霧に消える(6)


 女王候補と感性の教官が、共に庭園や森の湖を歩く姿が見られるようになったのは、試験も中盤に差しかかったころだった。共にあるのは、時には茶の髪の女王候補アンジェリークであり、もう一人の女王候補レイチェルであった。
 二人の女王候補は、今では新宇宙の女王の座を巡るライバルというより、感性の教官セイランを巡る恋敵となり、宇宙の育成はセイランの気を引くための手段となっていた。
 セイランは宇宙の育成がより進んでいるほうにより心を砕き、滅多に見せない華のような笑顔を見せた。いつもはきつめの皮肉しか言わないあのなめらかな声が、彼女達のために詩を紡いだり、切なくなるほどの柔らかな唄を歌うことさえあった。
 少女達はそれを得たいがために、懸命に学習や育成に励むようになった。それによって女王候補達の育成率と女王の資質は格段に上がっていった。



 日の曜日、セイランは女王候補の一人レイチェルと過ごし、夕方彼女を寮まで送っていった。
 レイチェルの部屋の前まで来たとき、ちょうど茶の髪の女王候補アンジェリークと彼女を送ってきたのだろう夢の守護聖とはちあわせをした。
「あ、セイラン様……」
 他の男と一緒にいる処をセイランに見られてしまい、しまったというような顔を茶の髪の少女はした。
「あ、アンジェリーク。アンタ、オリヴィエ様とデートだったんだ。よかったネ」
 レイチェルは、わざとセイランに腕を絡めるようにしながら言った。
「そんな……」
 本当はアンジェリークもセイランを誘いに行ったのだ。けれど一足早くレイチェルの方がセイランを訪れて約束を取付けてしまった。だから仕方なく、夢の守護聖と過ごしたのだ。それを、セイランの前でこんなふうにオリヴィエに気があるように言われてしまっては困る。
 けれどオリヴィエもいる手前、それを大声で否定もできず、アンジェリークはレイチェルに恨みがましい視線を向けた。それに対してレイチェルは、勝ち誇ったような挑むような視線を返す。
「セイラン様、アタシの部屋でお茶飲んでいきませんか?」
 わざと鼻にかかるような甘えた声を出して、レイチェルはセイランの腕を引っ張った。
 一瞬、セイランの美貌が歪む。まるで、薄汚いものでも見るかのように。
 けれどそれは本当にほんの一瞬のことで、少女達はそれに気づかない。それに気づいたのは、聰い夢の守護聖だけだった。
「いや、今日は遠慮するよ。明日は月の曜日、また育成や学習が始まる。その予習もあるだろう? それを邪魔したくはないからね」
「そうですか……」
 残念そうに、けれど仕方なしにレイチェルは腕を離した。
 セイランは、ちら、と、自分を見つめたままでいる茶の髪の女王候補にも視線を向ける。少女はすがるように、けれどレイチェルの誘いを断ったことに何処か安堵したような顔でセイランを見つめていた。
 それを見て取ったセイランは、二人に柔らかな笑顔を向けてみせる。
「もし育成率が悪くなったりしたら、デートに誘いにくくなるからね。それじゃあ、僕はもう帰るよ。じゃあね、レイチェル。アンジェリークも」
 二人が笑顔にみとれて頬を染めながらうなずいた。
 セイランは用はすんだとばかりに、さっさと寮を後にする。
 これできっと、二人の女王候補は我先にと、寝る間も惜しんで学習や、育成に関するデータ調査に励むだろう。
 セイランにとってはすべて計算済みの行動だった。
 寮の出口付近で、茶の髪の女王候補を送っていったオリヴィエがセイランに追い付き、並んで寮を出た。ずっと何も言わずに並んで歩いて、やがて寮が見えなくなった頃、オリヴィエが口を開いた。
「……あんた、何考えてるの?」
「…………」
 セイランは答えず、ただ深い藍色の瞳を向けた。
「あんたがやろうとしていることは分かるよ。二人を焚付けて、女王のサクリアを成長させようとしているんでしょ。確かに、二人の資質は比べものにならないほど伸びてきている。でも……」
 オリヴィエはそこで言葉を切った。
 その恋心は何処へ行く? 二人の女王候補は、セイランと幸せになる日を夢見て、試験に励んでいるのだ。けれどセイランにその意志は全くない。セイランは、ただ少しでも二人の資質を伸ばしたいだけ。
 まだ淡い恋心のうちはいいだろう。けれど、もっともっと強い感情になったら? そしてそれを否定されたとき、それほどまでに頑張ったのに、セイランはただ恋心を利用していただけだと知ったとき、一体……どうなる?
「あの二人だけじゃない、きっと、あんたも傷つくよ」
 夢の守護聖の言葉に、セイランは小さく笑う。
「いいんだ、どれほど傷ついても。彼女が幸せになれるなら、どんな傷も、痛くない」
 一瞬のためらいも、戸惑いもない答。それにオリヴィエは少しだけ眉根を寄せる。
「……そんなに、アンジェリークが大切? たった数回会っただけのあのこが、そんなに大切?」
 セイランのせいで、アンジェリークとオスカーが捕まったということは知っている。けれどそれだけで、その罪悪感だけで、ここまで動いているとは思えなかった。
 一体何が、セイランの心をそこまで、アンジェリークに向けているのか。
「彼女は……僕に、手を差し伸べてくれたんです」
 オリヴィエの視線に込められた疑問を感じてか、セイランは小さくつぶやく。
「彼女は僕を責めてもよかった。僕はそれだけのことをした。けれど彼女は……僕に手を差し伸べてくれた。今まで、誰も僕に手を差し伸べようとはしなかった。たとえば、僕の才能やこの顔を利用するために手を伸ばそうとした輩は山のようにいたけど、彼女のように、『僕』に手を差し伸べてくれる人はいなかった」
 助けるために、許すために、愛するために、手を伸ばしてくれたのは、彼女だけだった。
 あの瞬間、セイランはこの世界に存在を認められた気がした。
 ずっと蔑まれて、憎まれて、誰も助けてくれなくて、ひとりで。自分が本当にこの世界に存在していていいのか分からなかった。
 アンジェリークが手を差し伸べてくれたとき、許してくれたとき、セイランは自分の居場所を見つけた気がした。
 ここにいていいんだよと、言われた気がした。
「僕は彼女のために生きる。彼女のためにしか生きられない。彼女が、僕に腕を差し伸べてくれた、あのときから」
 自分の存在を認めてくれた、唯一の存在。
 彼女を守ることが、助けることが、セイラン自身の存在証明。
「あんたは馬鹿だよ」
 夢の守護聖が小さく言った。
「知ってますよ。そんなことは、僕が一番よく知ってる」
 自嘲するようでもなく、ただ悪戯っ子が悪戯の計画をしているように微笑まれて、オリヴィエは少し戸惑う。
 オリヴィエはセイランに言うべきか少し迷って、けれど、結局口を開いた。小声でセイランの耳元に囁く。
「……もうすぐオスカーの居所が、分かるかもしれない」
「本当に!?」
 思わず声を荒げるセイランに、口許で人指し指を立てて注意を促して先を続ける。
「ゼフェルが研究院のコンピューターから『元炎の守護聖に関するデータ』ってのを見つけてハッキングした。でも、トップシークレット中のトップシークレット扱いで、何重ものプロテクトのうえ、内容も暗号化されていた。今、その解読をしてる。その中にうまくいけば、今の状況に関するデータが入っているかもしれない」
「それじゃあ……彼女は助かる?」
「まだまだだよ。居所が分かったって、そこからオスカーを連れ出せないし、アンジェリークもここから連れ出せない。物理的にも状況的にもね。……でもまあ、最初の一歩は踏み出せたって処かな」
 驚きの形に固まっていたセイランの表情が、崩れるように微笑みに変わる。
「…………よかった…………」
 セイランは心から微笑んだ。こんな風に、意識して笑い顔を作るのではなく、勝手にこぼれるように微笑んだのは一体どれくらいぶりだろう。
 たとえ最初の一歩でも、彼女のために、何かできたことが嬉しい。彼女の幸せに近付けたことが嬉しい。
 それだけで、今までの苦労もこれからの苦労も、むくわれる気がする。
 一方、夢の守護聖は嫌な予感を覚えていた。
 今セイランが見せた微笑み。見惚れるほど、綺麗で純粋な微笑みだ。
 けれどそれは……たとえば現女王アンジェリークが女王候補の頃見せていたような笑顔の純粋さとは違った。
 セイランの微笑みは、たとえて言うなら、赤ん坊が、赤ん坊にとってまだ世界は自分と母親しか存在しないとき、母親に抱きしめられ微笑みかけられ、それに応えて微笑み返すような、そんな微笑みだ。
 その他に何も存在しない、ただその存在がすべて。その者に対する絶対の信頼と愛情、それ以外何も存在しないから純粋である微笑み。
 赤ん坊ならそれでいいだろう。けれど、自分の意志を持ち、この世界で生きていくものが持つには……純粋すぎる微笑み。
(セイラン……あんたにとって世界は自分とアンジェリークだけだとしても、現実にはもっと多くの人間が存在して、その数だけそれぞれの想いや人生ってのが存在してるんだよ……。あんたはそれを、分かってる……?)
 いや、きっと、分かっていないだろう。分かっていたなら、あんな笑顔は出来ない。
 実際、セイランにとって、世界は自分とアンジェリークとそれ以外という分類でしかないのだろう。
「…………」
 けれどオリヴィエは、それを口には出せずにいた。
 あんまりにも、アンジェリークを想うセイランの微笑みが、純粋すぎて。壊すことが罪ではないかと思えるほどに、綺麗すぎて。



 セイランが学芸館に帰ると、精神の教官ヴィクトールがセイランの部屋のすぐ脇の廊下の壁にもたれて立っていた。どうやらセイランの帰りを待っていたらしい。
「……こんにちわ、ヴィクトール」
 挨拶だけして部屋に入ろうとする。無視しないで挨拶だけでもするのは、今日はすこぶる機嫌がいいからだ。けれどその声も、普通の人が聞いたら冷たいと聞こえるだろう。
「今日は……女王候補と一緒だったのか?」
 セイランがドアノブに手をかけたとき、ヴィクトールの低い声が聞こえた。
「ええ、レイチェルと一緒でした。……それが何か?」
「先週は、アンジェリークと一緒だったよな?」
 今度は口に出しては返さず、片眉を少しあげることで『それが何か?』と問い返す。
「二人の気持ちを弄ぶようなことはやめろ。二人ともお前に真剣なんだ。そのためにあんなに一生懸命学習や育成に励んで……。その気持ちを分かってやれ。ちゃんとどちらかを選ぶか、あるいは二人共に本気でないなら、ちゃんとそのことを伝えろ。でなければ……」
 セイランは瞬時に理解した。
 この無骨そうな軍人は、どちらかは知らないが女王候補に年がいもなく淡い想いを寄せているに違いない。本心としては女王候補など降りて、自分のものとなって欲しいと思っているのだろう。けれど、こちらがどう思っていようと、女王候補二人はセイランに夢中で、その隣にいる軍人には見向きもしない。それに苛立ち、そして女王候補二人共にいい顔をしているセイランに嫉妬しているのだ。
 セイランはヴィクトールを冷たく見つめる。他人の恋をとやかく言う気はない。この精神の教官が誰に想いを寄せようと、何の関心もない。
 けれどあの女王候補二人には、何としても女王の資質を伸ばしてもらわなければいけない。現女王アンジェリークのために。セイランがただひとり大切に想う彼女のために。
 セイランにとって、女王候補二人は、現女王アンジェリークを助けるための道具に過ぎない。
 アンジェリークを助ける。それだけが、今のセイランのすべて。
 大切な、大切なあの人を助ける。
 水と空気と同じに、セイランが生きていくために必要不可欠な要素。
 だからそのためになら、他の誰がどう傷つこうと、構わない。関係ない。女王候補達の気持ちを思いやってやる余裕などない。ましてやヴィクトールの気持ちなど、考えていられない。
「貴方には、関係のないことです」
 言い捨てて、セイランは振り向きもせず自分の部屋へ入った。だから、そのときヴィクトールがどんな表情をしていたのか、知るよしもなかった。



 新しい宇宙に、惑星が満ちようとしていた。
 けれど同時に、人々の心にも暗い影が満ちようとしていることに、セイランは気づかなかった。


 To be continued.

 続きを読む