奇譚(2)


 私は私が望んだ通り、この世界の女王になりました。王冠を戴き、玉座に立ち、この世界の最高位につきました。オスカー様はその私の前にひざまづき、忠誠と献身を誓いました。
 私は女王として、立派にやっていけると思っていました。実際私は、宇宙の移転、そして移転後の不安定な宇宙を支えるという重責を見事にこなしました。
 けれど……いつしか私は、女王としての役目より、他のただひとつのことを考えるようになりました。オスカー様のことです。
 彼は即位式で誓ったとおり、私に尽くしてくれました。守護聖として。
 以前関係があったことなど嘘のように、誠実に忠実に、私を女王として敬い、かつての恋心など微塵も見せずに接してきました。
 また、オスカー様の色恋沙汰の噂も聞こえてきました。時折下界へ降りて遊んでいるとか、新しく来た女官といい雰囲気であるとか……。
 噂が耳にはいるたび、私の心は焼け付くような感情を覚えました。
 嫉妬、でしょうか。
 オスカー様を切り捨てたのは自分なのに、彼の目が他へ向いた途端、そのことに嫉妬するなんて、なんてわがままなのでしょう。なんて勝手なのでしょう。自分でもそう分かっていました。
 けれど、噂を聞くたび、オスカー様が私に守護聖としてしか接しないたび、もういても立ってもいられないような気持ちになったのです。
 とうとうある夜、私は宮殿を抜け出し、闇に紛れてオスカー様の私邸へ向かいました。月のない、暗い夜でした。
 使用人もすでにいない深夜、私を玄関に出迎えたのはオスカー様自身でした。お酒を飲んでいるのか、少し赤い顔をしていました。
 深夜に突然訪れる非常識な客に苛立つように開けた扉の前で、オスカー様は大きく目を見開いて固まってしまいました。それはそうでしょう。女王が、こんな深夜に出歩いているなんて。まさか自分を訪ねてくるなんて。
「……これは幻か? 酒が俺に、幸せな夢を見せてくれているのか?」
 オスカー様は茫然とそうつぶやきました。
 私は自分の耳を疑いながらも、嬉しさが込み上げるのを感じていました。オスカー様は私を『幸せな幻』といいました。私は忘れられてはいなかったのです。
 私はオスカー様の胸に飛び込んですがりついていました。
「違います、幻なんかじゃありません。オスカー様に、会いに来たんです」
 消え入りそうな呟きのその最後は、オスカー様の噛みつくようなくちづけに飲み込まれていました。
 骨がきしみそうなほど強く抱きしめられ、何度も何度も激しくくちづけられました。私が幻ではないと確かめるように、何度も何度も。
「アンジェリーク……アンジェリーク……!!」
 今までにないくらい激しく、そして甘いくちづけでした。
 もう女王候補の頃のように、遊びでは済されないと分かっていました。私が女王になってしまった今、それはまぎれもない、そして決して許されない罪でした。
 けれどくちづけだけでもう何も考えられなくなって、ふたりでもつれるように寝室へとなだれこみました。綺麗に整えられたシーツの上に倒れ込んで、そこから先は、もうはっきりとは思い出せないくらい、だたひたすらに抱き合いました。


 嵐のような激しい一時が過ぎて、私達はベッドの上に寝ころんだまま何も言わず、ただお互いの顔を見つめていました。時折それが幻ではないと確かめるように頬に触れたり髪に触れたりして時を過ごしました。
 自分達が何をしているか、分かっていました。それがどれほど罪なことかも。
 ほんの少しだけ、後悔もしていました。……何に対して後悔していたんでしょう。罪を犯したことでしょうか、オスカー様に罪を犯させたことでしょうか、それとも、女王になってしまったことでしょうか。
 けれど、傍にいるオスカー様のぬくもりはとても暖かくて、見つめる瞳は優しくて、私はもう後悔なんてどうでもよくなって、それ以上考えることはやめました。
 何故でしょう。今まで数えきれないくらい何度も何度も、こうしてぬくもりを感じてきたのに、見つめられてきたのに、今更こんな気持ちになるなんて。
 もしも、これが最後の育成を頼む前だったなら…………。
 ふと思い付いて、私はオスカー様に尋ねてみました。
「オスカー様……、どうして、絶望がお好きなんですか?」
 オスカー様の薄氷色の瞳が少し細められて、くちびるの端が少し持ち上げられられました。笑い顔を作ったつもりなのでしょうが、それはむしろ泣き顔のように見えました。
「……絶望は、すべてを覆ってくれる。もう夢を見ることも、何かを望むこともないほど。絶望に包まれてしまえば、もう何にも苦しくはない」
 私は理解できずに首を傾げました。
「希望にすがっては、いけないんですか?」
 腕が伸ばされて、指が私の頬に触れました。そのまま輪郭を確かめるように、慈しむように、何度も頬や唇をたどりました。
「すがってあがいて頑張って、それが叶うならいいだろう。でも希望は、ただ輝くだけのものもある。星のように、ただ遥か遠くで輝くだけで、どんなにあがいても努力しても手に入らない。いっそ輝かなければ諦めるのに、かすかな光だけは届けてくる。だから腕を伸ばしたくなる。決して届かないのに、手に入れることは出来ないのに。……そんな希望なら、ないほうがいい」
「どうして……どうしてそんな哀しいことを、言うんですか? 強さを司る、炎の守護聖である、オスカー様が……」
 それは、最後の育成を頼みに行ったときも思ったことでした。私の知るオスカー様は、いつも自信に満ちあふれ、明るく快活で、……絶望なんて縁遠いように思えました。
 それなのに、何故、こんな哀しいことを言うのでしょう。
 オスカー様は何かを吐き出すように、少しだけかすれた声で話しはじめました。
「時の流れの違うこの地に連れてこられたとき、俺は18だった。もう家族にも友人にも会えず、自分の行く末も勝手に決められて、それを拒む権利もないと知っていた。たとえば鋼の守護聖のように嫌だと叫ぶことが出来たなら、たとえば緑の守護聖のようにこの地に来る意味をはっきり知らずにいたなら、あるいは夢の守護聖のように、あきらめというものを知っていたなら。きっと、……あんなに苦しくはなかっただろう。けれど、俺はそんなに子供でもなく、そして大人でもなかった。だから守護聖になるその意味もつらさも全部理解していながら、あきらめることも、嫌だと泣き叫ぶこともできずに、……ただ無言で聖地の門をくぐった」
 薄氷色の瞳が遠くを見つめていました。ずっと、ずっと遠くを。おそらく、すべてを捨てざるを得なかった、その遠い日を。
「人は俺達を敬い、崇拝する。けれどそれになんの意味がある? 閉ざされた地で、すべてを捨てて見知らぬその他大勢のために尽くし、力が尽きたらそれで終わり。楽園と呼ばれるこの地で、ただその日を待つだけ。……一体なんの意味がある?!」
 私は吐き出されるオスカー様の言葉に、現実的な痛みを感じていました。
 女王候補に選ばれたとき、私には選択の余地がありました。そしてまた、もうひとりロザリアという候補がいましたから、女王にならないこともできました。私にはいくらでも選ぶ道がありました。
 けれどオスカー様には、他にどんな道もなかったのです。
 そうするしか、他には、何もなかったのです。
「嫌だと叫ぶこともあきらめることも出来ずに、すべてを失くして、そして残されたのは絶望だけだった。けれどいっそ絶望は優しかった。それに身を任せてしまえば、もう何にも苦しくはない。ただ過ぎゆく時間の中で、あきらめよりももっと深く、ゆりかごのように俺を包んでくれる。もう夢を見ることもないほど、すべてを覆ってくれる」
 優しく優しく、何度も私の唇や頬をたどる指が、かすかに震えているような気がしました。あるいは、震えていたのは私の方かもしれません。
「だから、俺は絶望が好きだ。希望なんていらない。もう二度と、希望なんて持たない。……そう思っていた。………………君を、愛してしまうまでは」
「……………………」
 私は返す言葉を見失って、ただ頬に触れてくるその指を包み込むように両手で握り締めました。
 なんて哀しい人なのだろう、と思いました。
 なんて、なんて哀しい人なのでしょう。
 ……愛している……と思いました。そう思ったのは、あるいは自覚したのは、初めてでした。
 それがもう遅いことは分かっていました。
 女王候補の頃ならともかく、女王となってしまった今、それは罪にしかならないと。
 分かっていて……、それでも自覚してしまった想いをもう止めることは出来ませんでした。
 私は自分からオスカー様にくちづけ、そして自分から身体を重ねていきました。


 それから私達は何度も何度も密会を重ね、想いを重ね、夜を重ねました。
 それが見つかり、引き離されるまで、ずっと。

 
 To be continued.

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