傷跡(SIDE A)1


 触れないで。
 その傷は、まだ痛むから。



「ちょっとアンジェリーク!」
 聖殿の廊下で、ロザリアの声に、アンジェリークはゆっくりと振り返った。
「何、ロザリア」
「あんた一体どうしたっていうのよ」
「なんのこと?」
「なんのこと、じゃないわよ! 育成のことに決まってるでしょ!」
 アンジェリークはぼんやりとロザリアを見た。
 その瞳に、ロザリアは一瞬言葉を詰まらせてしまう。いつもの少女とまるで違った。瞳に輝きはなく、あるのは絶望にも似た虚空。こんな瞳をするアンジェリークなど、見たことがなかった。
「育成、ちゃんとやってるつもりだけど?」
 虚ろな瞳のまま、アンジェリークが答えた。
 そう、育成はちゃんと行なわれている。でもそれは、予測表を見て足りないものに機械的に力を送っているだけ。前はもっと民のことを考えて、ひとつひとつのことに一喜一憂していた。今のアンジェリークには、感情のかけらも見つからない。
「……アンジェ、一体どうしたっていうのよ。育成だって、前はもっと……」
「ロザリア、悪いけど、育成のことに口出ししないで」
 言い捨てて、アンジェリークはロザリアに背を向けて歩きだした。
「アンジェ……」
 呟いたロザリアの声は、アンジェリークまで届かなかった。



 聖殿から寮までの道をひとり歩きながら、アンジェリークはさっきロザリアに当たるように冷たくしてしまったことを少し後悔していた。ロザリアが、自分のことを心配してくれているのは分かっている。ロザリアの言う通り育成が機械的になっていることも。
 けれど、心に穴が開いたように、無感情になってゆくのを止められなかった。
 アンジェリークはふと足を止めた。公園方向へ続く道と、森の湖へ続く道の分岐点。この道を左に進めば、森の湖に出る。
(……ジュリアス様……)
 アンジェリークは心の中で小さく呟いた。
 恋人達の湖という別名のあるその場所で、ジュリアスに想いを告げたのは、この前の日曜日のこと。
『ジュリアス様、私…………』
 一世一代の告白だった。それなのに、その告白は最後まで告げることすら出来なかった。
『アンジェリーク、大陸の育成は順調に進んでいるか?』
 その先を告げようとするアンジェリークをさえぎったのは、ジュリアス自身だった。
『そなたとロザリアの力はほぼ互角、どちらが女王となってもおかしくはない。これからも大陸の育成に励むがよい。私もできるかぎり力になろう』
 女王候補に対する光の守護聖としての威厳ある態度で、そう言われたのだ。
 それは、遠回しな拒絶だった。
 ジュリアスが自分のことを想っていないから拒絶したのなら諦めもつく。けれど、ジュリアスも自分のことを好きでいてくれていることは分かっていた。それなのに、拒絶された。
 アンジェリークが女王候補、女王になるかもしれない者だったから。
 今この宇宙は崩壊の危機にあって、移転した宇宙を支えるだけの強大な力を持った女王が必要とされていることは知っている。それが自分かもしれないことも。
(でも私は……宇宙なんて、知らない)
 アンジェリークは訳も分からずこの地に連れてこられ、時間の流れの違うこの地で家族や友達と離れて暮らすことを余儀なくされた。もともと女王候補として育てられたロザリアと違い、分からないことばかりで心細かった。
 そして今また、好きな人が出来ても、想いが通じ合っていても、その想いを諦めなければいけない。
 宇宙のために。
 まるで自分の存在を否定されたような気持ちになる。
 宇宙のためには、お前の幸せなんて知らないと、お前は全てを犠牲にしろと言い渡されたような気持ちになる。
(宇宙なんて、知らない。私は私。私が自分の幸せを願ってはいけないの?)
 もしその問いを口にして誰かに尋ねたなら、きっと肯定の返事が返ってくるのだろう。
 そう思うと哀しくて哀しくて、心に虚空ができるのを止められなかった。
 ぽっかりと穴の開いていく自分の心を、眺めていることしかできなかった。



 その日、アンジェリークは平日であるにも関わらず、聖殿にも研究院にも行かず、カーテンを閉めきった自分の部屋にこもっていた。
 今日、外はいつもよりさらに澄み渡った青空で、太陽は全てのものを輝かそうとするかのように世界を照らしていた。以前なら、喜んで公園にでも出かけていたかもしれないが、今はそんな空の下を歩きたくなどなかった。
 ソファに伏せているアンジェリークの耳に、軽いノックの音が響いた。
「お嬢ちゃん、いるんだろう。ここを開けてくれないか?」
 アンジェリークはのろのろと起き上がって、扉を開けた。
「オスカー様……お仕事はどうなさったんですか?」
「それはこっちの台詞だな。君こそ育成も頼みに来ないで、こんなところで何をやっているんだ?」
「……」
 アンジェリークは答えられずにうつむいた。
「今日はお嬢ちゃんをデートにでも誘おうと思っていたんだが、やめておいた方がよさそうだな。代わりに部屋で話でもさせてくれないか?」
「……どうぞ」
 アンジェリークはオスカーを部屋へ招き入れた。電気が付けられているから暗くはないけれど、このいい天気の日にカーテンを閉めきったこの部屋は、おかしな雰囲気だろう。
「お嬢ちゃんはこの頃、元気がないな。他の奴も皆心配しているぜ」
(皆が心配しているのは、私が女王候補だから?)
 そんな風にひねくれてしまう自分も嫌だった。
 炎の守護聖の手がそっと伸びて、頬に柔らかく落ちかかる金の髪に指を絡める。
「何かあったのか?」
 いつも以上に優しい瞳。いつも以上に優しい声。頬に触れる手が暖かい。
「お嬢ちゃん……アンジェリーク。俺では力になれないか?」
 瞬間、引き寄せられてくちびるを重ねられた。
「!?」
 アンジェリークは驚いて、とっさに身を引いていた。
 オスカーの薄氷色の瞳がまっすぐにアンジェリークを見つめていた。オスカーの瞳は怖いくらいに真剣だった。
「……私はっ……」
 続けようとした言葉は、再びオスカーの唇にふさがれる。
「やっ……ん……」
 逃げようとする頭を両手で押さえ付けて、何度も執拗にくちづけられる。
 力では適わない。逃げられない。
「アンジェリーク……愛してる……」
「……や……、……、…………」
 やがてアンジェリークは抗う力を抜いた。されるがままにくちづけを受ける。
 それは諦めなのか、絶望なのか、ただ誰でもいいから慰めて欲しかったのか、それとも……?
 自分でも分からないまま、アンジェリークは目を閉じた。
 オスカーの手によって自分の体がベッドの上に移され、ぬくもりが直接触れてきたときも、アンジェリークは抗わなかった。
(…………様)
 共に果てる最後の瞬間呼んだのは、一体誰の名前だったろう。



 それからアンジェリークはオスカーと共に過ごすことが多くなった。
 執務室で、公園で、森の湖で、……自分の部屋で、オスカーの私邸で。
 オスカーは優しい。アンジェリークが哀しいとき、泣きたいとき、いつだって傍にいてくれる。ぬくもりを分け与えて、なぐさめてくれる。
 アンジェリークは自分でも、オスカーに甘えている、と思う。
 自分に好意を寄せているオスカーの気持ちを利用している、と言ってもいい。
 だけど今は雛鳥のように、ただ暖かな羽に守られていたかった。
 この傷が癒えるまで…………。


 To be continued.

 続きを読む