Sacrifice 〜孤独の槍は女神に抱かれて〜
5


 外は、めずらしく雨が降っていた。藍色の髪の女王候補は、優雅に雨の音を楽しみながら、ゆったりと朝食をとっていた。
 気候も管理された飛空都市では、雨は定期的に必要量を降らせる。穏やかなしっとりした音を響かせて降るこの雨が、ロザリアは嫌いではなかった。
 向かい側の席に人影はない。アンジェリークはまだ起きてきていなかった。
(もうしばらく経っても起きてこないようだったら、部屋まで起こしに行かなくてはいけないわね。もう、本当に手のかかる子なんだから)
 彼女の寝坊は時折あって、そのたびにロザリアが彼女を起こしていた。けれど、そんなことを考えているロザリアの口許にはかすかな笑みが浮かんでいる。アンジェリークの世話を焼くのは、実は密かな楽しみでもあるのだ。
 けれどロザリアの想いとは裏腹に、二階で扉の開く気配がして、アンジェリークが食堂へ降りてきた。ロザリアは少しだけ残念に思う。
「おはよう、アンジェリーク。今日もずいぶんとゆっくりなのね。早く支度したほうがいいのではなくて?」
「うん」
 そう答えるアンジェリークは、寝起きだからにしても、ひどく顔色が悪く見えた。いつもあざやかな桜色の頬も、今は青白く見える。
「アンジェ、貴方、具合悪いの? 顔色悪いわよ」
「そう? 平気よ」
 アンジェリークは無理をして笑ってみせるが、明らかに具合悪そうだった。
「無理しないで、具合が悪いんだったらちゃんと休みなさい。一日くらい育成しなくたって、大陸なら大丈夫よ」
「ううん、本当に、大丈…………」
 ぐらり、とアンジェリークの身体がかしいだ。髪の金色が、軌跡となって孤を描く。
「アンジェリーク!」
 ロザリアが悲鳴のような声を上げた。
 金の髪は床に散らばり、白い手足は力なく床に投げ出された。



 ルヴァは、たまたまアンジェリークを散歩にでも誘おうと寮を訪れて、その騒ぎを知った。
 いつもとは違う寮の雰囲気に、彼は、もうひとりの女王候補に声をかけた。
「ロザリア。どうかしたんですか〜?」
「ああ、ルヴァ様。アンジェリークが倒れたんです。お医者様は、過労だろうから、安静にしていれば平気だとおっしゃるんですけど、私心配で……」
 心配で仕方ないのだろう。ロザリアは、出かけるでもなく、所在なげにたたずんでいた。
 アンジェリークが倒れた後、すぐに医者が呼ばれて彼女を診た。特に悪いところは見つからず、おそらく過労だろうと医者は判断して、安静にするようにと告げて帰っていた。
(アンジェリークが……)
 ふと、嫌な予感がルヴァの頭をかすめる。それは本当に、過労だろうか?
「アンジェリークは、今は?」
「部屋で眠っていますわ」
「あ〜。私もちょっと様子を見てきてもいいでしょうかね」
 地の守護聖は、ロザリアと共に、アンジェリークの部屋に行く。
 当のアンジェリークはぐっすりと眠っていた。多少顔色が悪いことを除けば、熱もないし、大丈夫そうに見える。
 けれど、そんな彼女を見て、ルヴァは険しい顔になる。
「? ルヴァ様? どうかいたしました?」
「いえ、彼女は頑張りやさんですから心配ですね〜。今日はゆっくり休ませてあげましょう」
 地の守護聖はまたすぐに、いつものような穏やかな顔になる。それを見てロザリアは、さっきの表情はアンジェリークを心配してのことだと納得する。
「ロザリア、貴方は育成に行ったほうがいいのではないですか? アンジェリークなら大丈夫ですよ。寮の管理人のかたもいらっしゃいますし、しばらく私が診ていましょう」
「でも……」
 最初は行くのをためらっていたロザリアだが、今彼女の大陸は緑の力をとても必要としていた。早く送っておくに越したことはない。マルセルに育成を頼んだらすぐに帰ってくると告げて、ロザリアは出かけて行った。
 枕元に座り、ルヴァは眠る少女を見つめる。
 よくこの程度ですんでいるものだと思う。普通の人間なら、死んでいてもおかしくはなかった。
(だから、近づいてはいけないと言ったのに……)
 こんなことになってしまうとは。頭の痛い事態だった。
 しばらくすると、あわただしい足音がして、オスカーが部屋に駆け込んできた。
 急いで駆け付けてきたのだろう、息が上がっていた。雨にも構わず来たのか、赤い髪も濡れて、鮮やかさをきわだたせている。
「アンジェリークが……倒れたと、聞いて……」
 ルヴァはそんなオスカーから、つい、と目を逸らす。
「常人なら、死んでいますよ」
 冷たく言い放った。
 アンジェリークの身体の不調の原因は、過労ではなかった。炎のサクリアが彼女を傷つけていたのだ。
 サクリアが目に見えないように、その影響も目には見えない。表面的にはなにも変わらない。だから普通の医者では原因不明と思うだろう。けれど、同じくサクリアを持つルヴァには分かった。彼女の身体から、炎のサクリアが感じられた。それが、彼女をむしばんでいたのだ。
 アンジェリークは言い付けを守らずオスカーに近づき、心を通わせたのだとすぐに分かった。
「アンジェリークはまだ少ないですが女王のサクリアを持っています。それが炎のサクリアを多少なりとも打ち消していたんでしょう。けれど、それも限界があります」
「やっぱり、俺のせいなのか? 俺のサクリアが、彼女を傷つけたのか?」
 ルヴァは、何を今更、というように溜息をつく。
 オスカーは自分の持つサクリアのことをよく分かっている。だから、ああやって人を近付けないのだ。オスカーには特に言わなくても大丈夫だろうと思って、アンジェリークのみに注意を促していたのだ。それなのに。
「オスカー、分かっているんでしょう? 貴方は炎の守護聖です。貴方がそのサクリアを持っているかぎり、貴方は誰とも触れ合えないんですよ」
 そんなこと、オスカーだって言われずとも分かっていた。いや、オスカー自身がいちばんよく分かっていた。
 炎の守護聖のサクリアのことは、本人以外、ほとんどの者には知らされていない。オスカーがそう望んだからだ。だから、他の守護聖でさえ、知る者は少ない。
 けれど聖地に長くいるジュリアスや知識を司るルヴァなどは、それを知っていた。炎の守護聖が誰とも触れ合えないこと、その孤独……。だから、オスカーのただれた私生活も大目に見ていたのだ。彼が一夜かぎりの付き合いを繰り返すことにも、口を出さずにいたのだ。
 けれどこれほどの事態に発展してしまい、しかもその相手が女王候補であるというのなら、もう大目に見ていることはできない。
「オスカー。これは、命令です。今後、アンジェリークに近づかないでください」
 ぴしりと、ルヴァは言い切った。決して否定を許さない、強い言葉。
 物理的に離れていても、心が通じ合っていればサクリアは流れる。けれど、物理的に近いほどサクリアも流れやすくなるし、心も通じやすくなる。
 逆に、離れていれば、心が通じ合っていても、多少の影響は押さえられる。また、離れていれば、忘れることもたやすいだろう。
「このままではアンジェリークは死んでしまいます。彼女は優しい子ですから大丈夫と言うかもしれませんが、大丈夫なわけがないんです。貴方の気持ちは分かりますが……」
(分かる? 俺の気持ちが!?)
 オスカーは、怒鳴りたくなる気持ちを押さえて、両手を強く握り締めた。
 オスカーの気持ちの何が分かるというのだろう。あの孤独を、分かると言うのか!?
 地のサクリアに炎のような性質はない。ひとに流れ込んでも、気分を穏やかにさせることはあっても、傷つけることなどない。だから、彼の周りにはいくらでも親しいひとがいる。ひとりではない。
 けれど、オスカーはひとりだ。ひとりきりだ。
 サクリアの性質を知る者は、皆、オスカーに近づかなかった。同情はする。けれど、不用意に近づいて親しくなったりすれば、彼のサクリアに傷つけられるのだ。命を落とすことさえある。だからオスカーには近づこうとしなかった。彼を遠ざけようとした。
 向こうに遠ざけられるのはあまりにも哀しくて、でも誰かを傷つけるのも嫌で、だからオスカーは自分からわざと皆を遠ざけた。
 それでも寂しくて寂しくて、一夜かぎりのぬくもりを貧るように求めても、そんなもの、何も癒してくれなかった。ただ、自分がひとりなのだということを知らしめるだけだった。
 あの孤独が分かるというのか!?
 もう一度、あの孤独の中へひとり帰れというのか!?
(…………アンジェリーク…………)
 自分が傷つくことも厭わずに、抱きしめてくれた、愛しい少女。
 彼女を傷つけたいわけじゃない。むしろ、彼女を傷つけるのは絶対に嫌なのだ。
 けれど、一度本当のぬくもりを知ってしまえば、もう昔には帰れない。見知らぬ女の一夜かぎりのぬくもりなど、何の意味もなさないだろう。
 あの孤独の闇へなど、もう、帰りたくない。
 もう、求めるのは彼女だけだ。
(俺は…………)
 守護聖は、身のうちから絶えず生みだされるサクリアを、外に放出しているのと一緒だ。そして、心というパイプがあると、そこへ向かって一直線に流れてゆく。サクリアは勝手に、いつまでも作り出されてしまうからそれを止めることはできない。
 でも…………。
(俺は、アンジェリークに傍にいて欲しいんだ。抱きしめて欲しいんだ。ただ、それだけなんだ。それがエゴでも、どんなことになろうとも……)
 薄氷色の瞳の奥に、強い決意の灯がともった。



 アンジェリークがふと目を覚ますと、傍らにはオスカーがいた。
「アンジェリーク……」
 そっと髪を撫でてくれる。優しい手。
 アンジェリークは、こんなオスカーが好きだった。おそらくは、他の誰も知らない本当の彼。彼が、好きだった。
「ごめんなさい、オスカー様。心配かけてしまって」
 アンジェリークは、この不調が炎のサクリアのせいであると気づいていた。オスカーもそれは分かっているだろう。だから、きっとオスカーはひどく心を痛めている。
「私は、大丈夫だから」
 安心させるように、笑ってみせる。
「アンジェリーク……」
 髪を撫でていたオスカーの手が、そっと頬にすべって、アンジェリークの頬を包み込む。
「アンジェリーク。俺の傍に、いてくれるか?」
 ちいさな問いかけ。けれど、それがどんな意味を持つか、アンジェリークにも分かっていた。
 傍にいたら、また炎のサクリアで傷つくだろう。またあの痛みと苦しみが襲う。やがては死んでしまうかもしれない。それでも傍にいてくれるかと、オスカーは尋いてきた。
 その答えは、いちばん最初にオスカーを抱きしめたときから決まっていた。本当の彼を知ったときから決まっていた。
「ええ。私はずっと、オスカー様の傍にいます」
 そうはっきりと答えていた。
 傷ついてもよかった。オスカーをひとりにはできなかった。ただ傍にいたかった。いつか炎のサクリアで死んでしまうなら、そのときまで傍にいたかった。
「……ありがとう」
 オスカーはそう答えた。心から。
 これはエゴだと、ちゃんと分かっていた。分かっているけれど…………。
 それでも、オスカーはアンジェリークを求めた。本当のぬくもりを求めた。
 ただそれだけのことだった。


 To be continued.

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