Sacrifice 〜孤独の槍は女神に抱かれて〜
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 不意うち、というわけではないのだけれど、日の曜日、アンジェリークは約束も前触れもなしにオスカーの私邸を訪れた。以前に他の守護聖の私邸に招かれて近くを通ったときに教えてもらって、場所だけは知っていた。
 あれからも、何度かオスカーの執務室を訪れたが、会ってはもらえなかった。また、ルヴァにああ強く止められてしまった手前、何度も執務室に足を運ぶのは、堂々と言い付けを破っているようで気が引けたのだ。
 でも、どうしてもオスカーのことが気になった。放ってはおけなかった。何故かは自分でも分からない。分からないけれど、どうしても、なんでもなかったことにして忘れてしまうことはできなかった。だから、こんな強行手段に出てしまった。
 呼び鈴を押して、しばらく待つ。
「誰だ?」
 扉を開けて出てきたのは、意外にも、炎の守護聖そのひとだった。
 アンジェリークは少なからず驚く。てっきり、メイドか執事が出てくると思っていたのだ。まさか本人が直接出てくるとは思わなかった。
 向こうも、アンジェリークが来たことに驚いているようだった。執務室に来ることだけでも十分驚くに値するのに、約束もなしに私邸まで訪れるのだから。
「何しに来たんだ?」
 アンジェリークを拒絶する、冷たい声が響く。
「お嬢ちゃんを招待した覚えはないんだがな」
 言葉に打ちのめされたように、アンジェリークはうつ向いてしまう。アンジェリークだって、呼ばれてもいないのに私邸にまで押し掛けるなんて、非常識だと分かっていた。だから、そうやって責められると、反論の仕様がなくていたたまれない。
 ただ、他にどうしても手段が見つからなかったのだ。執務室では会ってもらえないし、外で出会うこともなかったから、オスカーに会うにはこうするしかなかったのだ。
「……まあいい。入れ」
 アンジェリークの様子を見兼ねてか、投げやりにオスカーが呟いた。
 その言葉に思いがけない嬉しさが込み上げて、よどんでいた灰色の雲間に光が射すように、アンジェリークは微笑んだ。本当は、また扉を閉ざされてしまうのではないかと、すぐに追い返されてしまうのではないかと、とても怖かったのだ。だから、投げやりにでもなんでも、オスカーが受け入れてくれたことが嬉しい。
 その笑顔を、オスカーは瞳を細めて見つめる。まぶしげに。
 追い返すべきだったのかもしれない。そんな思いがよぎる。いや、追い返すべきだったのだ。こうして少しでも優しい言葉をかけたことで、彼女がオスカーに心を開いたら……。だから、追い返すべきだったのだ。
(…………それなら、彼女から、逃げ帰るようにすればいい)
 もう、彼になど近づきたくないと思うようにさせればいい。そうしなければいけないのだ。
 オスカーの後に従って、アンジェリークも館に足を踏み入れる。
 館の中は静まり返っていた。まるで彼の執務室と同じように。誰もいない。使用人もメイドも、他に誰の姿も見えない。
「あの、他の方はいらっしゃらないんですか? 執事さんとか……」
 他の守護聖の館に訪れたときは、使用人がたくさんいて、その数にアンジェリークは驚いたほどだ。実際のところ、守護聖の私邸のように広い館では、掃除だけでも結構な人手が必要なのだろう。
「平日の昼間だけ、通いの者が来る」
 つまり、オスカーが執務に行っていて、屋敷にはいないときだ。オスカーがいるときは、誰もいない。この広い館に、オスカーひとりだけだ。
 自分の館でさえ、オスカーはひとりきりなのだ。
(……寂しくは、ないの?)
 いや、寂しくないはずがない。こんな広い館にひとりきりで。本当に寂しくないというのなら、それは心が壊れているのだ。
 アンジェリークは居間と思われる部屋に通された。ここが他の守護聖の館なら、すぐにメイドがお茶でも運んでくるのだろうが、誰もいないここではそれはない。
 豪華なソファのひとつに促されるまま腰掛けた。と。
「男の家にひとりでのこのこ来たってことは、もちろんそれなりの覚悟があるんだろうな」
「えっ」
 アンジェリークが何か言うより早く、オスカーはそのちいさな身体をソファに組み敷いた。抵抗しようとする両手をやすやすと押さえ込む。
「やめてくださいっ!」
「こういうことが望みで、だからここに来たんじゃないのか?」
 オスカーは少女を鼻で嘲笑って、薄氷色の瞳に酷薄な光をにじませる。肉食獣が、捕まえた草食獣を見るような瞳。
「…………っ」
 アンジェリークは恐怖に身をすくませる。
 オスカーは彼女が死に物狂いで抵抗すると思った。恐怖に脅え、自分を軽蔑し、ここから逃げ帰り、そのあとはまた近づきもしなくなるだろうと。
 でも。
(…………違う。オスカー様は、こんなことするひとじゃない)
 震えながら、それでもアンジェリークは抵抗をやめた。翡翠の瞳でオスカーを真っすぐに見つめ、真意を探ろうとする。
 オスカーを、信じているのだ。
 彼はこんなことをするひとではないと信じて、だから、この行動にも何か意味があると信じて、それを探ろうとしているのだ。
(ヤメロ!)
 それでは駄目なのだ。もっとオスカーを嫌い、軽蔑し、心を閉ざさなければいけないのだ。そんなふうに信じては駄目なのだ。そんなふうに心を開いてはいけないのだ。それでは、アンジェリークが傷ついてしまう。
 それなのに、何故、こんなふうに彼女は近づいてくるのか。オスカーの心を、掻き乱すのか。
「……本当に、これが、オスカー様の望みなんですか? それで、貴方は癒されるんですか?」
 翡翠の瞳が、言葉が、オスカーを射抜く。これで本当にオスカーが癒されるというのなら、身体を差し出す覚悟があると、告げる瞳。それは、同情とか諦めとか、そんなものではなくて、ただ相手の痛みを癒したいと願う、ひたすらに優しい感情。
「………………っ!!」
 オスカーは掴んでいた手を離して、アンジェリークから離れた。後ずさるように、逃げるように、後ろへ引く。
「オスカー様?」
 自由になったアンジェリークがソファの上に身を起こしてオスカーを見た。その、透き通るような、翡翠の瞳。
(アンジェリーク……!)
 額を押さえるように、片手で瞳を覆った。立ってもいられなくなったように、がくりと膝をつく。
 肩が震えているのが分かった。こらえきれずに、手と頬の間から、流れて落ちてゆく雫。
「頼むから……俺に近づかないでくれ……」
 オスカーは呟いた。消え入りそうな弱い声。
 アンジェリークは彼のそんな変化に驚きながらも、その言葉を聞き漏らさぬよう、彼をじっと見つめる。
「俺に近づけば、君は傷つく。だから、近づかないでくれ……」
「どうして……そんなこと……!」
 否定しようとするアンジェリークに、オスカーはゆるく首を振る。
「サクリアは心を伝わる。通じ合う心を伝って相手に流れ込む。そのとき、俺のサクリアは刃と同じだ。激しい痛みと、苦しみと、死さえありうる。炎のサクリアとはそういうものなんだ。だから、近づくな。近づかないでくれ……」
(サクリア、が?)

 ……『何故、貴方と大陸の民の親密度が、育成に必要なんだと思いますか?』……

(あ、…………)
 ひらめくように、地の守護聖のもらした言葉を思い出した。
 足りなかったジグソーパズルのピースを見つけて、絵が完成するように、すべてのことがつながってゆく。
 近さとは、物質的な距離ではない。心の、近さだ。
 何故大陸の育成に、民達との親密度が関わるのか。それは、サクリアの性質にある。サクリアは、心を伝わるのだ。心が通い合うと、まるでそれがパイプのように、サクリアは相手の心に流れてゆくのだ。
 守護聖達が大陸に送るサクリアとは別に、アンジェリークと民達の心が通じ合うと、そこからアンジェリークの女王のサクリアが大陸に、民に、伝わるのだ。それがさらなる発展を促す。
 だから、育成には民との親密度も要求され、女王はこの宇宙に愛し愛される人物でなければいけないのだ。
 そしてそのサクリアの性質は、女王のものに限ったことではない。9つの、守護聖のサクリアも同じなのだ。自らの意志で宇宙や大陸に向けてサクリアを放出するのとは別に、心が通じ合うものがあると、そこにサクリアは流れてゆく。
 地の守護聖の傍にいると穏やかな気持ちになれたり、夢の守護聖の近くにいると明るい気分になれるのは、そのためだ。本人達の人柄もあるが、伝わってくるサクリアの影響でもあるのだ。
 大抵のサクリアは、人々を穏やかにさせたり楽しくさせたり、よい方向へと導く。
 けれど、炎のサクリアだけは異質で例外だった。
 対象が宇宙であったり地域であるなら、それは糧にもなるが、ひとに炎のサクリアが流れこむと、それは刃にしかならないのだ。
 炎の本質。間接的になら、暖めてくれる灯にもなるだろうけれど、直に触れることはできない。触れたら火傷をする。
 ひとが直接サクリアを受けるには、炎は強すぎるのだ。
 けれど、心が通じ合えば、サクリアは意志に関わらず勝手に流れてゆく。その相手を傷つける。それを止めるには、心を閉ざすしかないのだ。誰とも心を通わせないことが必要なのだ。
(だから、ひとを近付けずにいたの?)
 わざと意地悪を言って。気に触る行動を取って。嫌われるように、憎まれるように。そして、誰も近づかないように。近づいて、傷つかないように。
 あんな寂しそうな瞳をしながら。それでもそれを隠して。
 やっとアンジェリークはすべてを理解した。すべての意味を知った。ルヴァの言葉の意味も、オスカーの行動のわけも。
(……オスカー様)
 そっと、アンジェリークは一歩オスカーのほうへ踏み出した。
「近づくな!」
 オスカーは叫んだ。
 想いが一方通行なら、それは通じ合っているとはいえない。オスカーがどんなに相手を想っても、相手がオスカーを嫌い心を閉ざしているなら、心は通じ合わない。サクリアも向こうに流れ込むことはない。
 逆も同じだ。相手がオスカーを慕っていても、彼が心を閉ざしているなら、サクリアが流れ込むことはない。一夜限りの付き合いを繰り返す女性達との関係などがそうだ。
 けれど、アンジェリークは違う。オスカーの想いは、すでにアンジェリークに向かっていた。ひとめ見たときから、惹かれていた…………。
 アンジェリークがオスカーに心を開けば、たちまち炎のサクリアが彼女に流れ込んでいくだろう。それは彼女を傷つけ、苦しめ、あるいは死さえ招くだろう。
 だからオスカーはアンジェリークを突き放した。わざと冷たくして、彼女のほうから離れてゆくようにした。
 それなのに。
「近づくな……近づかないでくれ」
 言いながら、それでも逃げようと動くことはできなかった。見えない蔦に足を絡め取られたかのように、動くことができなかった。
 近づいてくるアンジェリークを、ただ、見ていた。
「……オスカー、様」
 アンジェリークはオスカーをそっと抱きしめた。
 オスカーに触れたその一瞬、まるで静電気のように、何かが身体を走ったのが分かった。軽い痛み。おそらくはそれが、彼の炎のサクリアなのだろう。何かがゆるやかに渦巻くように、身体の中に流れ込むのが分かった。
「オスカー様。泣かないでください」
 守るように包むように抱きしめて、その赤い髪に頬を寄せる。この孤独なひとを、癒したいと思った。守りたいと思った。助けたいと思った。
 そろそろと、オスカーがアンジェリークの背に腕を回した。失くしたと思っていたもの。自分が炎の守護聖であるかぎり、手に入れることは叶わないと思っていたもの。やさしいぬくもり。抱きしめてくれるひと。
 寂しいから強がって、上辺だけの、一夜かぎりの付き合いを繰り返した。でもそんなもので癒されやしない。
「アンジェリーク」
 やっと母親に会えた迷子の子供のように、オスカーはアンジェリークにすがりついた。
 オスカーだって分かっていた。それが危険なことだと。自分のサクリアはアンジェリークを傷つけると。だから、突き放そうとしていたのに。
 分かっていて、でも、このぬくもりを、どうしても手放せなかった。
 分かっていたのに……。


 To be continued.

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