Sacrifice 〜孤独の槍は女神に抱かれて〜
6


 窓から月明かりが入り込んで、ベッドに淡い影を作る。
 風もない、月光の降る音さえ聞こえそうなこんな静かな夜では、聞こえるのは、時計の音と、自分の呼吸と、隣で眠るアンジェリークの寝息だけだった。
 アンジェリークはオスカーの腕の中で眠っていた。こんな夜も、もう何度目だろう。
 オスカーはアンジェリークを見つめた。いい夢を見ているのか、その寝顔は少し笑っているようにも見える。
 他に誰もない静かな館。でも、もう寂しくはなかった。
 こうして、彼女がいてくれるから。
 前はこの静けさに耐え切れず、騒がしいほどの夜の花街に繰り出しては、見知らぬ女を抱いて気を紛らわせていたが、もうそんな必要はなかった。
 ふたりは密会を繰り返していた。誰にも気づかれないように。
 気づかれたらすぐに引き離されてしまうだろう。だから、こうして密やかに逢瀬を繰り返していた。
 表面上はもうふたりが親しくしていないこと、アンジェリークにはもう炎のサクリアを受けたと思われる異変が起きないことから、誰もふたりの密会に気づくことはなかった。
 しあわせだった。見知らぬ一夜限りの女を抱いているときには知ることもなかったしあわせが、そこにあった。
 けれど、それももう続かないことを、もうすぐくる終わりを、オスカーは気づいていた。分かっていた。
 炎のサクリアが終わりをつれてくる。
 あのまま孤独に耐え続けていたなら、やがてオスカーのサクリアは尽き、普通の人間に戻っただろう。そうすれば、もう誰を傷つけることもない。
 でも、アンジェリークと共にあるには、サクリアが尽きるのを待つわけにはいかなかった。待っている間に少しずつ流れ込んだサクリアが、やがては彼女の命を奪っただろう。ほとんど影響しないほど離れるには、下界に降りるしかない。そうしたら、ときの流れがふたりを引き離した。
 こうするしかなかった。
 こうして、ほんのひととき、傷つきながらでしか、傍にいられなかった。
 これは、自分のエゴだ。
 本当にアンジェリークを想うなら、彼女を近付けるべきではなかった。傍においておくべきではなかった。
 分かっていて……それでもオスカーはアンジェリークに甘えてしまった。優しい、天使のような彼女に。
「……アンジェリーク……」
 眠っているアンジェリークに、そっと語りかける。
「泣かないでくれ。哀しいことなんて、ひとつもないんだ。俺は、しあわせだった」
 オスカーはしあわせだった。誰よりも。何よりも。一緒にいられた時間は、今まで感じたこともないくらいに、しあわせだった。
「ごめん……それと、ありがとう」
 そっと、アンジェリークにくちづけた。
「……愛している、アンジェリーク」
 眠りを妨げぬよう、けれどできるかぎりきつく、腕の中の少女を抱きしめた。
 伝わるぬくもり。そのあたたかさを感じながら、しあわせを感じながら、オスカーはゆっくりと目を閉じた。
 そして、もう、その瞳が開かれることはなかった。



「…………?」
 夜中にふと、アンジェリークは寒さに目を覚ました。
 眠りかけた意識で、何気なく、傍らにあるぬくもりに身を寄せる。そうすれば寒くないはずだった。ひとのぬくもりは、あたたかいはずだった。
 けれど。
 頬に、腕に、ひやりとした感触。冷たい。
「…………オスカー?」
 そこにあるのは確かに人の肌なのに、雪の夜に放置されたシーツのように、冷たい。
 頬を寄せた胸からは、何の音もしない。この夜のように静かだ。鼓動さえ、聞こえない。
「…………?!」
 アンジェリークは、自分を抱きしめるように回された腕を外して、シーツの上に身を起こした。
「オスカー?」
 月明かりに照らされる、青白い顔。それは月の色のせい?
 ぬくもりのない冷たい肌。それは寒い外気のせい?
 そっと、頬に触れてみる。体を揺すってみる。けれど、目覚める気配は、もはやない。
 もう薄氷色の瞳は開かれない。アンジェリークを映さない。
 眠っているかのように安らかな横顔。でも、もう朝が来ても、目覚めない。

 炎の、サクリアだ。それが、オスカーを奪っていった。

「…………どうして……っ!!」
 死ぬなら、アンジェリークのはずだ。炎のサクリアを受けて。それなのにどうしてオスカーが死ぬのか。
 どうして。
(……サクリアを、自分で、受けたの?)
 アンジェリークは、ふと、その可能性に、思い当たった。
 そうだ。何故、こうして傍にいたのに、自分に炎のサクリアの影響が出なかったのか。自分の持つ女王のサクリアが打ち消しているのだろうなどと、単純に考えていたけれど、違ったのだ。
 炎のサクリアは、アンジェリークに流れ込んではいなかったのだ。
 それは、ふたりの心が通じ合っていなかったからではない。そんなはずはない。ふたりは愛し合っていた。
 それなら、アンジェリークに流れるはずだった炎のサクリアは、一体何処へ行ったのか。
(私の代わりに、自分で炎のサクリアを受けたの?)
 オスカーはアンジェリークの身代わりになったのだ。いや、身代わりという表現は正しくないのかもしれないけれど。オスカーと共にあるためにアンジェリークが受けるはずだった傷を、彼はぜんぶ引き受けたのだ。
 サクリアが生みだされるのを止めることはできない。けれど、その放出を止めることはできる。そうすれば、周りの者にも、心を通い合わせる者にも、流れてゆくことはなかった。
 代わりに、外に出されず、けれど生みだされ続け、身体の内部に溜まったサクリアは、守護聖自身に影響を出す。他の守護聖なら平気だろう。けれど、炎のサクリアは、オスカー自身にだって、刃だ。
 それでも、オスカーはサクリアの放出を止めた。傍にいるアンジェリークを傷つけないために。自分で炎のサクリアを受けた。
「……そんなっ……」
 あれがどれほどの痛みと苦しみを伴うものか、アンジェリークはその身をもって知っている。けれど、彼はそんな気配すら悟らせなかった。あの優しい笑顔の下に、どれほどの苦しみを隠していたのだろう。そして、炎のサクリアは、彼の命さえ奪っていってしまった。
 何故気づかなかったのだろう。もっと早くに気づくべきだった。
 あんなに、傍にいたのに。
 あの優しい人が、アンジェリークが傷つくのに、それでも傍においておくわけなどなかったのに。
 いくらオスカー自身が気づかれないよう隠していたとしても、こうして、オスカーが死んでやっと知るなんて。
「オスカー……」
 でも、気づいたとして何が出来ただろう。どちらかが傷つきながらでなければ、傍にいられなかった。どちらも傷つかないためには離れるしかなかった。
 こんなふうにしか、出逢えなかった。こんなふうにしか、愛しあえなかった。
 翡翠の瞳から、いくつもいくつも涙がこぼれて、オスカーの上に落ちる。けれど涙を拭ってはくれない。なぐさめてはくれない。
 出逢わなければよかったのだろうか。本当の彼に気づかなければよかったのだろうか。そうすれば、よかったのだろうか?
 こんなふうにしか、愛しあえないなら。こんなことになってしまうなら!
「………………オスカー…………!!」
 アンジェリークは泣き続けた。
 ただ、月だけが見ていた。



 手元を照らす灯りひとつだけ付けられた、研究院の図書倉庫で、ルヴァはふとひとの気配に、本から顔を上げた。
 闇から灯りのもとへとぼんやりと人影が浮かび上がる。闇そのもののようなクラヴィスだった。彼が夜歩くことはよくあることだったが、こんな処まで来るのはめずらしかった。
「どうしました、クラヴィス」
「……炎のサクリアが、消えたな」
 ぽつり、と彼は呟いた。
 サクリアを持つ者同士はその力の存在を感知できる。
 そして、今、炎のサクリアが消えた。
 サクリアの交代の場合は、ゆるやかに力が消滅していく。けれど、ロウソクの炎を吹き消すように、力の存在が消えた。それは、サクリアの持ち主の死を意味する。
 おそらくは他の守護聖達もそれに気づき、今ごろ慌てているだろう。
 けれどこの地の守護聖と闇の守護聖だけは、慌てることも取り乱すこともなかった。
「こうなることを、お前は予想していたのではないのか?」
 静かに、クラヴィスは問いかけた。
 ルヴァは彼の視線を避けるように、再び手元の本に目を落とす。
「貴方は、彼をとめるべきだったと思いますか?」
「……この世界を支える者のひとりとしては、とめるべきだったのだろうな」
 らしくもなく、闇の守護聖はジュリアスのようなことを言う。
「個人としては?」
「…………」
 クラヴィスも、炎のサクリアのことを知りながら、そして、この結末を予想しながら、何もせずにいた。その答えは、それだけでもう、わかっているはずだった。
 ルヴァは自嘲するように笑う。
「あるいは、個人としてもとめるべきだったのかもしれませんね」
 オスカーの死によって受けるアンジェリークの哀しみを考えると、そう思う。
 でも、オスカーの孤独を知っていた。だから、彼を本当にとめることができなかった。
 クラヴィスは、そっと何処かへ向けて、サクリアを放出する。手のひらから、星屑のような光が立ち上り、中空へと消えてゆく。
「……オスカーに、やすらぎを……」
 その光を、ルヴァはぼんやりと見つめていた。
 放たれたサクリアは、届くだろうか。オスカーに。可哀相な、炎の守護聖に。
 耳が痛くなりそうなくらい、ひどく、静かな夜だった。



 空は、いっそ泣きたくなるほどに澄みわたっていた。青が深い。陽射しがまぶしすぎて、痛い。
「アンジェ。どうしても行ってしまうの?」
 下界と通じる門の前で、ロザリアはもう一度その言葉を繰り返した。もう、その台詞を何度言ったか知れない。
 炎の守護聖の死後、アンジェリークは試験放棄を願い出た。その結果、ロザリアが女王となることになった。
 ロザリアは、アンジェリークに補佐官になってくれと言った。確かにそうすれば、完全に身分も生活も保証される。何不自由なく暮らしていけるだろう。守護聖達もそれに賛成し、勧めてくれた。
 けれど。
「ごめんね、ロザリア。でも、私、やっぱりここにいるのつらいの」
 想い出が、多すぎた。それがしあわせなものでも優しいものでも、今はまだ、思い出すだけで胸が痛む。
 オスカーが死んで、初めて、年長組以外の守護聖達とロザリアは、炎の守護聖の秘密を知った。何故、オスカーがあんな行動をとっていたのかも。皆、ひどく後悔した。彼を知ろうともしないで嫌っていたことを。もう、すべては遅いのだけれど。
 そして、アンジェリークの哀しみを考えると、彼女を無理にここに引き止めることはできなかった。
「新任の炎の守護聖のこと、よろしくね。どうか、彼が孤独を感じないようにしてあげてね」
 やがて聖地へ召喚されるだろう、新しい炎の守護聖。彼も、自分の持つサクリアに悩み、苦しみ、傷つくだろう。けれど、もうオスカーのような哀しい終わり方はしないように。
「分かっているわ、どうすればいいか、まだ分からないけど、皆で、一緒に頑張っていくわ」
 それに解決策があるのか分からない。今まで、何代も続いてきた中で、いまだ解決策はないのだ。もしかしたら、どうにもならないのかもしれない。けれど、今はどうにかなると信じたかった。
「元気でね、アンジェリーク」
「うん、ロザリアも……これから大変だろうけど、頑張ってね」
 他の見送りに来てくれた守護聖達も励ましてくれる。それにアンジェリークは泣き笑いで応えた。



 そして、淡い金の髪は、門の向こうに消えた。



 のちの歴史書の中に、アンジェリーク・リモージュと言う名は、宇宙を永く繁栄させた女王ロザリアと共に256代目女王候補として試験を受けた人物として残っている。
 歴史書には、試験中、当時の炎の守護聖が急死し、新任の守護聖が選出されたとあるだけで、彼女との関連については一切書かれていない。
 彼女は試験後、補佐官になることもなく下界に戻り、その後の行方を知る者は、いない……。


 To be continued.

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