いばらの涙 -2-


 つややかに磨かれた壁と床に囲まれた広く長い廊下は、そこを一人で歩いていると、まるで寒いような錯覚を起こさせる。しかし、あたたかな聖地の、しかも最も女王の力の恩恵を受けているはずの宮殿内において、そんなことはあるわけはない。ただ、あまりの静けさと、そこにただひとつ響く自分の硬い足音が、そう錯覚させるだけだ。
 宮殿の奥に、女王が生活する女王宮が位置している。女王の私室があり、女王が生活しているそこは、普通の人間がそうやすやすと足を踏み入れられる場所ではない。そこに仕える侍女達も、選びに選び抜かれた一握りの者たちだけだ。守護聖でさえ、用なくそこに赴くことは叶わない。
 けれど、今、オスカーはその場所をひとり堂々と歩いていた。
 それは、彼自身がこの場所の警備責任者だということもあるし、女王の恋人である彼がこの場所に来ることは暗黙の了解となっていたからだ。
 女王の私室が近づくにつれ、オスカーの歩みがだんだんと速くなる。ともすれば駆け出してしまいそうだった。一刻でも早く、愛しい少女に逢いたくて。
 公式の場以外で逢うのは、ひさしぶりだった。即位してからしばらくは、式典や、移行した宇宙の調査などのために、お互い忙しく時間が取れずにいた。謁見などのときには顔を見てはいたが、私的な言葉ひとつも交わせずにいた。
 今日はひさしぶりに、最愛の少女と、ただの恋人同士として一夜を過ごせるのだ。期待と興奮に、足が速くなるのも無理なからぬことだった。
(アンジェリーク)
 もうすぐ彼女に会えるのだと思うだけで、鼓動が早まった。まるで初恋をしている少年のようだった。
 かつてプレイボーイと呼ばれたオスカーは、夜に女性の部屋に忍んでゆくことも多々あった。けれどそのどれも、こんなふうに足を速めるようなことは一度もなかった。たとえ忍んでいった先で相手が不在だったとしても、それなら別の相手を、と思うような程度だった。
 こんな気持ちにさせられるのは、彼女がはじめてだった。そしておそらくはこれからも、彼女以外にはありえないだろう。
(愛している、アンジェリーク)
 それは、何ひとつ偽りないオスカーの気持ちだった。
 それはアンジェリークがこうして女王になっても決して変わらない。これからも、想いが深まることはあっても、薄れたり消えたりするようなことは、決してないだろう。彼女は、オスカーが見つけた、ただひとりの運命の相手だった。
 長い廊下を歩きつづけて、その奥にある女王に私室にやっとたどりつく。
 辿り着いた女王の私室の扉を、軽くノックする。
「アンジェリーク。俺だ」
「オスカー!!」
 扉を開けた途端に、オスカーの胸にちいさなぬくもりが飛び込んでくる。オスカーはそれを腕の中に抱きとめる。
 オスカーにとってはうれしい歓迎のはずだが、様子が違うことはすぐにわかった。
「オスカー……、オスカー…………」
 アンジェリークは泣いていた。ちいさな肩を震わせて、精一杯オスカーにしがみついて泣いていた。
 無力なように見えても、前向きで明るい彼女が、こんなふうに泣きながら震えるような姿など、見たことがなかった。よほどのことがあったとしか思えなかった。
「どうしたんだ、アンジェリーク」
 尋ねても、アンジェリークはただ震えているばかりだ。ちいさくしゃくりあげるばかりで、まともな言葉にならない。
 とりあえず落ち着かせようと、自分にしがみついたままのアンジェリークをそのままそっと抱き上げて、ベッドのまで運んでゆく。ベッドのうえにそっと座らせて、彼女が落ち着くようにと、何度も何度もその髪をなでてやる。
 彼女がすこし落ち着いたころを見計らって、オスカーはもういちど尋ねた。
「どうしたんだ、アンジェリーク。なにがあった?」
「……オスカー。私、怖いの」
 オスカーにすがるようにアンジェリークは彼を見上げた。泣いて赤く腫れた瞳が、不安そうに揺れていた。
「私が、私でなくなってしまう気がするの」
 自分の身体を抱きしめるように、アンジェリークは身体をちいさくして震えていた。まるで、嵐の野にほおりだされてしまった、哀れな子兎のように。
(可哀想に。やっぱり、女王になって、不安なんだな)
 オスカーはそれを、女王という責務に対する不安だろうと思った。
 女王に選ばれたとはいっても、彼女はまだ十代の少女でしかないのだ。世界をその肩に背負うという重責に、脅えるのは仕方のないことだろう。みんなの前では気丈に振舞っていても、こうしてひとりの夜には、不安に襲われてしまうのだろう。
 同じような想いは、オスカーにも経験がある。彼も守護聖になったばかりのころは、サクリアという強大な力や、自分に与えられた守護聖という肩書きに、不安を覚え眠れぬ日もあった。
 また、女王になったことで、恋人であるオスカーや、そのほかのまわりの人間との関係が変わってしまうことを不安に思う気持ち出てきたのかもしれない。
「大丈夫だアンジェリーク。女王になったって、君は君だ。何も変わらない」
 オスカーはアンジェリークを抱き寄せて、その腕の中に閉じ込めた。ちいさな身体はオスカーの腕の中にすっぽりと収まってしまう。力を込めて抱きしめたら壊れてしまいそうだ。
 こんな、こんなちいさな少女に、世界という重責がのしかかっているのだ。不安になるのも仕方ないだろう。
「女王になっても、君をずっと愛していると誓っただろう? それとも、俺が信じられないか?」
「そんなことないわ。あなたを信じてる。でも、でもね…………」
 この不安をどう伝えればいいのか分からない、というように、アンジェリークはちいさく首を振った。やわらかにうねる金の髪が、その不安を表すように、不安定に不規則に揺れる。
 オスカーはそれをなだめるように、わずかに抱きしめる腕に力を込めて、金の髪をそっとなでた。
 自分の感じる不安を、恋人に正しく伝えられていないことを、アンジェリークは分かっていた。おそらくオスカーは、今アンジェリークが感じている不安の10分の1も分かってはいないのだろう。
 この不安を、うまく伝えられない。たしかに『女王であること』が不安の原因だ。だが、自分が自分でなくなるなんて想うのは『女王だから』ではない。──いや、『女王だから』なのかもしれない。ああ、自分ですら、よく分からないのだ。
 アンジェリークは、言葉で伝えることをあきらめるように、首を振るのをやめた。もともと、感じる不安も、ひどく漠然としたものなのだ。自分でも把握しきれていない感情を、正しく言葉にして伝えるなんて、無理だった。
「オスカー。もしも…………」
 それでも、このとめられない不安をどうにかしたくて、アンジェリークはオスカーにすがった。
「もし私が変わってしまっても、私のこと、ずっと好きでいてくれる? 私のこと、愛してくれる?」
「ああ。約束する。俺は君をずっと愛しつづける」
 誓うように、オスカーはアンジェリークにくちづけた。
 熱を帯びてゆくくちづけと、体に触れてくる手の熱さに、アンジェリークはそれ以上、何も言えなかった。
(私が変わってしまっても、私を愛してくれる?)
 熱くなってゆく体とは裏腹に、アンジェリークは何処か覚めた頭で、想っていた。
(私が私でなくなってしまっても?)



 オスカーは書類を持ってルヴァの執務室へ訪れた。作成した新宇宙に関する書類をチェックしてもらうためだった。
 新女王になって、いちばん頼りにされるのは、この地の守護聖だった。
 新しい体制でまだ戸惑うことも多いなかで、その膨大な知識と守護聖としての長年の経験から、正しいアドバイスをしてくれるルヴァを頼るものは多かった。オスカーもそのひとりだった。
 書類のチェックをしながら、何気ない調子でルヴァはオスカーに尋ねてきた。
「あーオスカー。アンジェリークの様子は、どうですか〜?」
 ルヴァも謁見などではアンジェリークに逢っているのだから、それは、プライベートに関することだとすぐに分かった。
「……やはり、すこし不安になっているようです」
「まあそうでしょうね〜。やはり世界すべてを支えるということは、大変な重責ですからね。オスカー、あなたも、守護聖に就いたと当初は、同じような想いをしたでしょう?」
「ええ。分かります」
 オスカーが炎の守護聖になったときも、確かにそのプレッシャーを感じた。女王のように世界すべてを統べるとまでいかなくても、守護聖として力の使い方を誤まれば、世界が滅びる可能性さえあるのだ。そんな力をいきなり与えられ、戸惑ったのは、オスカーもよく覚えている。
 アンジェリークもあのときの自分と同じように戸惑っているのだということは分かる。手に入れた、世界を左右するほどの力に脅えるのも分かる。
 けれど……。
『私が、私でなくなってしまう気がするの』
 泣きながら、そう訴えてきた彼女を思い出す。
 オスカーも、『守護聖としての自分』に戸惑ったことはある。けれど、『自分でなくなってしまう』とまでは思わなかった。
「でも……」
「? なんですか?」
「アンジェリークが、ひどく脅えているんです」
 あんなに脅えた彼女を見たことなどなかった。
「自分が自分でなくなるような気がする、と」
「…………」
 その言葉に、ルヴァが口元に手をあてて、何かを考えるようなしぐさをする。
「……どうか、しましたか?」
「あ、いいえ……どうした、というわけではないんですが、……かつて、前女王が即位したばかりのころ、そのようなことを言っていると、ディアに相談されたことがあるのを思い出しまして……」
「前女王陛下が?」
 その言葉にオスカーは驚きを隠せない。それどころか信じられずに、疑うようなまなざしさえルヴァに向けてしまう。オスカーの知る225代目女王は、凛々しく神々しく、そんな弱音を吐くようには思えなかった。
 そんなオスカーの考えを察して、ルヴァがちいさく笑う。
「彼女だって、女王になったときは、まだ十代でしたからね。誰だって、最初から完璧な女王陛下になることは無理ですよ」
 ルヴァはそのころのことを思い出す。
 225代目女王となった彼女は、女王候補のころは明るくおてんばな少女だった。だから彼女が女王になったとき、本当に大丈夫なのかとルヴァは内心心配したものだった。補佐官となったディアのほうが、たしかにサクリアは劣るとはいえ、女王にふさわしいのではないかとさえ思っていた。
 だが、女王に就いてはじめのころは、そんなふうにディアが相談にくるようなこともあったが、いつからだろう、彼女はいつのまにか神々しい女王陛下になっていた。
 あれほどおてんばだった彼女が、物静かになり、女王としての気品や気高さを兼ね備えるようになった。発言ひとつとっても、まるで別人のようだった。
 それは、彼女に女王としての自覚や態度が身についたのだろうと、ジュリアスとともに喜んでいたのだが……。
「前女王もそうだったんです。そのプレッシャーを乗り越えてこそ、真の女王になれるのですよ。そのためにも、我々がしっかり支えてあげなくてはね」
 いいながら、ルヴァは自分の言葉にどこか違和感を感じていた。
 あれは本当に、彼女に女王としての自覚がついたからの変貌だったのだろうか。
 いつからか前女王は笑わなくなった。感情を無くしてしまったかのようになった。謁見の間以外で、ディア以外の人間に会うこともなくなった。
 まるで、人が変わってしまったかのように。
『ルヴァ様。アンジェリークが、怖がって泣くんです。私が私でなくなってゆくような気がする、と』
 心配げな顔で助言を求めてきたディアを思い出す。
 あのときも、今と同じようなアドバイスをした。けれど、本当にそれでよかったのだろうか。
 心の中に澱のように溜まる何かに、けれどルヴァはそれをそれ以上深く考えることはなかった。
 新宇宙に移行して、やるべき仕事は山のようにあった。遠い追憶に想いをはせて、ゆっくり感傷に浸っている暇などないのだ。
「アンジェリークをしっかり支えてあげてくださいね」
 チェックし終えた書類をオスカーに返しながら、ルヴァは言った。
「はい。よいアドバイスありがとうございます、ルヴァ様」
 オスカーも快活に答える。
 ルヴァの話により、アンジェリークの不安はそう心配することでもないと思ったのだ。なにしろあの前女王でさえ、そんなふうに不安になったというのだ。特別なことではないのだ。しばらくすれば、アンジェリークも女王の職務に慣れて、そんな不安も薄らいでゆくだろう。
 オスカーもルヴァも、簡単にそう考えていた。
 だからそれに誰も気付かなかった。
 本当に、彼女が彼女でなくなってしまうまで。


 To be continued.

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