霧に消える(1)
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霧雨が降っていた。
人のまばらな街に音もなく降りしきる細かい雨粒は本当に霧のようで、傘をさしていても服や髪をしっとりと濡らしていく。
セイランは傘を持っていない方の手で無造作に髪をかきあげた。じめついた空気が肌に貼り付いているようで、不快感がまとわりついて離れない。
……違う、不快なのは、昔を思い出すからだ。
この霧雨が、忘れてしまいたい遠い昔を思い出させるからだ。
深い霧で覆われた、あの星。
親のない子供に、世間は冷たかった。
夜露をしのぐ家さえ持たず、道端で震えていた。
濃い霧は服や髪を濡らして、どんどん体温を奪ってゆく。
凍えて、助けを呼ぶことさえ出来ない。
……助けを呼ぶ相手も、いなかったけれど。
水底に封印したはずの過去が、浮かび上がってきて水面を揺らす。
今のセイランは、霧に凍えることはない。芸術の才能を認められて、絵や音楽で楽に食べていけるほどになった。
霧の惑星を出て、気ままに旅をしながらいろいろな処にアトリエを構えて、自分の好きなものを描き、自分の好きな曲を奏でる。そうやって生きていくことを許されるようになった。
だから、もう霧に脅えることはない……はずなのに。
それでも心に刻み付けられた傷が、時折また痛みだそうとする。
ふと、灰色の街の中に見慣れない色を見つけて、セイランは足を止めた。
霧雨のヴェールを通してもなお、鮮やかに目に飛び込む金と赤の色彩。それは人の髪だった。
こんな雨には不似合いな陽射しを寄せ集めたかのような金は少女のもので、燃え盛る炎のような赤は青年のものだった。
雨を避けるように閉じられた店先のひさしの下にいるふたりの様子がおかしいことはすぐに分かった。青年は熱があるのかぐったりと少女の肩にもたれていて、少女はそれを支えようと必死になっている。
もともと数少ない通行人達は、物珍しそうに視線を投げることはあっても、誰も手を差し伸べようとはしなかった。こんな田舎町で、見知らぬよそ者は好意の対象にはなりえないのだ。特にこんな、訳あり風の人間は。
だれかたすけて。
凍えて、声を出すことも出来なかった。
声が出せたなら、誰か助けてくれただろうか?
だれかたすけて。
道端に転がる小石と道端にうずくまる自分。
一体どれほどの違いがあっただろう?
セイランはわざと水音を立てて歩いた。
その音に少女が顔をあげた。そこにいたセイランと目が合う。鮮やかな翡翠の瞳。歳はセイランよりわずかに上だろうか?
「すみません、このあたりに宿屋はありませんか?」
少女がセイランに尋ねた。
「……ないよ。ここは観光地でもないからね。少なくとももっと市街地まで行かないとね」
セイランの答えに少女の顔が途端にくもる。
具合の悪い青年をこの雨の中には置いておけない。何処かで休ませたいけれど、とても少女ひとりで青年を市街地までは運べそうになかった。
もしそのとき、たとえ一瞬でも少女がすがるような目をしたなら、助けを求めるような目をしたなら、セイランはふたりを見捨てて、かまわずに歩きだしていただろう。
けれど、その少女の目は…………。
「……僕の家に、来る?」
「えっ」
セイランの言葉に、少女が驚いたように声をあげた。
「狭いし宿屋のような設備もないけど、ベッドくらいは貸せるし市街地よりは近いよ」
「でも……」
少女は一瞬ためらい、けれど迷っている暇はなかった。病人を抱えた今はこの人に頼るしかない。
「すみません、お願いします」
少女は頭を下げた。それにつられて薄く濡れた金の髪が揺れた。
ふらつく青年を、セイランと少女で両脇から支えて何とか歩かせて家路を急いだ。
家に着くと、少女とふたりがかりで霧雨で濡れた上着を脱がせ、軽く髪を拭いて青年をベッドに寝かせた。氷嚢も作って額に載せてやる。
もしもセイランをよく知る人物がこの光景を見たら、目をむいて驚くだろう。いや、その前に、偽物だと疑うだろう。それくらい、セイランは見知らぬ珍客ふたりのためにかいがいしく親切に働いた。
「本当にありがとうございました」
青年を寝かせ一段落したあと、差し出されたコーヒーを前に少女はセイランに頭を下げた。
「別にお礼を言われることじゃないよ」
自分の分のコーヒーを飲みながら、セイランはそっけなく言った。
「君は人に優しくされることを恐れてる。それが分かったからわざと親切にしたんだ。ただの意地悪だよ」
そう、あの瞳。
あのとき、病人を抱えて雨の中どうすることもできず立ち往生しているというのに、少女の瞳は誰の手助けも求めていなかった。むしろ、それを恐れているように見えた。
今も脅えている。セイランが親切にすればするだけ、少女は脅えを募らせている。
だからそれに興味を惹かれて、わざと手を差し伸べた。
「……でも、そうだとしても助かりました。あのひとを、あのまま雨の中には置いておけなかったから」
優しくしたのは意地悪だといわれて、少し戸惑いながら、それでも少女はもう一度頭を下げた。
「君はなんで人に優しくされるのが怖いの?」
少女がそれに答えたくないことくらい最初から知っていた。
「宿代がわりに話してよ」
これはまるで脅しだな、と思う。そう言われて、少女が答えない訳にはいかないのだから。
しばらくの沈黙のあと、少女は小さな声で言った。
「私は……私達は罪人なんです」
翡翠の瞳が伏せられて、遠くを見つめる。
「だから、優しくされる資格なんてないし、優しくされると、胸が痛む。こんなに優しい人達を見捨てて、傷つけようとしている。それを思い知らされて、たまらなくなる。……だから」
「だから、優しさなんていらない?」
皮肉げにくちびるを歪ませて、少女を見下すように見つめた。
「そんなことが言えるのは君が今ある幸せで満足してるからだろう。誰だか知らないけど、一緒にいたあの赤い髪の男に優しくしてもらえればそれで十分だから、満足だから、だからそんなことが言えるんだ」
どうして誰も助けてくれないの?
気まぐれでも、暇潰しでもいいから。
誰かお願い。
優しさが、欲しい。
これは八当たりだ。そんなことはセイランだって分かっていた。
ただひたすらに優しさを求めていた自分。認めたくもないけれど、きっと、今も求めている。
だから、優しさなんていらないというこの少女が、たまらなく憎くて……たまらなくうらやましい。
「そうですね。その通りです。私は……あの人の優しさがあるから、だから生きていける」
そしてふたりの間に、重い沈黙が落ちた。
「……君ももう休めば? そこのソファを使えばいい。毛布は寝室の方にあるのを勝手に使えばいい。僕は、アトリエの方で休むから」
「ありがとうございます、本当に何から何まで」
「言っただろう、君に優しくするのは意地悪だって」
言い捨てて、セイランはアトリエの中に逃げ込むように入った。
扉に背を預けて、大きく溜息をつく。
この霧雨のせいだ。妙に感傷的になっている。もう全部忘れたつもりだったのに。
…………この、霧雨のせいだ……。
まだ夜も明けきらない薄闇の中で、机に突っ伏して寝ているセイランはかすかな物音で目を覚ました。けれどそのまま、寝ている振りを続ける。
「もう少し休んだほうがいいんじゃない?」
少女がセイランを起こさぬようにと気遣って、小さな声で話していた。
「平気だ。それに、この星には少し長くいすぎた。これ以上ここにいたら、この人に迷惑をかけるだけだからな」
聞き慣れない声は、あの赤い髪の青年のものだろう。
「そうね……私はまだサクリアを持っているから、ひとつの処に長くいると、すぐ見つけられてしまう」
そっと、セイランの処へ近づいてくる気配。
「ちゃんとお礼言いたかったけど……」
目を閉じているセイランの髪をそっと撫でる。まるで母親が子供を寝かしつけるときのように。
「行こう」
青年にうながされて、少し名残惜しげに、少女の手が離れた。
ドアの閉じる音がして、ふたりの足音が少し遠ざかってからセイランは机から顔を上げた。
テーブルの上には、いくらかのお金と簡単なお礼を書いたメモ。
セイランは窓辺に寄った。
家の前を続く道の遥か遠くに、小さく寄り添う金と赤の色彩が見えた。
「…………」
セイランはただ無言で、その影が見えなくなるまで見つめていた。
その次の日だった。
セイランのもとに、見慣れない一団が訪れた。
似たような服を着た数人と、明らかにそれらとは異なる身分と思われる青年がひとり。
彼らは一応丁寧にセイランに突然訪ねた断わりと挨拶を述べたあと、本題に入った。
「このあたりで、金の髪の少女と、赤い髪の青年の二人連れを見かけませんでしたか? ふたりの特徴は……」
詳しい特徴など聞かなくても、探しているのはすぐにあのふたりのことだと分かった。
そんなふたりなど知らないと、嘘をつくことも出来た。
だけど。
ふたりの罪が何かなんて知らなかった。そんなもの、どうでもよかった。
ただ……羨ましかった。嫉ましかった。
優しさなんていらないと言える、あの少女が。
だから。
「いましたよ、そのふたり。一昨日うちに泊めました。昨日の朝早く出ていきました。この前の道をまっすぐに向かっていったから、この先にある港に向かったんじゃないですか?」
……ただ、羨ましくて、嫉ましくて。
だから、ほんの少しの意地悪のつもりだった。
今ではもう、言い訳にもならないけど。
…………本当に、僕はただ、それだけのつもりだったんだ…………。
To be continued.
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