雨 Side H


 出逢いは、雨の日。
 それを偶然と呼ぶのか、運命と呼ぶのか、そんなことは、知らない。



 雨が降り出したのは、もうすぐ夕方にさしかかるだろうという頃だった。
 けれど、朝の天気予報でも午後は雨になるだろうと言っていたし、そうでなくても朝から降りそうな気配を持った曇り空だったから、大抵の人間は傘を持って出かけていた。
(邪魔とは思ったけど、持ってきといて正解やったな)
 服部平次も、そんなことを思いながら、傘を広げた。

 最初は小降りだった雨も、だんだんと雨足を強くしていく。
 傘を差していても、ズボンの裾などは、跳ね返る水と打ち付ける雨に濡れてきてしまう。早く家に帰ろうと、平次は足を速めた。

 そのとき。
 平次の視界に、ふと、小さな影が映った。
 いつもなら見逃してしまうかもしれないその影に、何故か、目をとめていた。

 柱の影に身を寄せるようにして、雨に濡れながら、うずくまってちいさく震えている………………猫?

 体をちいさく丸めて、自分の膝を抱えるようにして。
 おそらくは、雨を避けるすべさえ知らずに。震えながら。

 ほぼ無意識に、平次はそのちいさな猫のほうへ近づいていた。自分の傘をかざして、雨を避けてやる。
 平次が近づくと、その気配を感じて、子猫が顔をあげた。
 ぐっしょりと濡れた髪から、雫が幾筋も顔を伝っている。けれど、雨ではない雫も、頬を伝っている。こぼれそうに大きな瞳が、揺れている。

「なんやお前…………捨て猫か?」

 捨て猫、という言葉の響きにだろう。子猫はびくりと体を震わせた。
 みるみるとその瞳に哀しみと不安が浮かんで、それでも、それをこらえるように、きゅっと口許が引き結ばれる。

「…………」

 そんな姿を見せられて、放っておけるはずもない。

「行くとこないんやったら、うち来るか?」

 平次は子猫に向かって手を差し出す。
 子猫は一瞬、差し出された手の分だけ、体を後ろに引く。
 そのまま、しばらく差し出された手と、平次の顔を交互に見比べて。

 子猫はゆっくりと自分の手を伸ばした。
 そのちいさな手のひらを、平次の手に重ねる。

 その手は、思った以上に冷たくなっていた。
 いったいどれほどの時間、この雨の中にいたのだろう。

「びしょびしょやな」

 平次は子猫を引き寄せると、鞄からタオルを取り出して、髪の毛を拭いてやる。
 触れた頬も、同じように冷え切っていた。

 と。突然。

「ふ……ふえっ…………」

 ぼろぼろと、子猫の瞳から、大粒の涙があふれだす。
 涙をこらえようとして、けれどこらえ切れずに何度もしゃくり上げては、その大きな瞳から、涙があふれだす。

 ずっとずっと心細かったのだろう。この雨の中ひとりで。
 こんなちいさな子猫が、ひとりで。

「ええこや、もう大丈夫やからな」

 平次は、自分も濡れてしまうことも構わずに、子猫を胸元に抱きしめた。
 ちいさな手が、自分の背中を強く握り締めるのが分かった。

 その瞬間に生まれた気持ちを何と呼ぶのか。
 平次が知るのは、もう少し先のことだった。


 そうして、平次と、彼が「工藤」と名付けた子猫との生活が始まった。
 それを運命と呼ぶのか、偶然と呼ぶのか、そんなことは、知らない────。


 END

Side C