その手で』

「パスハ。おまえは、何か勘違いしているんじゃないのか?」
 オスカーは皮肉げに笑ってみせる。くちびるの片方だけをあげてみせる嫌な笑いだ。
「俺は、彼女を愛してなどいない」
 そう。アンジェリークを愛してなどいない。愛してなどいない。自分に言い聞かせるように繰り返す。
「あんなお子様に、俺が本気になるわけないだろう?」
 ほんのすこし、付き合ったことのないタイプの娘に興味を持っただけで、本気になどなっていない。
「それに彼女は、女王になる人間だ。そんな奴を好きになったりしないさ」

 だから。俺は。
 アンジェリークを、愛してなどいない。

「…………そうですか」
 哀しげにオスカーを見つめていたパスハは、それだけ言った。もう何を言っても、無駄だと悟ったからだ。
 どんなにとめても、彼はエリューシオンにサクリアを送るだろう。そしてアンジェリークは女王になる。
 彼がいったい何を考えているのか、パスハには分からなかった。
 オスカーは無言で、星鏡の間の中央に立った。サクリアの放出がはじまる。
 それを見て、パスハも無言できびすを返し、その場を離れていった。



 星鏡の間から廊下に出て、パスハは大きく息をついた。
 最後の説得のつもりだったが、駄目だった。いや、説得なら、今までにも他の守護聖達などが何度もしているだろう。それでもとめられなかったのだ。今更自分が何か言ったところで、彼をとめることなどとうてい不可能だったろう。
 それでも言わずにはいられなかった。
 アンジェリークを、自ら手の届かないところへ押しやろうとする彼の気持ちが分からなかった。
 不意に、大きな力の流れを感じる。直後、視界を光が覆う。
 光の柱が立った。エリューシオンの民が、中央の島にたどり着いて。オスカーの大量に送ったサクリアによって。
 アンジェリークが女王となった。
「オスカー様。結局、エリューシオンにサクリアを送ったのね」
 声をかけられて、顔をあげる。
 いつのまに来たのか、サラがパスハの前に立っていた。
「ああ……」
 苦々しく、パスハは眉根を寄せた。
 女王となることを、金の髪の女王候補は心から喜ばないだろう。出来ることなら彼女は、女王となるよりも想い人としあわせになることを望んでいた。その望みを断ち切られるかのように、想い人自身の手によって女王にさせられたのだ。
「オスカー様、何か言っていた?」
 サラに問われ、さっきの炎の守護聖との会話を思い出す。
 彼はパスハに、あざけるかのように言い放った。
「自分は、金の髪の女王候補など、愛してはいないと……」
「莫迦なひと」
 サラがつぶやいた。
 彼女は廊下に面した窓に近づき外を眺めた。夜だというのに、そこかしこで灯が付けられていて、妙に明るかった。その灯に照らされて、新しい女王誕生における諸々の準備に動き出す人々が見えた。
「愛していないというなら、何故そんなふうに逃げるように、彼女を女王にしたの?」
 そのつぶやきは、おそらくパスハに聞かせるためではなくて、ここにいないオスカーへ、聞こえないと分かっていて語りかけているのだろう。
 パスハは黙ってそれに耳を傾ける。
「彼女を女王にして、手の届かないところへ押しやらなければ、自分を抑えられないくらい、もう彼女を愛してしまっていると、自分でも気づいているのでしょう?」
 本当になんの特別な感情も持っていないのなら、いつも多くの女性をそう相手にしているように、軽くあしらうか、お手軽な恋愛ゲームを楽しんで、そしていつものようにお互い後腐れなく別れればいいだけのことなのに。
 そうしなかったのは? そうできなかったのは?
「その程度で、想いが消えるとでも、想っているのかしら?」
 サラは少しうつむいて、ちいさく言葉を吐き出した。哀しげに。
「そんなことで、運命から、逃げられると思っているのかしら」
「サラ……?」
 火竜族特有の赤い瞳は、目の前にあるものを見つめているように見えて、けれど実際は、もっと遠く深いところを見つめているのだと、パスハは知っていた。
 優秀な占い師でもある彼女は、人には見えないものをその瞳に映すことがある。運命とか未来とか呼ばれるものまで、映し出すことがあるという。
 彼女は一体、どんな未来を見たのだろう。
「…………莫迦なひと」
 もういちど、サラはちいさく呟いた。
 それ以上は、何も言わなかった。


 To be continued.

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