夕暮れの子供(2)


 風の揺れる草原。そこはいつだって青空。流れてゆく雲をただじっと見つめる。聞こえるのは、葉ずれの音と、あの人がスケッチブックに筆を走らせる音。
 そんな日を、もう何度繰り返したんだろう。もうずっとずっと昔から、数えきれないほど繰り返されてきたような錯覚を起こしそうになる。本当は、片手で足りるか足りないかくらいなのに。
 私はあれ以来、暇ができるたびにあの草原へ来ていた。
 2回に1回くらいの確率で、あの人も草原に来た。そして、あの人は絵を描き続け、私はぼんやりし続ける。そんな風に過ごした。
 時折、存在を思い出したように少しだけ話をした。昨日見た月の話、目の前の景色の話。他合ない話を、少しだけ。
(ただそれだけ)
 横を向けば、少し離れた処に座るあの人が、スケッチブックに向かっている。いつもの情景。いつもの距離。
(…………)
 ……気まぐれ、だったのだろうか。そのときほんの少しだけ、あの人との距離が気になった。
 遠くはない、近いけれど、腕を伸ばしても届かない距離。
 あの人のまわりにはいつも、まるで冷たい結界でもあるかのように、人が容易に近付けない雰囲気が張り詰めていた。近寄りがたい、なんてものじゃない。誰も近づくことを許さないとでもいうような、完全な拒絶。
 近づいたら、触れたら、その冷たさに心が凍えて死んでしまいそうで、私も近づいたことはなかった。
(でも……)
 気まぐれが、私の背中を押した。
「ねえ、傍に行っても、いい?」
 私の言葉に、上げられたあの人の顔の中で、左眉だけがぴくりと跳ね上がった。それを見て、莫迦なことを言ってしまったと思った。
 冷たい言葉が返ってくるかと思って肩をすくませていたら、あの人は呆れたように大袈裟な溜息をついて髪をかきあげた。
「……おいで」
 まるで、捨てられた子猫に見つめ続けられて、根負けしたような口調だった。
 だけど、拒絶されなかった。そのことだけが胸にあふれた。
 あの人の傍へ行くと、ぴったりと身体を寄せて座った。ほんの少し距離を縮めたくらいじゃ、何も変わらない気がしたから。あの人は少し驚いたようだけど、構わなかった。
 そのまま、頭をあの人の肩にもたれかける。そうすると、前に掲げられたスケッチブックがよく見えた。
(……暖かい)
 体温なんてないくらい冷たいかと思っていたあの人は、意外なほどに暖かかった。
 あの人は少し戸惑っているようだったけれど、やがて絵の続きを描き始めた。私なんていないかのように。
 あの人の細くて長い指が動くたび、ただ白い紙だったスケッチブックが、何処までも続く遥かな世界に変わってゆく。
 私は、目の前の風景があの人によってスケッチブックの中に閉じ込められていくのを見ていた。
「……皆、貴方のことを稀代の芸術家っていうけど、それは嘘ね」
 あの人の肩にもたれたまま、思ったままに呟いた。
「貴方は芸術家なんかじゃない。魔法使いだわ。貴方が魔法で、この風景をスケッチブックの中に閉じ込めたのよ。空を走る風も、揺れる緑も、ここに満ちる想いも、全部」
 そうとしか、思えなかった。そうでなければ、こんなきれいで、透明で、そして哀しくなるほどの想いに満ち溢れた絵が描ける訳がない。
「君が僕の感性の生徒だったら……そうだな、85点くらいあげようか」
 その評価がどう意味なのか、意味なんてないのか、私には分からなかった。
 あの人は絵を描く手を止めて、少しのあいだ動かずにいた。
 流れる沈黙。意味のない時間。
 私とあの人の間ではそんなもの当たり前のはずだったのに、距離のせいか、一秒が永遠にも感じられた。
「君は不思議だね。僕は人に近づかれることはもちろん、触れられるなんてことは吐き気がするほど嫌なんだ。まして、絵を描いている処を誰かに見られるなんて、考えられもしなかった」
「それは、貴方が私を、風景の一部としてしか認識していないからじゃないの?」
 別にすねてそんなことを言った訳じゃなかった。本当に、あの人にとって私は人として認識されていない、そう思った。
「そうかもしれない。でも、僕の風景の一部になれるなんてすごいことだよ。僕の風景の中で、人間なんて邪魔なものでしかないんだから」
 なんの感情もこもらない言葉。ただ事実を述べるだけのその言葉が、だからこそ胸に刺さった。
「人間が、嫌いなの?」
「嫌いな訳じゃない。ただ、関わりたくないだけさ」
 他人事のようにあの人はそう言った。
 あの人の肩から顔を上げて、あの人を見た。スケッチブックに向かう横顔からは、なんの感情も読み取れなかった。
「……ひとりで生きて行くのは、寂しくない? 哀しくない?」
 あの人の顔が私に向けられた。あの人が私を見つめる。あの人の瞳は、あのアオだった。私が最初に会ったとき怖いと感じたあの色をしていた。
「ひとりが哀しいのは、ひとりじゃない幸せを知っているからだよ。僕はそんなもの知らない」
 言葉が私を切り裂く。瞳が私を射抜く。
(……コワイ。……だけど……)
 目をそらしちゃいけない気がした。今、目をそらしたら、もう二度とあの人の瞳を見ることはできない気がした。
「人はひとりでは生きていけないというけど、それは嘘だよ。僕はこうして生きている。そして君も」
「私……?」
 私はひとりじゃない。藍の髪の親友もいるし、守護聖達もいる。そう答えようとして、けれど言葉はあの人の瞳にかき消された。そんな慰めごとを言っている自分を、あの人の瞳に映したくはなかった。
 永遠にも近い、数秒が過ぎる。
 あの人は私から視線を外して、スケッチブックに新しい絵を描き始めた。
 私はまた、あの人の肩に頭を載せた。かすかに伝わる、ぬくもりと鼓動。
 今こんな近くにいるのに、きっとあの人は遠い。
「……ねえ、貴方の風景の中に、私はいる?」
 吹き抜ける風に揺れる草に、かき消されてしまいそうなほど、小さく呟いた。
 あの人が、少しだけ、揺れた気がした。
「いるよ、君だけは、いつも」
 あの人と私の距離の中で、言葉は何処へ届いたんだろう。私まで、あの人まで、届いただろうか。
 心は、届いただろうか、あの人まで。
 そして、私まで……。


 To be continued.

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