しあわせの鳥籠 〜The blue bird's cage〜
1


『ねえおねえちゃん。お話聞かせて』
 志保は明美の袖を軽く引いてねだる。
『まあ志保。また?』
『ねえいいでしょう? お願い』
 志保は大好きな姉に本を読んでもらうのが大好きだった。
 幼くても賢い志保は、ひとりでも本を読むことは出来る。それでも甘えて、本を読んでもらうのが好きだった。
『わかったわ。何のお話がいいの』
『えっとね。これ。これがいい!』
 志保は本棚から、お気に入りの1冊を抱えてくる。
『またこれ? 志保はこの話が好きなのね』
 もう何度も読んだ本を差し出され、明美は笑いながら、それでも優しく幼い妹を自分の膝に引き寄せる。
『…………チルチルとミチルは、とても仲のよい兄妹でした。ある日…………』



 志保はぼんやりと目を覚ました。
 薄いカーテンの隙間からこぼれた陽射しが、瞳に入り込む。まぶしさに、わずかに目を細めた。
 昔の夢を見ていた。姉の夢だ。
 最近、こんな夢を見ることが多くなった。姉の夢。家族の夢。ちいさかったころの、しあわせな夢。……今はもうみんな無くしてしまった、哀しい夢。
 どうしてだろう。どうしてこんな夢を見るんだろう。
 夢は、自分の心の表われだという。それならこの夢を見ることにどんな意味があるのか。戻りたいのだろうか。無くしてしまったあの頃に。今を全部捨てて、いちばんしあわせだったあのころに。
 そう考えた自分にすこし苦笑する。今とかつてと、どちらがどれほどしあわせかなんて計れないけれど、今もたしかにしあわせなのに。こんな自分がどうしてこんなにしあわせになれるのか、わからないくらいしあわせなのに。
 頬に落ちかかる髪がすこし鬱陶しい。けれどそれを払おうと腕を上げることが出来ない。
 志保の身体には、腕が回されている。きつくきつく。簡単には寝返りもうてないほどに、しっかりとその腕は身体に巻きついている。
 志保はそっと身体をずらして、腕の主を起こさないよう注意しながら、身体の向きを変えた。
 向き合う形になり、眠る新一の顔が、はっきり見える。眠る新一は、本当にちいさな子供のようだ。コナンの面影が強くて、なんとはなしに、笑みがこぼれる。
 安らかな寝息。彼はまだ起きる様子はない。けれどどんな深い眠りのうちでも、彼の腕の力がゆるまることはない。眠っているうちに、志保が何処にも行かないように。消えてしまわないように。その不安を表すように、腕はいつもしっかりと志保に回されている。
 その腕の強さは、志保を安心させる。その強さの分だけ、新一に必要とされていると、求められていると感じられるから。
 こうして新一と眠るようになって、どれほど経つだろう。
 志保は、ずっと新一が好きだった。
 幼児化した姿の頃、その元凶である哀をコナンは責めなかった。憎んで、恨んで、罵っても、何らおかしくなかったのに。
(大丈夫だ。俺が守ってやるから)
 すべてを失くしひとりだった哀に、あの言葉がどれほど嬉しかっただろう。渇いて枯れかけた花に、やわらかな雨が降り注ぐように。
(守ってくれるんでしょう?)
(ああ)
 でもそれは、叶わない願いだと想っていた。
 彼には大事な幼馴染がいて、彼女のために元に戻りたいと必死になっていて。
 だから元に戻ったら新一は、蘭のもとへ行ってしまうのだと思っていた。

 でも。
 あの事故が。

 志保はそっと、新一を起こさないように気をつけながら、その腕を抜け出した。
 身支度を整えて、新一の部屋を抜け出し階下のリビングへと降りる。
 今、志保は工藤邸で暮らしていた。この広い屋敷にいるのは、新一と志保だけだ。かつて客間だった部屋を志保の私室として与えられているが、滅多に使われることはない。眠るのはいつも、新一の部屋で、新一のベッドでだからだ。
 リビングの壁にかけられた、古めかしいアンティークの時計はすでに昼近い時刻をさしている。このぶんでは、朝食が昼食になってしまうだろう。
 だからといって、今日は休日であり、特に何の予定もない。どんなに寝過ごしたところで何の支障もなかった。もっとも、これが平日だったところで、さして変わりもないのだが。
 元の身体に戻った新一は、けれど学校へは通っていなかった。以前なら頻繁に出かけていた事件現場へも、今は足を向けることはない。
 彼は志保とふたりきりで、このちいさな城に閉じこもったまま。ただ、ふたりだけで。
 志保が朝食兼昼食のために冷蔵庫をのぞいてると、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
 キッチンとリビングの境目あたりに取り付けられたインターホンを取る。
『こんにちわ』
 インターホンからやわらかな声が流れてくる。モニタ付きの高性能なそれには、蘭の姿が写しだされていた。
「……蘭さん。いらっしゃい。待っていて、今鍵開けるわね」
 訪問者の姿に驚きながらも、志保は急いで玄関へ向かう。
 かつてはここに頻繁に訪れていたであろう蘭は、最近ではあまり姿を見せなくなっていた。それはここに志保がいるからだ。その彼女が訪れるのはめずらしいことだった。
「いらっしゃい、蘭さん」
「こんにちわ、志保さん」
 ドアを開けると、玄関先にどこか恐縮したような感じで蘭がたたずんでいた。
「俺達もいるんだよー志保ちゃん」
「邪魔するわ」
「あら。あなた達もいたの」
 モニタでは見えなかったが、蘭と一緒に快斗と平次もいた。彼らが工藤邸を訪れるのはよくあることなので、こちらはあまり驚かない。
 おおかた、蘭が工藤邸の前でチャイムを鳴らそうかやめようか迷っているようなところに、運悪くなのか運良くなのか、平次と快斗が来て、鉢合わせしたというところだろう。
「どうぞあがって」
「おっ邪魔しまーす」
「邪魔させてもらうわ」
 志保の促しに、快斗と平次はさっさと家にあがってゆく。
 けれど蘭は何かためらうように、玄関に立ったままだった。
「……蘭さん?」
「あ、ううん。……お邪魔します」
 蘭の戸惑いが、志保には分かるような気がした。
 かつてこの家に上がるのに、彼女はこんな他人行儀だったことはないのだろう。あるいは、迎え入れる役目のほうこそ、蘭だったろう。まるで自分の家でもあるかのように、この新一の家に訪れていたのだろう。
 だが、今はここで志保が新一と暮らし、蘭は『客』だ。
 それが彼女を戸惑わせるのだろう。哀しさと共に。
「あのね、これ、レモンパイ作ってきたんだ。よかったらみんなで食べよう」
 蘭は手に持った箱を掲げてみせる。
「お。おおきに」
「おいしそうだね。相変わらず料理上手だねー」
 箱から出されたレモンパイを、快斗と平次は口々に誉める。彼らにも志保にも、それが誰のためにどういう想いで作られたものかなんてことは、十分わかっている。
「……新一は?」
 リビングにもキッチンにも、この家の主の姿を見つけられなくて、蘭は首をめぐらせながら尋ねた。
「ごめんなさい。まだ寝ているの」
「そう……あ、私、お茶入れるわね」
 志保の動きを先回りするように、蘭は急いでキッチンへと入ってゆく。
 その様子を、志保はすこし複雑な想いで見送る。リビングで思い思いにくつろいでいる平次と快斗も、多少哀れんだような視線を気付かれないように向ける。
 蘭は必死でここに自分の居場所を見つけようとしているようだった。かつては当たり前にここにあったはずの、居場所。今それは、すべて志保の場所になってしまっている。それを必死で否定するように。わずかな希望を探すように。必死になっているように見えた。
「あれ、ティポット……」
 お茶の用意をしていた蘭が、戸棚をのぞいて戸惑ったような声をあげた。いつもティポットがあるはずの場所に、ポットがないのだ。
「あ。ポットは……このあいだポット割っちゃったから、新しいの買ってこっちに置いてあるの」
 急いで志保が別の戸棚から、ポットを持ってくる。
「あ、そうなんだ……」
 些細なことだ。すべては些細なことなのだが、そのすべてが、ここにいるのは志保なのだと示している。新一の隣にいるのは……新一と一緒に暮らしているのは、志保なのだと。ここに、蘭の居場所はないのだと。
「なんか、可哀想だね」
 リビングでその様子を見ていた快斗が、平次にしか聞こえない程度の声で呟いた。
「まあしゃあないやろ。蘭ちゃんはつらいやろけど、肝心の工藤が選んだんが宮野なんやから」
「ま、そうなんだけどね」
「……なんや含みある言い方やな」
「考えてることは、平次もおんなじなんじゃないの?」
「………………」
 二人の脳裏に浮かぶのは、あの『事故』のことだ。あの事故が起きて、新一は変わった。そうしてあれが、新一と志保のはじまりになった。
 ────もしも。
 それは仮定の話だ。現実がすでにこうある今、何を言っても何を思っても意味はない。それでも思ってしまう。
 もしも、あの事故が起こらなかったなら。
 新一は、誰の隣にいたのだろう。
 そのとき。
 まるで破裂音のような、ドアを蹴破る音が聞こえた。
 皆驚いて、一斉に音のした階上へ視線を向ける。
「志保っ!!」
 悲鳴のような、新一の声が響いた。
「志保っ! 何処にいるんだ志保っ!!」
 続いて、走り回るような足音が響く。おそらくは、志保の姿を探しているのだろう。手当たり次第に扉を開ける音がする。
「志保っ!! 志保っ!!」
「新一。ここよ。ここにいるわ」
 一体何が起きたのかと驚く蘭とは裏腹に、志保はまるで冷静に答える。
 こんなことははじめてではなかった。おそらく目の覚めた新一が、志保が傍にいないことに不安になったのだろう。いつもではないが、時折あることだった。
「志保!!!」
 志保の姿を見つけた新一が、階段を駆け下りてくる。そんな余裕もなかったのだろう、スリッパも履かない足で、足音を響かせて、文字通り転がるように駆け下りてくる。その様子は、やっと母親を見つけた迷子の子供のようだ。
「志保、志保」
 新一はやっと見つけた志保の姿に、彼女に抱きつく。
 志保の姿を見つけて、抱きしめて、やっと安堵したかのように、彼女にしがみついたままずるずると膝をつく。志保も、新一の背を抱きとめながら、同じように膝をついてやる。
「志保…………」
「ごめんなさい。不安にさせてしまったわね」
「志保。何処にも行かないでくれ。俺の傍にいてくれ」
「何処にも行かないわ。大丈夫。ずっと新一の傍にいるわ」
 何かに脅える子供のように、まるで力をゆるめたらそのまま志保が消えてしまうのではないかとでもいうように、新一は彼女を抱きしめる。志保はそれをあやすように、そっと背をなでてやる。
「っ…………!!」
 その光景を、もう見ていられないというように、蘭はきびすを返して玄関へと走っていった。
 走り去る背中を、平次と快斗はただ黙って見送るしか出来ない。蘭に一体何を言えばいいというのだろう。こうして、現に新一が求めているのは志保だけだというのに。
 新一が行方不明のあいだ、ずっと彼を待っていた蘭は、当然のように、新一が帰ってきたなら、彼とのしあわせが待っていると思っていただろう。そして新一は帰ってきたが、あの『事故』が起こり……いや、『事故』のときだって、蘭は、新一が必要とするのは自分だと思っていただろう。
 だが、新一が必要としたのも求めたのも、志保だった。志保だけだった。
 あの『事故』以来、新一は志保しか求めない。志保しか必要としない。志保がいなければ、眠ることも出来ないくらい。不安でまともな生活も出来ないくらい。そうしてこのちいさな城に、ふたりきりで閉じこもっている。そこからもう出て行こうとはしない。
「なんでなんやろな……」
 リビングの片隅でしっかりと抱き合うふたりを見ながら、平次は呟いた。新一のあんな姿を見るのははじめてではない。ここに何度も訪れているなかで、何度か見ている。
「なにが?」
「工藤が、もともと蘭ちゃんのこと恋愛対象として見れんようになっとったんは知っとる。せやけど、なんで宮野なんや。宮野だけなんや?」
 今の新一には、志保しか視界に映っていない。さっき走り去った蘭も、今ここにいる平次も快斗も、おそらく新一は気付いていもいないだろう。
 何故志保なのだろう。頼るのも求めるのも、例えば快斗でも平次でもよかったはずだ。それなのに何故。
「平次には、わかんないかもね」
「なんやおまえにはわかっとるような口ぶりやな」
「まあ、平次よりはね」
 あの日から、新一はどこか壊れている。
 そして志保しか求めない。必要としない。
「志保。志保」
「新一。ここにいるわ」
 しっかりと抱き合うふたりには、それしか存在しない。それ以外なんてない。それだけ。
 どうしてこんなふうになってしまっただろう。
 はじまりは、あの『事故』だった。あの日、あのニュースが────。
 平次と快斗は、思い出す。あの日のことを。あの『事故』が起こった日のことを────。


 To be continued.

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