霧に消える(8)


 雨の中を走り続けたエアバイクが着いたのは、見知らぬ誰かの私邸だった。
「……ここは? アンジェリークは?」
 てっきりアンジェリークのいる処へ連れていってもらえると思っていたセイランは、見知らぬその場所に戸惑った。
「オリヴィエの屋敷だ。アンジェリークは王立研究院の医療施設にいる。いくらお前が教官でも、そこまではお前を連れていけねーんだ。一応極秘事項だし、何かとごたごたしてるからな」
 ゼフェルはエアバイクを屋敷の傍らにとめて、髪についた水滴を払った。
「オリヴィエが様子を見に行ってる。もう戻ってるはずだ」
 そう言うと、ゼフェルは勝手知ったる様子で屋敷の中に入っていった。セイランもそれに続いた。
 屋敷の中は、妙に静まり返っていた。時計の秒針音だけが、いやに響く。
 大勢いるはずの使用人は、何処にも見当たらなかった。
「ゼフェル? セイラン連れてきたの?」
 奥からオリヴィエが顔を出した。
 セイランはそのとき、確かに夢の守護聖から、病院独特の消毒薬の臭いをかぎ取った。
 鋼の守護聖の言葉を疑っていたわけではないが、アンジェリークが刺されたというのは現実なのだと目の前に突き付けられたようで、セイランはオリヴィエに知らず詰め寄っていた。
「彼女は……アンジェリークは……」
 そんなセイランをなだめるように、オリヴィエは肩に手を置いた。
「今はかなり落ち着いた。まあ、まだ油断はできないって言われているけどね」
 アンジェリークは重体ではあるが、幸い命までは取られなかった。
 ヴィクトールは軍人であるから、急所というものを知っていた。それでも、心臓を一突きではなく腹を刺し、それが確実な致命傷にならなかったのは、今まで女王に仕えてきた彼の最後の迷いだったのかもしれない。
 どちらにしろ、幸運なことだった。誰にとっても。
「僕のせいだ……ヴィクトールは僕が憎くて、だから、彼女を……僕が……」
「しっかりしろ、セイラン!」
「そうだよ。あんたには、しっかりしてもらわなくちゃ」
 オリヴィエは、パニックになりかけているセイランの肩を掴んで強く揺さぶった。
「あんたを呼んだのは、アンジェを連れ出す手伝いをして欲しいからだよ」
「え……」
 セイランは顔を上げて、夢の守護聖を見た。彼の顔は、怖いくらいに真剣だった。
「アンジェリークが刺されたことは計算外だったけど、これは同時にチャンスでもあるんだ」
 屋敷には他には誰もいないけれど、それでも声をひそめて、セイランの耳元でオリヴィエは言った。
「……アンジェリークを、連れ出す。今の状態のアンジェを無理に動かすなんて危険だって分かってる。でも、チャンスは今しかないんだ」
 今なら、皆が女王が刺されたことで戸惑いパニックになり慌ただしくなっている今なら、逃げるチャンスがあった。
 いつもはジュリアスやロザリアが傍にいて、ほぼ四六時中の監視が付いているも同じだったが、今彼らは処理に追われて駆け回り、女王の傍にはいなかった。
 もちろんアンジェリークには医師や看護婦がずっと付いていたが、普段の監視よりはずっとゆるいものだった。それをどうにでもできる自信はあった。
「手伝ってくれる?」
 その問いには、アンジェリークのために命をかけられるか、という意味が込められていた。
 アンジェリークを逃がすことの罪は大きい。それで世界が滅びるのかもしれないのだ。世界が滅びれば自分だって死んでしまうし、もし滅びなくてもどれほどの罰が与えられるかは少し考えれば分かることだった。
 だからオリヴィエはセイランに尋いた。
 命をかける気はあるかと。
 セイランは大きくうなづいた。
「もちろん」
 それを、セイランが断るはずもないことは、オリヴィエにもゼフェルにも最初から分かっていた。



「アタシが次元回廊を開ける準備をしておく。ゼフェルは監視モニターとセキュリティの解除、あんたにはアンジェリークを回廊まで連れてきてほしいんだ」
 アンジェリークを連れ出す計画を練りながら、オリヴィエはそう言った。
 細かい計画はもっとあったが、計画の概要としてはそういうことだった。
 計画は日を置かず2日後に決行された。アンジェリークの容態から見ても無茶と思われたが、オリヴィエはしきりと時間がないということを強調して、結局計画が実行されることになった。
 セイランとゼフェルは、王立研究院の中にあるアンジェリークのいる医療施設に忍び込んだ。オリヴィエは先に次元回廊の間で、回廊を開く準備をしている手筈だった。
 途中でゼフェルと別れて、セイラン一人、アンジェリークの病室へ向かう。ゼフェルはセキュリティ管理ルームへ向かい、セキュリティを解除する。
 女王の病室は、無菌状態を保つために多くを機械化されていて、つきそっている人間はもともと少なかった。女王自身ではなく、機械から送られる女王の症状データに目を光らせている状態だった。
 だから、ゼフェルがコンピューターに入り込んで、偽の情報を送り続けるよう設定すれば、あとは何人かを麻酔銃で眠らせればよかった。
 セイランはそっと、アンジェリークの病室に入った。
 最新の機械に取り囲まれた中央のベッドには、アンジェリークがいた。
 酸素マスクや点滴の管、脈や心電を計るコードが身体中にはりついていた。金の髪はつやをなくし、もつれて枕に広がっている。その輝く翡翠の瞳も今は閉じられたままだ。
「……アンジェリーク……」
 セイランは小さく呟いた。
 一番最初、あの霧雨の降る惑星で会ったときとは変わり果てた姿だった。あのときが、ひどく遠い昔のように思えた。
 下界での時の流れでどれほどになるのかは知らないが、セイランの時間で言えば、まだほんの数ヶ月前のことであるはずなのに。
 いろいろあった。いろいろ変わってしまった。
「セイラン。監視モニターとセキュリティは解除した。アンジェリークを連れてきてくれ」
 耳に付けたイヤホンから鋼の守護聖の声が聞こえた。それでセイランは、ふと我に返った。
 それを合図にセイランは、アンジェリークの周りを取り囲む機械類を取り外した。それでも別室に用意されたチェックルームでは、今までと変わらない情報が送られているのだろう。
 壊れ物を扱うように、シーツごとアンジェリークの体を抱き上げた。セイラン一人で運ぶには、ストレッチャーを使うよりも直接抱き上げて運んだほうが動きやすかった。
 抱き上げてたアンジェリークの身体は驚くほど軽い。間近にある顔は血の気を失って、白さを通り越して蒼く見えた。
「セイラン、病室を出たら西側の廊下に向かえ。その先で落ち合うぞ」
「わかった」
 セイランは、アンジェリークを抱えたまま病室を走り出した。
 セイランが走って、その衝撃が腕の中の彼女に伝わるたび、いつ刺された傷口が開いてしまうのではないかと不安になる。それでも誰かに気づかれる前に、急がねばならなかった。
「こっちだセイラン!」
 廊下の先にゼフェルが待っていた。
「アンジェリークは無事か?」
 ゼフェルはアンジェリークが息をしていることを確認すると、いくつかの小さな機械を彼女に付けた。携帯用の医療機器らしかった。
「急げ、気づかれる前に次元回廊まで行くんだ!」
 ゼフェルの先導で、セイランはただ無我夢中で走った。何処をどう走ったかなんて、考えている余裕もなかった。
 王立研究院の中に入ると、おもしろいように、セイランが通った後を扉が閉まっていった。ゼフェルがセキュリティを操作しているのだ。
 ゼフェルとセイラン、そしてアンジェリークは、オリヴィエが待つ研究院の奥にある次元回廊の間に飛び込んだ。
「オリヴィエ! 回廊は開いたか!?」
「まだだよ……くそっ!」
 オリヴィエが受け持った回廊を開ける作業は、思いのほか手間取っているようだった。それはそうだろう。これはもともと、一人で簡単に動かせるような代物ではない。特に、女王の力が不安定で次元が定まっていない今は。
「オリヴィエ急げ! やつらもうそこまで来てるぞ!」
 モニターを見ていたゼフェルが切羽詰まったように叫んだ。
 さすがに、もう見つかったようだ。モニターには、こちらへ向かう光の守護聖を始めとする兵の姿が見えた。
 ここのセキュリティは今ゼフェルの支配下にあって、次元回廊へと続く廊下の扉は開かないようになっている。けれど、物理的な力で扉を破られれば、すぐに追っ手が押し寄せてくるだろう。
「分かってるよ! …………開いた! 行くよ、ゼフェル、セイラン!」
「くそ、逃げ切れるか!?」
「……待って」
 次元回廊に飛び込もうとしていた二人を、セイランが呼びとめた。
「なんだよセイラン! 急がねーとやつらが……?」
 セイランは、抱き上げていたアンジェリークを、そっとゼフェルに渡した。
「セイラン?」
「僕が、ここに残ります」
「!?」
 ゼフェルは赤い瞳を見開いた。
「追っ手全部をとめることは無理だけど、時間かせぎくらいにはなるだろうから」
「でも! それじゃあお前は……!」
 確かにセイランがここに残れば、追っ手の何人かはこの罪人を捕えるために、一時追跡を中断することになるだろう。
 でも、それではセイランは確実に捕まる。逃げ切れるわけもない。
 そのあとどうなるか……。守護聖であるゼフェルやオリヴィエなら、ある程度の罰は受けても最悪の事態にはならないだろう。でも、いくら教官であるとはいえ、一般人のセイランでは、…………死刑は免れない。
 アンジェリークを逃がすことは、この宇宙を滅ぼすのと同じことだ。この宇宙が滅べば、もちろんそこで生きている自分達も死んでしまう。それはセイランにだってちゃんと分かっているだろう。だから、死ぬことだって覚悟しているとは思うが、それと捕まって死刑になるのとは訳が違う。
「早く行ってください」
 セイランは、二人を促した。
「……ゼフェル、行くよ」
 しばらくくちびるを噛みしめていたオリヴィエは決断して、セイランを残して次元回廊の中へと足を向けた。
 ゼフェルはそれでもまだ迷って、その場に立ちすくんでいる。
 セイランはすこし笑ってゼフェルに近づくと、その腕の中にいるアンジェリークの頬にそっと指を伸ばした。
「しあわせになって」
 セイランは、アンジェリークに向かって呟いた。意識のないアンジェリークに、その言葉は届かないだろう。分かっていながら、それでもセイランは呟いた。
「しあわせになって。しあわせでいて。それだけが、僕の望みだから。それが、僕のしあわせだから」
「セイラン……お前……」
 ゼフェルが何か言うより早く、セイランはその背中を押して、彼と、彼に抱き上げられているアンジェリークを次元回廊の中へと入れた。
 セイランひとりを取り残して、次元回廊の扉が閉ざされてゆく。
「セイラン……!」
 扉の向こうで、ゼフェルが叫んだ。
「アンジェは必ずオスカーの処へ届けるから! だからセイラン、お前は…………!!」
 言葉が全部届くよりも先に、次元回廊へと続く扉は閉められ、それを最後まで聞き取ることはできなかった。
 回廊は閉ざされ、一瞬、これ以上ないくらいの静寂が訪れる。
 セイランは、閉ざされた扉を見つめた。
(アンジェリーク……)
 静かだった背後から、声や足音が聞こえ始めた。追っ手が、そこまで来ていた。



 ジュリアスを筆頭に、狂ったセキュリティによって足止めをくっていた兵達が、なんとか次元回廊に辿り着いたとき、セイランは閉ざされた次元回廊の扉を守るかのようにそこに立っていた。
「セイラン! 貴様、女王を何処へやった!?」
 ジュリアスの怒声に怯むこともなく、セイランは扉を背に、ただ静かにそこに立っていた。
「そこを退け! そいつを捕えろ!」
 冷静さを失ったように、光の守護聖が叫んだ。
 たちまち何人もの兵がセイランを取り囲んで、セイランは押さえ付けられた。
「早く次元回廊を開け! 女王を追うんだ!!」
 その声を聞きながら、セイランはあるだけの力で暴れた。押さえ付ける手をはねのけ、取り押さえていた兵の短剣をかすめ取り、それをがむしゃらに振り回した。
 逃げようと思ったわけではなかった。ただ乱心したように暴れる自分を取り押さえるために兵を使わせて、それで少しでも追跡を遅らせたかった。実際それは効をそうし、短いあいだだが追跡をとめていた。
 しばらくして、暴れ続けたため体力もなくなり、動きが鈍ったところで、セイランはあっけなく取り押さえられた。床に顔が押しつけられ、骨が折れるのではないかと思うくらい強く押さえ付けられた。
 セイランの顔のすぐ横に誰かが立った。
 床にはいつくばるように押さえ付けられているせいで顔を動かすこともできず、その人物を見ることはできなかったが、特長あるその黒いローブでそれが誰かはすぐに知れた。闇の守護聖だった。
 少しのあいだ、闇の守護聖はそのまま、床に押さえ付けられた無様とも言える姿を見下ろしていた。それから、静かにセイランに問いかけた。
「……お前は、これでよかったのか……?」
 罵られるかと思っていたセイランは、思いのほかに優しいその声に、少しだけその蒼い瞳を見開いた。それから、セイランは微笑んでみせた。
「…………ええ」
 それは、かつてオリヴィエが、純粋すぎる赤ん坊の微笑みと評した、あの笑顔だった。


 To be continued.

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