霧に消える(7)


(……雨が、降ってる)
 聖地に雨が降っていた。慈雨と呼ぶにふさわしい雨。やわらかに、包み込むように、草に木に大地に降りそそぎ、命を与え輝かせる。
 セイランは傘もささすに軒先から足を踏み出した。
 雨が降りそそぐ。髪を服を雨が濡らして、水滴となって落ちてゆく。
 この雨は、この世界の女王である彼女が降らせているのだろうか。だから、こんなに優しいのだろうか。
 降りそそぐ雨はすべての痛みを癒してくれる。殴られた頬も、癒される。



 セイランは、女王候補と寝た。
 優しくしてくれるセイランに、女王候補達の望みは徐々に膨れあがり、言葉や笑顔だけでは満足しなくなっていった。もっと先を求めた。
 手をつなぐ、肩に腕をまわす、抱きしめる、キスをする。セイランはそれらに快く応じてやった。そのうち女王候補の片方が恋敵を出し抜くためにもと、それ以上を要求してきた。
 だからセイランはその女王候補の望み通り抱いてやった。ただそれだけのことだった。それで彼女の試験へのやる気が増すというのなら、セイランに断る理由などなかった。
 ただそれだけのことだと思っていた。そのことに、ひとときの快楽とか、見返り以上の意味があるとは思っていなかった。セイランはそうやって生きてきた。だから知らなかった。分からなかった。
 抱いた、ただそれだけで、女王候補があれほどつけあがるとは思いもしなかったのだ。
 次の日には、セイランが女王候補と関係を持ったことは、その女王候補自身によって聖地中に広まっていた。試験を降りると言いだし、セイランが自分と結婚して一生を共にすると誓ったかのように振る舞い、勝ち誇ったように恋敵でもあるもう一人の女王候補にもそのことを告げた。
 それを聞いたもう一人の女王候補は、取り乱したようにセイランの部屋に押し掛けてきた。あの子が好きなのかと詰め寄り、セイランが違うと答えると自分も抱いてくれと言いだした。
 だからセイランはもう一人の女王候補も抱いた。
 そして、その次の日には、もう一人の女王候補とも関係を持ったことが、聖地中に知れわたった。
 呼び出され、受けた尋問でも、セイランはなんら隠すことなくありのままを語った。自分が悪いことをしたのだと分かっていなかった。たとえば抱かれることで女王候補達のサクリアの成長に、何らかの影響があるというのなら分かる。けれどそういうこともなく、彼女らは望むままひとときの至福と快楽を得て、見返りにまた試験に励む。ただそれだけのことだと思っていた。
 あんな一度の行為だけで、何故女王候補達があたかも自分を完全に手に入れたように振る舞うのか、何故他の者達がこう目くじらを立てるのか、セイランは本当にわからなかった。
 セイランにとってそれは、その日の食べ物を得るために、宿を得るために、あるいは、ひとときぬくもりを分け合い快楽を得るために、行われてきた行為だった。それが当たり前で、それ以外の意味なんて知らなかった。誰も、教えてはくれなかった。
 知らないこと、それはそんなにも罪なのだろうか。
 誰も、それが愛情を示し伝える行為でもあるのだと、セイランに教えてくれなかった。そういうふうに扱われたことはなかった。だから知識としてそういうこともあると知っていても、本当の意味で「知る」ことができなかった。
 それでも。知らないこと、それはセイランの罪なのだろうか。



 結局謹慎を言い渡され、セイランはとりあえず訳は分からぬままおとなしく部屋にいた。
 二人の女王候補はセイランがどちらもを抱いたことに激しく怒り泣き叫び、学習や育成どころの騒ぎではなかった。セイランは、それが自分のせいだと言われても、理解できなかった。ただ、試験が進まないことに、焦りと苛立ちがつのるだけだ。
 早く、少しでも早く、セイランは女王候補達のサクリアを成長させたいだけなのに。どうしてそれが裏目に出てしまったのか。何がいけなかったのか。
 セイランには分からなくて、焦りと苛立ちだけがつのっていく。
 そのとき、ノックもなしに扉が開いて、ヴィクトールが部屋に入ってきた。
 不快な客に、セイランは眉をひそめた。
「……どういうつもりなんだ」
 ヴィクトールのその声は地獄の底のさらに奥深くを這うような低さで、表情は憤怒の形相を通り越して、いっぞ無表情に見えた。
(このひとも、何をそんなに怒っているのだろう)
 セイランはそう思った。
 ヴィクトールが女王候補の一人に想いを寄せていることは知っていた。でも、セイランが女王候補と寝たくらいで、何をそんなに怒るのか。セイランには本当に分からなかった。
「俺は前に言ったはずだ。彼女達二人の気持ちを弄ぶような真似はするなと。それなのに、貴様は」
 両脇で握り締められた拳が、押さえた怒りのために激しく震えている。それをセイランは不思議な気持ちで見ていた。
「君は、君が女王候補を抱きたかったのに、先に僕が抱いてしまったことを怒っているのかい?」
「!! 貴様……っ!!」
 本当に、それはヴィクトールを怒らせようと思って言ったわけではなかった。本当に、そう思ったのだ。
 今までセイランと寝た人間達の中で、何人かは非常に順番を気にする奴がいた。同時に複数を相手にするとき自分が何番目になるか、とか、セイランにとって自分は何番目か、とか。セイランは特に順番や数など気にしなかったが、それにこだわる人間がいることは知っていた。
 だからヴィクトールもそうなのかと思ったのだ。だから怒っているのかと思ったのだ。
 抱くという行為そのものに問題があるとは、考え付かなかったのだ。
 だが、ヴィクトールがそんなことを知るよしもなく、彼は激怒した。
 セイランの胸倉をつかんで引き寄せると、頬骨が折れるのではないかと思うほど強く殴られた。この前ランディに殴られたのとは比べものにならない。
 セイランが激しい痛みを知覚するより早く、胸倉を捕まれたまま激しく揺さぶられた。
「言え! どうして、どうしてあの子を抱いた! あの子を愛しているというのなら、何故もう一人の女王候補まで抱いたんだ! 何故だセイラン!! 言え!!」
 殴られた痛みで頭がくらぐらしていた。あの一撃で気を失わなかったのが不思議だったが、今にも意識が途切れそうだった。頭の奥深くで何度も大太鼓を打ち付けられているようだった。
「……愛してるって? 僕が? ……女王候補……達を?」
 痛みと眩暈で意識が朦朧としていた。自分が何を言っているのかすら、はっきりと分かっていなかった。一種の催眠状態になり、問われるままに答えていた。
 いつもならもっと冷静に、相手を手玉にとれるように、言葉を選んで慎重に話していたはずだった。それなのに。
 言ってしまっていた。本当のことを。
 平静な状態なら、それでヴィクトールがどうなるか、可能性の一つとして分からないわけでもなかったのに。
 言ってしまった。
「……そんなこと、あるわけないって……君も、よく……知ってるだろう……?」
「じゃあ、なんのため! なんのためにお前はあの子を抱いたんだ! 傷つけんだ!」
「……彼女、の……ためだ……」
「彼女? 誰だそれは!」
「……金の髪に翡翠の瞳の……女お……。……僕の……大切な、たいせ……つ、な……」
 セイランにとって、ただひとりの大切なひと。金の髪に翡翠の瞳を持つ、この世界の女王。愛するひと。
 彼女のためなら、なんでもできる。
 彼女がしあわせになれるなら…………。
 セイランの意識は、そこで途切れてしまった。もし起きていられたなら、どうにかできただろうか。



(……雨……)
 何処か遠くに雨音が聞こえた。雨音は好きだった。音もなく降り続く霧雨より、ずっといい。
(……雨が、降ってる)
「…………ン! おい、起きろセイラン!」
 雨音に混じって、知った声が聞こえた。肩を揺さぶられて、セイランはゆっくりと重いまぶたを上げた。
「おいセイラン! 起きたか、おい!!」
 真正面に鋼の守護聖の顔があった。まだ少しぼやける視界に、赤い瞳が鮮やかに映った。
 あのまま意識を失って倒れていたらしい。まだ辺りは暗くないが、どれほど眠っていたのだろう。頬が激しく痛んだ。鏡を見なくても、ひどく腫れていると分かった。
「おいセイラン! 寝ぼけてる場合か! 大変なんだよ! 女王……アンジェが!!」
「!?」
 何があったのか、と問い返そうとしたが、ひどく腫れた頬のせいで少し口を動かすだけでも激痛が走り、うめくような声が漏れただけだった。
 けれど言いたいことはゼフェルに伝わった。ゼフェルは一度大きく息を吸い込むと、言葉を続けた。
「……アンジェが、ヴィクトールに刺された。重体だ」
「……………………っ!!」



 ゼフェルと共に宮殿に向かうために外に出たセイランは空を見上げた。
(……雨が、降っている……)
 この雨は、彼女が降らせているのだろうか。だから、こんなときだというのに、こんなにもこんなにも優しくセイランに降りそそぐのだろうか。
(アンジェリーク、僕は)
 望むのは、彼女のしあわせだけなのに。
 彼女のしあわせのためになら、なんでもするのに。
 彼女がしあわせなら、どんなことでも耐えられるのに。
 それとも。
 僕では、彼女のしあわせを願う権利すらないのだろうか。
 僕では。こんな僕では。
 だから、彼女は。
「セイラン行くぞ! 乗れ!」
 ゼフェルがエアバイクの後ろを示す。セイランは操られるようにそこに乗った。
 音もなく、風のように雨の中を走り出す。


 雨が降っていた。ひどく、やさしい雨が。

 To be continued.

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