しあわせの鳥籠〜The blue bird's cage〜
3


 あの事故の日を思い出して、何処かよどんだように重い空気が部屋を満たしていた。あの日を思い出すときは、いつもそうだ。その傷跡はまだなまなましくて過去の記憶になど出来はしない。
「…………新一は、子供なんだよ」
 重い空気をそのまま放り出すように、快斗は向かいに座る平次に向かって、吐き捨てるように言った。
 リビングに、他に人影はない。錯乱した新一は、志保と共にもう一度部屋に戻った。部屋で何が起こっているかなんて、考えるだけ無駄だろう。リビングに快斗や平次がいることなど、あの2人には、窓の外の葉ずれの音くらい、どうでもいいことなのだろう。
「卓越した推理力や大人ぶった態度に皆だまされがちだけどね、精神的にはまだ幼い。それは平次にもわかってるだろ?」
「ああ……」
 その意見には、平次もうなずかざるを得ない。
 その頭脳に反比例するように、新一の精神は幼いところがあった。普通のひとは気付かなかったとしても、同じ探偵として傍にいた平次にはそれがわかっていた。
「新一は子供で、家族の存在が大きすぎた。まあその直前までコナンだったってこともあるのかもしれないけど。新一にとって家族である優作さんと有希子さんの存在は絶対だったんだよ。新一が昔、蘭ちゃんにほのかな恋心を抱いていたのだって、彼女が『家族』に近かったからだろ? まああんな幼稚なのを『恋』なんていうのも笑えるけど」
 つまらない話をするように、快斗はソファにだらしなく背を預け、天井を振り仰ぐ。幾何学模様に配列された天井は、まるでパズルのようだ。
 子供にとって『家族』、特に『親』の存在はとても大きい。親を、愛していればいるだけ。愛されていればいるだけ。雛鳥が、親鳥がいなければ生きていけないように。それがなければ生きていけないほどに。
 新一は両親から限りない愛情を注がれていた。そしてまた新一も、素直ではなかったけれど、両親を心から愛していた。そんな両親をいっぺんに亡くしてしまって、彼の精神は、それをまともに受け入れることができなかったのだろう。
 すでに巣立ちを迎えた鳥なら、親鳥がいなくてもひとりで生きていける。けれど新一は、まだ雛鳥と同じだった。
「今、新一は、誰より愛してくれた、誰より愛していた両親を亡くして、世界でひとりきりにされてしまったような不安感に襲われているんだ。その喪失感を埋めるために、今の新一には、愛してくれる、愛する相手が必要なんだ」
「俺もそれは分かるんやけど……。それでなんで宮野なんや? せやったら、もともと『家族』に近かった蘭ちゃんのほうが、よかったんちゃうんか? そら、宮野も家族を亡くしてるから、いちばん気持ち分かってもらえるとは思うけど…………」
「それもあるだろうけど」
 快斗はちいさく笑う。
 しあわせにしあわせに育った平次には、きっと分からないだろう。この、暗さをともなった感情など。

「──彼女は、ひとりだからだよ」

「ひとり?」
 その言葉の意味がわからなくて、平次は鸚鵡返しに聞き返す。
「彼女には、家族がいないから。今の新一と同じように、家族全部を亡くしていて、ひとりきりだから。同じ立場だから気持ちを分かってもらえるって意味じゃなくてね。他に何もないっていう、その状態が、新一にとって必要なんだ」
 平次には、快斗の言葉の意味がわからない。
 それはあまりにもはっきり顔に出ていて、あまりにも予想通りで、快斗はまたすこし笑ってしまう。
 だらしなくソファにもたれかけさせていた身体を起こして、平次にも分かるように、言葉を選んで話し出す。
「新一は怖いんだよ。たとえば、蘭ちゃんとか服部には、ちゃんと家族がいるだろう。もし新一が服部を選んでもね、いつかなんかあったとき、服部は家族のほうを選んじゃうんじゃないかってね。そうしたら、新一はまたひとりになってしまう。それが怖いんだよ」
「そないなこと…………」
「うん。きっとね、服部は親御さんより新一を選ぶかもしれないけど、新一にはそれが信じられないんだよ。実際に優作さんと有希子さんを亡くして、ふたりがどんなにどんなに大事だったか痛感してしまった新一にはさ。────でも彼女は違う。彼女には、もう家族は誰もいない。『家族』のほうが大事だからって理由で、新一が捨てられることは絶対無い。だから、今の新一には彼女が必要なんだ」
 快斗には、おぼえのある感情だった。
 10年前、父親が亡くなったとき。
 今まであった支えを失ってしまったように、快斗はまっすぐ立つことができなくなってしまった。精一杯向けていた自分の愛情を何処に向ければいいかわからなくて、今まで向けられていたはずの愛情が急に消えてしまって。父が死んだ哀しみもあったけれど、ひとり砂漠に置き去りにされてしまったような、心細さと不安に襲われていた。
 あのとき、同じように母親を亡くしている幼馴染の存在が、どれほど救いになっただろう。
 でもそれは、幼馴染の優しさや気遣いに救われたわけではなかった。
 自分と同じ立場の者がいる、この哀しみを味わっているのは自分だけではないのだという何処か暗い感情が、快斗を満たしていた。
 だから青子は快斗にとってある意味『特別』だった。普通の幼馴染よりも親しい関係であった。
 それでも快斗が今の新一のように壊れることがなかったのは、快斗にはまだ母がいたからだ。
 父は亡くしてしまったが、まだ母がいてくれた。母は亡くなってしまった父の分まで快斗を愛してくれた。父の死は快斗の心に傷として残りはしたが、母の優しい愛情にくるまれて、だから、快斗は多少歪みながらも、壊れることはなかった。
「──────」
 平次は快斗に返す言葉が見つからない。
 つまり今の新一は、誰の気持ちも信じていないのだ。
 たとえば今、平次が心から愛していると言ったところで、新一はそれを信じない。新一がいちばん大事だと、何があっても新一を選ぶと誓ったところで、それは新一の心まで届かないのだ。
「せやったら…………」
 それまで言葉をなくして黙っていた平次が口を開いた。
「そんなんやったら、工藤は、宮野を好きで選んだんちゃうってことか?」
 今の新一が、あれほどまでに志保を必要とするのも、求めるのも。それはただ彼女にも家族がいないという理由だけで。
 あるいは家族がいないのであれば、それは彼女でなくてもよかったのではないだろうか。
「そんなん…………」
「結局のところ、新一が蘭ちゃんに向けてたのだって恋愛感情じゃなかったじゃん。あのまま事故が起きなくて、新一と蘭ちゃんが付き合うことになってたとしたって、それは本当に『好き』だったのかどうか。そんなものだよ。恋愛なんて思い込みだし、どうしてそのひとが好きかなんて理由は、本人が納得してるならいいんじゃないの?」
「……そうかも、しれへんけど……」
 それならば、もし平次に両親がいなければ、選ばれていたのは平次だったということになる。平次が選ばれなかったのは、平次の両親は健在だからという、その理由だけで。
 新一が『好き』で志保を選んだというのなら、まだあきらめもつくが、それが家族がいるかいないかという『条件』だけで選ばれたということに、納得がいかないのだ。
 ────いや、結局のところ、これはただの嫉妬なのだ。
 どんな理由であれ、新一に選ばれた志保がうらやましいのだ。そして、選ばれなかった自分が悔しいのだ。
 想いの丈なら、他の誰にも負けない自信はある。志保にも、蘭にも、きっと負けはしないのに。けれどこの想いさえ、新一は否定するのだ。信じては、くれないのだ。
 どんなに想っても、今の新一には、それはなんの意味もないのだ。きっと、街角の街路樹が葉を落とすくらいにしか、思ってもらえない。
 こんなに哀しいことはない。
「…………工藤は…………ずっとあのままなんやろか」
「さあ、どうなんだろうね」
 どうでもいいことのように、快斗は言い放った。
 快斗のそんな態度に、平次はわずかに眉をひそめる。
「おまえは、今の工藤見て、なんとも思わへんのか?」
 この友人も、自分と同じように、工藤新一を誰より大切に想っていることを知っている。それなのに、彼が何故こんなにも、今の状況を分かっていながら放置しておくのか、平次には理解できなかった。
「俺だって、なんとも思わないわけないだろう。でも、結局のところ、新一があんな状態であるかぎり、俺達には何にもできないわけだし。できることといったら、今は待つことだけかな」
「………………」
 快斗の静かな言葉に、寄せられていた平次の眉も、力を無くして下がってゆく。
 そのとおりなのだ。今の新一には、どんなに言葉を尽くしてなぐさめたところで、それはなにひとつ彼の心に届かない。厚く冷たい壁が、すべてを阻んでしまう。平次にも快斗にも、できることなど何もない。
 できることといえば、待つだけだ。いつか、流れてゆく時が、その傷をすこしずつ癒してくれることを。厚く冷たい壁が、いつか風化されて壊れることを。どんなに永い冬も、いつか春が来るように。
 そのときにやっと、新一は、傍らにいる平次や快斗の存在に気付くだろう。差し伸べられている腕に気付くだろう。
「──────ただ」
 不意に快斗の声が落とされる。それは今までの気の抜けたような声音とは違って。何処か暗く重い影があった。
「新一は、何で志保ちゃんが必要なのか自分でも気付いていない。全部無意識なんだろうし、考える余裕もない状態なんだろうね、今は。そのなかで、ただ無我夢中で、志保ちゃんを求めてる。でも、志保ちゃんは、きっと全部気付いてる。────俺はそれが怖いんだよ」
 快斗が新一の心情を理解できたように、きっと、志保も新一の気持ちを理解しているだろう。それが、快斗には怖かった。
「なんでや。それが、あかんのか?」
 平次はまた快斗の言葉に首を傾げてしまう。
 志保が新一の精神状態に気付いているのなら、それに配慮した対応をしてくれるだろう。彼女も新一を大切に想っている。だから不用意なことをしてさらに新一を傷つけるようなことは起こらないはずだ。それは良いことのように思うのだが、違うのだろうか。
「今はね。新一の望みと志保ちゃんの望みが一致してるから」
「俺にはさっぱり分からんのやけど」
「人は一度手に入れたものを、手放したくなくなるってこと」
 快斗はそれ以上何も言わず、だから平次はその言葉の意味をそのとき知ることはできなかった。
 けれど、のちに、その意味を知った。快斗の杞憂が、正しかったことを。



「志保、志保」
 切羽詰ったような、助けを求めるような、かすれた声だけが繰り返される。
 もともとしわくちゃだったシーツは、余裕のない乱暴ともいえる新一の動きに、またさらにしわを増やして、今ではもうベッドから外れそうだ。
 乱暴に脱がされた服は、ほとんど引きちぎられるような形で、床の上に捨てられたように放り出されていた。
 まるでがむしゃらに、新一は志保を求める。その存在を、確かめるように。
「志保。ここにいてくれ。何処にも行かないでくれ」
 肌に触れるその合間に、何度も繰り返される声。それはまるで命乞いをしているかのようだ。
 いや、それは実際、命乞いと同じなのだろう。今の新一は、志保がいなければ生きていけない。引き離されたなら、その孤独できっと死んでしまう。
 新一にされるがままに体を預けながら、志保はぼんやりとその声を聞いていた。激しく自分を求める新一の言葉は、志保に麻薬のような快楽と、胸の奥底を刺すような痛みを感じさせる。
 ──志保だって、気付いていた。
 こうして何度抱き合っていても、どんなに激しく求められても、一度だって『愛している』と言われたことはない。ただ、ここにいて欲しいと、何処にも行かないでくれと、懇願するだけ。
(知っているわ)
 新一が志保を求めるのは、愛しているからではない。ただ、今の新一に必要な条件がそろっていたからだ。
 新一は、志保を愛してはいない。
 ただ必要としているだけ。
 分かっていた。でもそれでもよかった。
 新一が必要としてくれるなら。求めてくれるなら。傍にいてくれるなら。
 それだけで、しあわせだった。
「新一」
 志保は腕を伸ばして、新一を抱きしめる。やわらかな髪に頬をすりよせる。今、この特権は志保のものだ。新一は、志保のものだ。
 深く身体をつなげながら、長い腕が細い身体を絡めとる。まるで、わずかな隙間でも不安だというように。その隙間から、引き離されてしまうのではないかと怯えるように。
「志保。何処にも行かないでくれ。志保。志保」
「何処にも行かないわ。新一」
 同じだけの力で新一を抱きしめ返しながら、志保は想う。
(何処にも行かないで)
 ずっとこのまま、他の誰も何も求めないで。ただ、志保だけを求めて。このまま。ずっとこのまま。傷なんか、癒されたりしないで。
 どうか、どうか────。
 言葉に出して繰り返される新一の懇願と同じ数だけ、同じ深さだけ、あるいはもっと強く、言葉にはされずに、それは繰り返される。
 どうかこのまま、彼が何処にも行かないようにと。
 ただ自分の望みをぶつけるだけの新一は、それに気付くこともない。それは雛鳥を守る硬い卵の殻にも似て。
「何処にも行かないでくれ」
(何処にも行かないで)
 閉ざされたふたりきりの世界で、一見通じ合っているように見える互いの望みは、なにひとつ重ならないまま、雪のように積み重なってゆく。
 いつか永い冬の果てに春が来て、その冷たく硬く固められた雪をそっと溶かす、その日まで。


 To be continued.

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