夕暮れの子供(1)
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「君は幸せそうではないね」
言われた言葉に、すべてを見透かされたようで、息が止まりそうになった。
「じゃあ貴方は、何が本当の幸せか、知っているの?」
意地悪で言った言葉。あの人は肩をすくめて少し笑った。
「知らないけど。君が本当に幸せだというのなら、僕は幸せになんてなりたくないね」
夕暮れ。あの人の蒼い髪も瞳も、すべてが朱く染まっていた。私は膝を抱えて、ただ消えてゆく太陽を見ていた。
私があの人に初めて会ったのは、あの人が、新しい女王試験のための感性の教官としてこの地に来たとき。玉座から見下ろしているのは私の方の筈なのに、貫くようにまっすぐ向けられた蒼い瞳が私を見下ろしているようで、思わず目を逸らしたのは私だった。
(……コワイ)
それが、最初の感情。
何が怖いのか、どうして怖いのか。脅えることなど何もない筈なのに。ただ、嵐に震える子供のように、あの人が怖かった。
「……陛下? どうかいたしましたか?」
脅えてうつむく私に、隣から気遣うような声がかけられる。
その声にやっと我を取り戻す。そう、怖いことなんて何もない。怖くなんてない。自分に言い聞かせて、もう一度前を向いてあの人を見た。
あの人が私を見つめる。あの人の瞳が、私を映す。
(……ブルーサファイアの、蒼)
たとえば水の守護聖の蒼い瞳は優しく包み込むような蒼で、風の守護聖の青い瞳は爽やかで明るい空のような青。同じアオでも、そこにはその人を表わす光と生命の輝きがあった。だけど、あの人の蒼い瞳は。
(すべてを映して、そしてすべてを映さない。心なんてない。ただ、蒼いだけの、アオ)
いつのまにか、今度は、目を逸らすことが出来なくなっていた。
その瞳に魅入られたからではなくて、今目を逸らしたら、きっと私はもうここに座っていることは出来ない、次の瞬間にここから逃げ出してしまう、そう思った。
ただ、蒼いだけの、アオ。
あの人が小さく一礼して謁見の間から下がるまで、私は気付かないうちに息を止めて、指先が白くなるまで手を握り締めていた。
それが、あの人との最初の出会いだった。
あの人に二度目に会ったのは、聖地の片隅にある草原。新しい女王候補達の試験が始まって少しした頃だった。
女王になって以来、新しい女王試験が始まる前から、私は時折誰にも内緒でそこへ来ていた。
時折むしょうに何処かに逃げ出したくて、けれど何処へ行くことも許されなくて、……行く場所さえなくて。聖地で女王が行ける最も遠い場所がその草原だった。
くるぶしを埋める程度の下草が生えているだけの草原は聖地の片隅にあり、ほとんど人の来ないさびれた場所だった。
その場所が気に入っている訳じゃなかった。お気に入りの場所はもっと他にたくさんあった。花が咲き乱れる公園、光輝く森の湖。けれど、そこでは誰かに会う可能性があった。だから私は、片隅に追いやられるようにいつもその誰もいない草原に来ていた。
草原に座って、何をするでもなく、ただぼんやり過ごす。それが私に与えられた、つかのまの自由。けれどそれも、かりそめの自由。足に紐のついた小鳥と同じ。ここから本当に逃げ出すことは出来ない。
風が吹き抜ける。草が鳴る。雲は遠くへと運ばれてゆく。
ふと、風にすずやかな香りが混じった。かいだこともないような、不思議な香り。清廉で潔癖で、そして冷たい感じがした。
振り向くと、そこにはスケッチブックと道具箱を抱えたあの人が立っていた。
「あ……」
驚く私とは裏腹に、あの人は私なんかいないかのように、少し離れたところに腰を下ろすと道具箱を開けて、絵を描く準備を始めた。
宇宙を司る女王がこんな処にいるというのに、あの人は眉一つ動かさない。一瞬、私が女王だと気付いていないのか、それとも気付いていても、女王がこんな処にいることの重大さを知らないのかと思ったけれど、スケッチブックに向かうあの人の横顔を眺めていて、そうではないと知った。
あの人にとって、すべてはどうでもいいことなのだ。女王の存在も、宇宙の存亡も、あの人にとっては、そよ風が髪を揺らすほどにも感じない。
最初会ったとき見つめられてあれほど怖かった瞳は、私に一瞥も向けられることもなかった。
しばらく動けずにいて、けれど私はいつしかあの人の存在を忘れていた。風景に溶け込むというのともまた違う、不思議な感じ。あの人は、まるでこの世界に存在していないかのような、私が見ている幻のような、そんな気がした。
そのまま、どれほどの時間が過ぎたんだろう、頭上近くにあった太陽は、いつの間にか私の正面で、地平線に触れようとしていた。
横を向けば、あの人もまだそこにいて、スケッチブックに筆を走らせていた。
稀代の芸術家。あの人に与えられた称号のような言葉を思い出す。私のいる処からでは彼がどんな絵を描いているのか見えなかった。
真剣な横顔。時折顔を上げて目の前の景色を見る。彼のあの蒼いだけの瞳に、この世界はどんな風に映るのか知りたいと思った。
「……ねえ、女王候補さん達は、どう?」
あの人と何か話をしてみたいと思ったのに、何を言えばいいのか分からなくて。口をついて出た言葉は、儀礼的な、こんな処で聞かなくてもいいようなことだった。いつからだろう、こんな風になってしまったのは。昔、自分が女王候補だった頃は、こんなことなどなかったのに。
「それは、彼女達が女王に向いているかどうかという意味? それとも、それは置いておくとして、彼女達の人格のこと?」
スケッチブックから顔も上げずに、手も止めずに、あの人は答えた。無視されるかと思っていたのに答えられて、私は少なからず驚く。
「……えっと、両方」
「思いのほか、欲張りだね、君は」
発せられる言葉とは裏腹に口調は平坦で、それは事実を述べただけのことで、私に対するなんの感情も付随していなかった。
「だって、どちらかしか選べない訳じゃないでしょう」
何故か、悪戯を見咎められた子供が言い訳をするように、私はむきになって言い返していた。
「選ぶのは嫌い。何かを選んだら、もう片方を切り捨てなくちゃいけないから。だから、私は欲張りでいい。わがままでいい」
私が言った後、しばらく沈黙が流れた。あの人がスケッチブックに筆を走らせる音と風が葉を揺らす音が、いやに響いた。
何かあの人の気に触ることを言ってしまったのかと思って、少し脅える。脅えることなんてない筈なのに。
「……女王に向いているかどうかは僕が決めることじゃないから良く分からないね。彼女達の人格も、個人的に親しく付き合っていないから分からない。僕に分かるのは、せいぜい彼女達の感性が今どれほどのものかってことくらいだね」
しばらくしてあの人の唇から漏れてきたのは、やっぱりなんの感情も入っていない、ただの音の羅列。だから、わざと言ってみた。
「貴方って、意外と役立たずなのね」
そう言うと、筆を持つ手がぴたりと止まった。怒るかと思っていたのに、あの人は片手で額を押さえながら笑った。さも面白そうに。
「……何がおかしいの?」
「君に、役立たずなんて言われたからさ」
笑いをおさめようとして、それでもおさめきれず漏れる笑い。
「確かに僕は役立たずかもしれないけどね、君ほどじゃないよ」
「っ!」
声がのどに貼り付いた。肺が一気に潰された。胸を硝子の破片で切り裂かれた。……そんな、気がした。
言葉に傷つけられたからじゃなくて、私が心の一番奥底で思っていて、それでも必至に隠してきたことを言われたから。
何も言い返せなかった。何も、言えなかった。
「……君に、これをあげるよ」
そう言ってあの人は、スケッチブックを一枚切って私に差し出した。
そこに描かれていたのは、夕焼けに染まるこの草原。そして、その真っ赤な夕焼けの中、膝を抱えている小さな子供。
「これ、私?」
「さあ? 僕はただこの景色を描いただけだから」
あの人にとって私は景色の一部で、人として認識されてもいないのだと知った。それが哀しいのか腹立たしいのか、それさえ分からなかった。
「また、ここに来る?」
そう聞いたのは私。
「多分ね。ここは僕のお気に入りの場所だから」
あの人はてきぱきと道具を片付けながら答える。
「私、またここに来ても、いい?」
何故かそんなことを言っていた。
「そんなのは僕が決めることじゃない。そうだろう?」
言いながら、今日初めてあの人は私を見た。
風が吹き抜ける。夕焼けで、あの人のあのブルーサファイアの瞳は朱く染まっていた。怖くはなかった。けれどやっぱり目を逸らすことは出来ない。あの人の中に映る私は、どんな色をしていたんだろう。
「……君は、綺麗な色をしているね」
呟いたあの人の言葉が、胸に刺さった。
……多分、それが始まり。
私は何を求めていたのだろう。それは今でも分からない。
けれど、あの夕暮れ。永遠を探す子供は、そこにいた。
To be continued.
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