霧に消える(4)


 セイランはふらふらと地の守護聖の執務室を後にした。
 今自分が倒れずにまっすぐ歩いているのが不思議だ。こんなにも、心が重くて息苦しいのは何故だろう。
 彼女が女王陛下だったから? 自分のせいで、あのふたりが捕まったから?
 ……違う。あの、目のせいだ。
 謁見の前の、守護聖達の目。
 そして、さっきの地の守護聖の目。
 哀れみと、嫌悪と、戸惑いと、拒絶と。それらの目で自分をみつめていた。


     道端にたたずんでいた。
     行く場所も帰る場所もなくて。
     冷えてゆく夜が過ぎるのをじっと待つだけ。
     道を行く人々は、ただ視線だけを投げ掛ける。
     哀れな家なき子に。
     哀れみと、嫌悪と、戸惑いと、拒絶を込めて。


「おい」
 ぼんやりしていて、それが自分に投げ掛けられた声だと気づかなかった。
「おい、……お前!」
 肩に手を置かれて、無理矢理振り向かされ、やっと呼ばれていたのが自分だと気づく。
 そこにいたのは、鋼の守護聖。その後ろには風の守護聖と緑の守護聖が、相変らずセイランを睨みながら立っていた。
「……何か?」
 重い心に関係なく、自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
 いつのまにか身に付いた自己防御手段。相手に冷たく接することで、自分を守ってる。冷たくされることに傷つかないように。
「……お前のせいで、二人が捕まったってのは、本当か?」
 こわ張った、鋼の守護聖の声。血のように赤い瞳が、戸惑って揺れている。
「それを聞いて、どうするんです?」
 その言葉にかっとなったように、ランディはゼフェルの後ろから走り出た。
「ランディ!」
 ゼフェルとマルセルの制止の声は届かなかった。ランディはセイランに掴みかかると思いっきり殴り付けた。
 鈍い嫌な音がしてセイランは後方に吹っ飛んだ。壁に背を打ち付け、その場に崩れ落ちる。
「どうして、どうしてふたりのこと、逃がしてあげなかったんだよ!!」
 そう叫んでいるランディ自身も、それが理不仁であることはよく分かっていた。
 セイランのしたことで結果的に宇宙は救われた。第一、ふたりが何者か知らなかったセイランが、ふたりの行方を尋ねられてそれを答えたのは自然なこととも言える。
 今、ランディがセイランを責めているのは、全くのお角違いだ。
 でも、責めずにはいられなかった。
「君さえいなけりゃ、ふたりは逃げられたのに、幸せに暮らせたのに!」
 アンジェリークが好きだった。オスカーを尊敬し、慕っていた。だから、ふたりには幸せになって欲しかった。それが許されないことは分かっているけれど。
 こいつのせいでふたりは引き離され、アンジェリークは無理矢理玉座に立たされ、オスカーは命こそ取られなかったものの、今何処でどんな暮らしを強いられているのかさえ分からない。
 それなのに大切なふたりの幸せを壊したセイランが、ここでのうのうと生きていることがどうしても許せない。
 セイランはゆっくり顔を上げると周りにいる人達を見回した。騒ぎを聞き付けて、たくさんの人間が集まってきていた。
 ……皆が遠巻きに見てる。
 ランディに殴られ、床に転がり壁にもたれるセイランを、皆が遠巻きに見てる。
 哀れみを込めた目で。嫌悪を込めた目で。侮蔑を込めた目で。
 手を差し伸べる者は、誰もいない。
 本当に、昔のようだ。


     空腹に耐えかねてパンを盗んだ。
     すぐに捕まって、力任せに殴られた。
     血を流しながら転がる自分を、皆遠巻きに見ていた。
     憐れみと、憎悪と、好奇と、侮蔑の瞳で。
     手を差し伸べてくれる人は、誰もいなかった。


 あれからかなりの時が経ち、変わったと思った。自分も、そして周りの状況も。
 けれど、何ひとつ変わっていない。
 なにひとつ。
 皆が自分を見つめるその蔑むような視線も。ひとりきりであることも。誰も、手を差し伸べてはくれないことも……。
「やめて」
 澄んだ、はっきりとした声が廊下に響いた。嫌な緊張をはらんだ静寂を打ち破る。
 皆の視線が声の主に集中する。補佐官と光の守護聖に付き添われながらこちらへ向かってくる、桜色の衣装を纒ったそのひとは……。
「陛下!」
 誰かが驚きの声を上げた。それが誰だったか、あるいは複数だったか、セイランには分からない。
 その少女ががゆっくりとこちらに近づいてくるのを、セイランはぼんやりと見つめていた。
 アンジェリークは床に座り込んでいるセイランに近づくと、目線を合わせるように屈んだ。
「……大丈夫?」
 差し伸べられる、手。
 幻を見つめるように、セイランはそれを見つめた。


     誰か、手を差し伸べて。
     誰でもいいから。


 今その手は、間違いなくセイランに差し出されている。セイランが望んだ通りに。
 ずっと、ずっと、願っていた。誰かに手を差し伸べて欲しかった。
 心臓が痛いくらい速くなっているのが分かる。
 ずっと、差し伸べられる手を待っていた、望んでいた。
 でも。
 どうしてそれが君なの?
 どうして、僕が幸せを潰した君なの?
 どうして君は僕に手を差し伸べてくれるの?
「……セイラン」
 少しだけ戸惑ったように、けれど優しく名前を呼ばれる。そこには哀れみも憎しみもなくて、ただ優しさと暖かさだけが込められている。
「……っ、…………」
 目頭が痛いほど熱くなって、涙が溢れだした。
 いっそ責めてくれたなら強がることも出来た。自分は悪くないと、いつものように皮肉を込めて冷たく言い返すことも出来た。
 でも、差し伸べられた手に、与えられた優しさに、逆に押し潰されそうになる。
 思わぬ大事に発展してしまった悪戯の言い訳をする小さな子供のように、セイランは頭を振った。蒼い髪が視界をかすめる。
 差し伸べられたその手が、次の瞬間セイランを拒絶して引っ込められてしまうことが怖くて、セイランはすがるように言っていた。
「…………そんなつもりじゃなかったっ、僕は……僕はただ……」
 大理石の床を握り締めるように爪を立てた。いくつも涙が落ちて、床に弾ける。
 こんなこと、言い訳にもならない。知っているけれど、分かっているけれど。
「僕は……ただ……君が、うらやましくて…………」
 言葉が続かない。鳴咽に、咽が詰まる。
 暖かな手がセイランの髪をそっと撫でた。
 セイランはのろのろと涙にまみれた顔を上げた。
 少女は微笑んでいた。その微笑みが、あんまり優しいから、暖かいから。
「いいのよ。貴方は何にも悪くない」
「…………っ」
 声を押し殺すことも出来ず、みっともないくらいに泣き続けた。他人の視線など構っている余裕もなかった。
 初めて差し伸べられた暖かな手。
 ずっと願っていた、望んでいた。


 ずっと、のぞんでいた……。


 To be continued.

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