しあわせの鳥籠 〜The blue bird's cage〜
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『……臨時ニュースをお伝えします。──航空成田発ロサンゼルス行き146便が、太平洋沖で墜落したとの情報が……』

『……乗客の安否が気遣われておりますが……新しい情報が入りしだい……』

『……生存は絶望的と見られ……全員の死亡が……』



 そのニュースが流れてきたのは、みんなで夕食を取っているときだった。
 その日はめずらしく、工藤邸で、新一と志保と平次と快斗とでテーブルを囲んで、夕食を取っていた。
 ここ数週間日本へ戻ってきていた工藤夫妻は、その日の昼過ぎに、ロサンゼルスへと帰っていた。今夜からまた工藤邸には新一ひとりになる。にぎやかだった食卓が急に新一ひとりになるのは寂しいだろうという、皆の配慮だった。新一もその心遣いを受け、一緒に食卓を囲んでいた。
 テーブルの上には、心尽くしの手料理が所狭しと並べられ、食卓を華やかに彩っていた。全員、弾む会話と共に、箸も進んでいた。
「あ、これなんだ? うまいな」
 小鉢に盛られた見慣れない料理に箸をつけて、新一が言う。
「イチジクだよ」
「へえ。イチジクなんてはじめてだ」
「それ、黒羽君が作ったのよ」
「工藤、こっちも食べてみてや。これは俺が作ったんやで」
 気心の知れた友人達に囲まれて、いつもどおりの何気ない談笑。寂しさなんてカケラも感じないくらいに楽しくて。最近読んでおもしろかった推理小説の話や話題の新作映画の話、そんなものを笑いながら話していた。
 こんな気分は、子供の姿だったときには感じられないものだった。
 もちろん、毛利家での皆で一緒に食べる食事や、小学校で皆と食べた給食が、まずかったとかつまらなかったということではない。それでも、皆を偽り、自分を偽り続けていた中では、どうしても心から楽しむことができずにいたのだ。
 小学生の姿だったコナンと哀がもとの姿に戻れたのは、つい半月前のことだった。
 巻き込まれた黒の組織がらみのある事件の中で、偶然アポトキシンに関するデータの一部を入手でき、それをもとに哀が解毒剤を完成させたのだ。
 息子がもとに戻ったという知らせを受けて、工藤夫妻はすぐに日本に来た。放任主義というよりも、新一の意志を最優先にさせてくれる彼らは、誰よりも息子を愛している。正体不明の毒を飲まされて幼児化などしてしまった息子を、遠くの地から、誰よりも心配していたのだ。
「新ちゃん、元に戻れてよかったわね! コナンちゃんの姿も可愛かったけど!」
「新一。副作用とかはないのかい? 大丈夫なのか?」
 駆けつけた彼らは、久しぶりに見た本来の息子の姿に、口々に心配する言葉やになう言葉をかけた。有希子などは飛びつかんばかりに新一に抱きつき、優作もまるで幼子にするようにそっと新一の頭をなでた。
「大丈夫だよ。もうガキじゃないんだから」
 まるで相変わらずコナンに接するような両親の子供扱いに、新一はすこし拗ねたようにその手を振り払う。けれどそんな行動まで予想していたように、二人はやさしく笑うのだ。
 その笑顔は、何故だか新一をひどく安心させる。たとえ新一がどんな態度をとっても何をしても、変わらずに注がれる愛情を示しているようで。
 いつだってそうだ。そっと背中を支えるように、気が付けばすぐ傍にいてくれるように。押し付けるのではなく。そっと包み込むように。
 薬で幼児化されてしまったときもそうだった。コナンの姿になってしまい、それでも新一が自分から両親に連絡せずにいたのは、自分の力で何とかしてみせると意地を張っていたということもあるけれど、何より怖かったのだ。変わってしまった自分を、拒絶されることが。おかしな薬で変わってしまった自分を、両親がどんな目で見るか、それが怖かった。
 けれど、阿笠博士から聞いて事情を知った二人は、変わってしまった新一に、それでも変わりなく接してくれた。
 変わらない愛情と、優しさと、支えと。
 コナンだった自分は、それにどれほど救われただろう。
 ──いや違う。コナンだったときだけではない。
 たとえば探偵として、誰かに憎まれることもある。恨まれることも蔑まれることもある。それでも立ち止まらずにいられたのは、たとえ世界中の人間が敵に回ったとしても、きっと最後まで味方でいてくれる、愛してくれるという確信があったからだ。
 いつもいつも、そして今も、守られて支えられて、愛されて。
「父さん、母さん、その…………」
「なんだい新一」
「なあに新ちゃん」
 なんだか照れくさくて、二人をまっすぐに見つめていられない。まっすぐに顔を見られなくて、視線をすこし下にさまよわせたまま、新一は言った。
「今まで、心配とか迷惑とかかけ続けて……わがままばっかりで……ごめん。でも、もう大丈夫だから」
 顔を真っ赤に染めながら、多少口ごもりながら、それでも新一はそう優作と有希子に告げた。照れ屋で意地っ張りな彼の、精一杯だった。
 息子にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、その言葉に二人は驚いたように目を丸くしたあと、それからふわりと微笑んだ。
「心配も迷惑も、親の特権みたいなものよ。あなたが元気でしあわせであるなら、それだけでいいのよ」
「離れていても、何があっても、おまえは私達の大事な息子なんだ。おまえを誇りに思っているよ」
 そしてそれからしばらく、ひさしぶりに3人で親子水入らずの時間を過ごした。照れから、少々突っぱねながらも、新一も久々の親子の時間を堪能していた。
 そのまま約2週間ほど工藤夫妻は日本にいたが、優作には仕事もあったから、やがてふたりはロサンゼルスのほうへ帰ることになった。
「じゃあね新ちゃん。今度のお正月には絶対ロスに来てね! 約束だからね!」
「新一、もとに戻ったからといって、無茶するんじゃないぞ」
「わーってるよ。もうガキじゃねえんだから。大丈夫だって」
 素直になれない新一は、やっぱりまた素直じゃなくて。それでもそれが彼なりの照れや甘えや愛情表現だということを、優作も有希子も十分感じていた。
 そうして彼らは、ロスへ向けて出発していった。

 その、夜のことだった。

 暗い影なんて、もうどこにもなくて。これからあるのは、もう明るい未来ばかりだと思っていた。
 それなのに。
 皆と一緒に夕食を取りながら、見るともなしにつけていたテレビ。バラエティ番組で、ベテランのお笑い芸人と、売り出し中の新人タレントがおかしそうに何か話していた。どんな番組で、どんな内容だったかなんて覚えていない。
 ただ、人々の笑い声に重なるように、ニュース速報を知らせる無機質な音が響いて、テレビ画面の上に、ちいさな白い文字が走らされた。
 探偵の性分で、その文字を目で追って。

 息が、止まった。

 飛行機の墜落を知らせる、無機質な白い文字。

「く、工藤っ。これ、これ……まさか、優作さんたちの乗った飛行機や…………っ」
 平次の切羽詰ったような声を、新一はどこか遠くで聞いていた。
 視線はブラウン管に釘付けにされたまま、握っていた箸も、そこに挟まれていた揚げ物も、いつのまにかテーブルの上に転がっていた。
 まさか、だって、そんなこと。起こるわけ。
 繰り返しテレビに走らされる白い文字。

『──航空成田発ロサンゼルス行き146便が太平洋沖に墜落した模様。乗客の安否は…………』

 数分もしないうちにバラエティ番組は中断され、あわただしく臨時ニュース番組になった。急いであつらえたのだと分かるスタジオで、どこか落ち着かない感じのアナウンサーが、今まで文字で示されていたものを、言葉で話し出した。他にチャンネルを回しても、何処も同じようなものだった。
 まだ情報が錯綜しているなかで、それでも次々と新しい情報が伝えられる。そのどれもが、より悲惨な、より絶望的な状況を伝えるだけのものだった。
 平次があわてて航空会社に問い合わせの電話をかける。けれど同じように問い合わせが殺到しているのか、なかなか繋がらずにイライラと何度もかけなおす。やっと繋がっても、的確な情報が得られないのか、声を荒げて電話にかじりついていた。
 志保はインターネットから情報を得ようと、パソコンを立ち上げ、懸命にキーボードを操っていた。快斗は情報通の知人から情報を得ようしているらしく、自分の携帯電話から何処かへ掛けていた。
 だがあわただしく動く3人とは裏腹に、新一はただ動けずに、夕食のときの席に座ったまま、ぼんやりと繰り返し流されるニュースの画面を見ていた。
 まさか、と思った。
(新一)
(新ちゃん)
 あの笑顔が、もうないなんて。この世界のもう何処にも。
 ずっと心配をかけ続けて、やっともとの身体に戻れたのに。素直に、ありがとうとか、愛しているとか、まだ何にも伝えていないのに。
 締め切りに追われてて、ロスへ戻ったらすぐカンヅメ生活だって。でも新刊ができたら、真っ先に俺に送るって。正月には、ロスのほうへ遊びに行くって。そう約束したのに。
(あなたが元気でしあわせであるなら、それだけでいいのよ)
(おまえは私達の大事な息子なんだ。おまえを誇りに思っているよ)
 どうして。
 ねえ、どうして。



『繰り返しお伝えします。──航空の成田発ロサンゼルス行き146便が……』
『……乗客名簿には日本人と見られる名前も多数……』
『……生存者はまだ確認されておらず……』
『……………………………………………』



 日本人乗客も多く含んだこの飛行機事故で、生存者はいなかった。
 海上に墜落した飛行機は、バラバラになって深い海の底へ消え、いくつかの飛行機の破片と、いくつかの遺品が波間を漂うだけだった。
 墜落した飛行機の乗員名簿に、著名な推理小説家と、その妻の元美人女優の名があることに、世界中のマスコミは飛びついた。新聞の一面や週刊誌のトップを飾り、今までの業績や功績を書きたてた。遺された遺族である新一にも多くの取材陣が訪れたが、新一がそれを受けることはなかった。
 世間の喧騒とは裏腹に、二人の葬儀はひっそりと静かに行なわれた。弔問客も、関係者だけに絞られ、マスコミもファンもシャットアウトされた。もちろん葬儀場の外には数え切れないマスコミやファンなどが押しかけてすごい騒ぎになっていたが、そんな騒ぎも内部までは届かなかった。
 まともな遺体もなく行なわれた葬式で、喪主をつとめたのは新一だった。優作にも有希子にも、他に近しい親族はいなかった。
 黒いスーツを纏った新一は、取り乱すこともなく、弔問に訪れた人達に対応していた。その様子は冷静で、とても両親を亡くした子供のようには見えなかった。
(優作さんも有希子さんも、まだお若かったのに)
(新一君も可哀想になあ)
(しかし相続される遺産は相当なものなんだろう。工藤氏の印税もあるしな)
(喪主を立派に務めて、さすがしっかりしている)
(親が死んだっていうのに涙ひとつ見せないなんて)
(探偵なんてやっていると、人の死に慣れて、親が死んでもなんとも思わないのかね)
 口さがなく交わされる人々の無責任なささやきにも、新一は何の反応も見せなかった。眉ひとつ動かさない。その言葉が聞こえていないのか、あるいは、聞こえていても、それが新一の心をすこしでも動かすこともないのか。
 快斗や平次は、そんな新一を見ていて気が気ではなかった。新一はしっかりしているわけでも、哀しんでいないわけでもないことを知ってる。事故の報せを聞いたとき、新一がどんなに取り乱したか。
 事故の報せを聞いた直後放心していた新一は、両親の死亡が決定的になったとき、今まで見たこともないほどに取り乱した。髪を振り乱し、両親の名を呼びながら、どうしてどうしてと、床や壁を血が出るほどに殴っていた。
 嵐のようなそのひとときが過ぎ落ち着きを取り戻すと、今度は嘘のようにおとなしくなった。涙ひとつこぼすことさえない。
 今の新一は冷静なのではない。あまりの哀しみとショックに、哀しみかたさえ見失っている状態なのだ。その哀しみを、うまく外に出すことさえできずにいるのだ。
「新一。元気出してね」
 対応に追われる新一の傍へ蘭が来て、気遣うように彼の顔をのぞきこんだ。
 蘭は当然葬式に来てくれた。母親と親友だった英理と共に、いろいろな手伝いもしてくれた。だがそれを、新一はどこか遠くで見つめていた。
(違う)
 何故だか漠然と、そう思った。
 新一の中に、取り乱して誰かにすがって声をあげて泣き出したい気持ちがある。でも、蘭に取りすがって泣いても、きっとこの哀しみは癒されやしないだろう。
 蘭には分かってもらえない。この気持ちなど分からない。きっと、心優しい同情しかしてもらえないだろう。それでは駄目なのだ。蘭では駄目なのだ。
「大丈夫か。新一」
「すこし休んだほうがええんちゃうか。ここ、代わりにやっとくで」
「快斗……服部……」
 いつのまにか、快斗と平次も傍に来ていた。二人とも、とても心配そうな顔をしている。
(違う)
 また、そう思う。
 快斗も平次も、心から心配してくれていることは分かる。だが、彼らも違う。きっと、分かってはくれない。快斗なら、あるいは────いや、彼でも、きっと、無理だろう。
(だって、彼らには────)
 だから、新一は誰にもすがれなかった。哀しみを、うまく外に出すことさえできずにいた。
 今、この世界に新一はひとりきりだった。他に誰もいない。たった、ひとりきりで。
(押しつぶされる)
 哀しみに。孤独に。
(誰か、助けて)
 聞こえない声で呼びかけるのに、求めるのに、助けてくれるひとは、すがれるひとは何処にもいなくて。
 何処にも、いなくて──────。
「工藤君」
 不意に呼ばれた声に、暗闇の中に沈みかけていた新一の意識は急に引き戻された。
 顔を上げると、志保がいた。シックな喪服に身を包んでいる。
「来るのが遅くなってしまって。いろいろ手伝いできなくてごめんなさいね」
 志保は、事件の報せを聞いた直後から、情報収集やマスコミへの対応を主に引き受けてくれていた。そのためはっきり会ったのはあの日以来だった。
(ああ…………)
 志保の姿を見た瞬間、新一は、安堵にも似た気持ちを感じる。
 見つけた、と思った。やっと、泣ける場所を。すがる場所を。
 他の誰でも駄目だ。他の誰でも、この哀しみは癒されない。でも、志保なら。
 ここでなら。
「志保」
 堰きとめられていた哀しみが、タガが外れて溢れだすように、急に涙がこみ上げてきた。体が震える。喉が震える。強く握った拳の中で、爪が手のひらにきつく食い込む。
 哀しい。哀しい、哀しい! 哀しいのだ!!
 心の中身をぶつけるように、新一は人が見ているのもかまわず、志保の胸に抱きついた。
「工藤君!?」
 突然のその行動に驚いたように志保も声をあげる。
「ちょっ……新一!?」
「工藤!?」
「新一なにやって……っ」
 傍にいた蘭も平次も快斗も、新一の行動に目を丸くする。
 弔問に訪れていた多くの客も、突然のその光景に、驚いたようにざわめく。
 それでも新一は志保を抱きしめる腕を離さない、ゆるめない。彼女の腰がしなるほど強く抱きしめて、すがるようにその肩に顔を埋める。時々しゃくりあげるように肩が震えて、彼が子供のように泣いているのが分かった。
「志保。俺の傍にいてくれ。頼む。頼むから、俺の傍に……」
 うわごとのように、けれど必死に懇願する声が繰り返される。
 ついさっきまで、親の死などないかのように、冷静に弔問客の前に立っていたことなど嘘のように、彼は取り乱して泣いていた。
「何処にも行かないでくれ。俺をひとりにしないでくれ」
「……工藤君……」
 はじめは驚いて身体をこわばらせていた志保も、その様子に、抗う力を抜いた。抱きついてくる新一をそっと抱きしめ返した。幼子にするようにそっとその髪や背をなでてやる。
「……ええ、工藤君。傍にいるわ。何処にも行かない。あなたをひとりになんてしないから」
「志保、志保…………!!」
 志保を抱きしめる腕にさらに力が込められ、新一は声をあげて泣き出した。志保はそんな新一をそっと受け止め、優しくなでている。
「新一……」
「工藤……」
 蘭も快斗も平次も、その様子をただ呆然と見つめることしかできなかった。他に誰も入り込めない雰囲気が、そこにあった。
 今、新一が必要としているのは、彼女だけだ。他の誰も必要としていない。ずっと幼馴染として傍にいた蘭も、親友としてとてもとても親しかった快斗も平次も。誰も誰も、必要とされていない。志保だけだ。
「志保……志保……」
 まわりなど、もう見えてないかのように、新一はずっと志保にすがって泣いていた。抱きしめる腕の力がゆるめられることはなかった。
 あれからすでに数ヶ月経ち、飛行機事故のことも、それによって亡くなった小説家夫妻のことも、マスコミに載ることはほとんどなくなった。当事者と関係者以外の記憶からは、すでに日常にまぎれて忘れかけられているだろう。
 それでも新一は、決して志保を離そうとはしなかった。むしろ、時が経つにつれ彼女への依存度は高くなっている。もう、正常とは言いがたいくらいに。今の新一は、ひとときたりと志保から離れていられない。
 志保だけを求めて、他の何も求めない。
 そして今もずっとただ閉じこもったまま。
 彼女とふたりきりの世界に閉じこもったまま──。


 To be continued.

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