しあわせの鳥籠〜The blue bird's cage〜
4


 人ひとりの影響力というのは、一体どれだけあるのだろうか。たとえば高名な探偵がひとりいなくなったからといって、世間で起こる事件の数が減るわけではない。ただ解決できない事件が増えるだけだ。それ以外、世界は何も変わらない。
「堺さん。犯人はあんたや」
 居並ぶ関係者の中から、ただひとりの容疑者を、平次は指差した。
 逃れられない証拠とともに突きつけられ、もう逃れられないと観念した犯人が、がくりとうなだれ、犯行を認めた。すぐに警官と刑事がその人物を取り囲んで連れてゆく。まわりにいた関係者達からは、『まさかこの人が』という驚愕と、『これで事件は解決した』という安堵の混じった溜息が漏らされた。多額の遺産と愛憎が絡んだ連続殺人事件。いつの時代もこんなことが耐えない。
 もう諦めているのか、犯人は抵抗することもなく静かに部屋から連れ出された。それと同時に刑事や警官達があわただしく動き出した。裏づけ捜査や取調べなど、彼らにとってはこれからが仕事だ。だが『探偵』である平次の役目は終わりだ。責務を果たし、肩の力を抜いた。
「急に呼び出してしまってすまなかったね、服部君。君がいてくれて助かったよ」
 平次の隣に目暮がやってきて、いたわるように肩を叩いた。
 今日平次は、目暮警部からの協力要請で、ある事件現場へ来ていた。新一の代わりに、というわけでもないが、平次が事件現場に呼び出されることが多くなっていた。
 かつて警視庁に偉大な貢献をしていた新一は、両親を亡くした飛行機事故以来、家に閉じこもったまま、外へは出てこない。その興味が事件へ向くこともない。
「いえ警部──俺がもっと早く犯人見つけとったら──」
 平次はうつむいてくちびるを噛む。不甲斐ない自分に対する悔しさに、拳を握り締めた。
 たしかに、犯人を見つけたのは平次の手柄だ。警察だけでは、犯人を見つけることはできなかっただろう。だが、証拠探しに手間取って、犯人を見つけるまでにも、もうひとり被害者を出してしまった。さいわい発見が早く、命は取り留めたが、『被害者』を増やしてしまったことに変わりはない。

 ──もしも、彼だったなら。彼がいたなら。

 思わずにはいられない。もしもここに新一がいたなら、もっと早くに事件は解決していたのではないだろうか。哀しい被害者をもっと減らすことができたのではないだろうか。
 自分の能力が新一に劣っていると思っているわけではない。西と東と並べて謳われたように、ライバルとして同等の力は持っていると思っている。だが、二人そろえば、それは1+1でも、100にでも1000にでもなった。
 一緒に解いた過去の事件を思い出せば、あれらはまだ彼が子供の姿のときだったけれど、お互いの知恵を出し合って、危険なときもお互いの力を合わせて乗り切った。誰よりも最高の相棒だった。
 どんな難事件だって、二人の力を合わせれば解けると思っていた。二人一緒ならば、解けない謎などこの世にないと、思えるほど。うぬぼれではなく、新一も同じことを思っていたはずだ。
 だから、大学進学を期に、平次はその活動拠点を生まれ育った大阪から、東京へと移した。大学進学のため、とか、社会勉強のため、とか、そんなことはすべて大義名分で。本当は東京に新一がいたから。それだけの理由だった。
 新一が子供の姿だろうとその考えは変わらなかったが、ちょうどタイミングを計ったように、平次が東京へ来てしばらくして、新一は元の姿を取り戻した。平次は心からそれを喜んだ。子供の姿のときは堂々と推理勝負などできなかったけれど、これからは完全に対等に事件に挑める。
 これからは東西の両名探偵がそろって、競いながら、けれど力を合わせながら、いくつもの難事件に立ち向かっていくのだと。

 ──そう思っていた矢先に、あの事故が起きて。

 今の彼はもう、外で起きるどんな事件にも見向きもしない。
『志保。志保』
 ただひとりの名だけを繰り返す、今の新一の姿が脳裏によみがえる。
 平次が愛したあの強い光を宿していたまなざしは、どこか虚ろに病的な色を帯びて。今はもう、どんな事件に向けられることもない。
 志保とふたりで、ふたりきりで、ちいさな世界に閉じこもったまま。
(工藤)
 どうして彼はここにいないのだろう。
 彼がいたなら、こんな事件くらい、すぐに解決したのに。哀しい被害者を出さずにすんだのに。もっと、『探偵』として、心を奮わせることができたのに。
 あの澄んだまなざしは、探偵であった彼は、平次が愛した『工藤新一』は、何処へ行ってしまったのだろう。
「……なあ服部君。工藤君は……」
 黙りこんでしまった平次に、警部の沈んだ声がかけられる。おそらく警部も同じことを考えていたのだろう。
 その問いに、服部は曖昧に笑ってみせる。それだけで、警部は察したようだった。なにひとつ、新一に関して事態は好転していないと。
「そうか……」
 溜息のような声が漏らされる。
「工藤君も、早く立ち直ってくれるといいんだが……」
 警部はどこか遠いまなざしになる。彼も、かつて名探偵として活躍していた頃の新一を思い出しているのだろう。教師が愛弟子を想うような優しいまなざしに、平次はかつての新一の言葉を思い出す。いつだったか笑いながら言われた言葉。あれはまだコナンだったときだろうか。
『俺が探偵やってられるのは、警部のおかげでもあるからな』
 明晰な頭脳を持ち、人の心の裏側も見えてしまう新一にとって、尊敬できる大人というのはとても少なかった。両親や隣家に住んでいた老人など、ほんの数えるほどしかいなかった。この警部は、その数少ない、新一が頭のあがらない相手のひとりだった。
 名探偵工藤新一の存在を、いち早く、そして誰よりも認めていたのは、この恰幅のいい警部だ。彼はまだ新一が『名探偵』と騒がれるまえから、その才能に気付いて認めてくれていた。
 平次のように身内に警察関係者がいるのならともかく、何のつながりもないただの高校生が事件現場にノコノコ来て事件に口出しなんてしたら、普通なら生意気なガキだと疎まれ排除されただろう。閉鎖的な警察組織などでは特にその傾向が強い。
 だが目暮警部は、新一の存在を疎むこともなく、必要なら自ら協力を求めた。新一を子供だからと莫迦にするようなこともなかった。
 当初、一部の警察関係者は、高校生などに協力を要請する目暮を、悪く言う者もいたらしい。子供の力を借りなければ事件ひとつも解決できない無能者だとか、彼の高名な父親に媚びているのではないかとか。それでもそんな声に屈することもなく、目暮は新一の探偵としての才能を認め、事件に関わらせてきた。
 そんなことの積み重ねにより、新一は誰からも認められるほどの『高校生探偵』としての名声を得たのだ。
 この警部がいなければ、新一が『高校生探偵』として名を馳せることはなかっただろう。新一が出会ったのがこの警部でなければ、その才能は潰されていたかもしれない。
 ただの高校生だった新一が『名探偵』へとなってゆくのを、傍で見守り支えていたのは、この警部だったと言ってもいい。だからこそ、彼は今の状況を誰よりも残念に思っているのだろう。
(──工藤)
 平次は心の中で、ここにいない彼に呼びかける。
 家族が大事だという新一の気持ちは分かる。それをすべて失って、どんなに新一が哀しんでいるか。ひとり暗闇の砂漠に放り出されたような、心細い気持ちになっているか。その痛みを本当に理解することはできなくても、彼が、とてもとても傷ついているのだということは分かる。────でも。
(家族じゃなくても、おまえを想っているやつはこんなにいるんやで?)
 平次や快斗や、あの幼馴染の少女や。この警部や。他にも、彼を想い心配している者はたくさんたくさんいるだろう。
 たとえば平次や快斗のような強い想いではないとしても。一番ではないとしても。
 新一が手にしていたのは、家族からの愛情だけではなかったはずだ。もちろんそれがいちばん大きかったとしても、それ以外にも、親愛や友情や信頼や、いろいろなものを手にしていたはずだ。
 けれど今の新一は、それらすべてを拒否して。向けられるどんな想いも、なにひとつ、信じなくて。
 志保とふたりきり、ちいさな城に閉じこもったまま。呼びかける声も伸ばした腕も抱えきれないほどの想いも。なにひとつ、彼へは届かない。
『俺達にできることは、待つことだけだよ』
 快斗の言葉が耳によみがえる。
 そうだ。待つしかない。いつか、時の流れが、新一を癒してくれる日を。新一が耳をふさぎつづけるかぎり、この声が届くことはないのだから。耳をふさぐその手を外すことは、誰の力でもできないのだから。いつか、時の癒しに、耳をふさぐその手がゆるむまで。
 けれど、こちらから呼びかけることは無駄ではないだろう。たとえ無駄だとしても、呼びかけ続けよう。いつか、気付いてくれるまで。
(工藤)
 彼が外の世界を見たとき、いちばんにこの声が届くように。



 工藤邸に来客はすくない。事件直後は関係者や取材陣や野次馬が押しかけ、連日すごいことになっていたが、そんな騒ぎも落ち着いた今、ここを訪れる者は限られていた。平次や快斗、そして時折かの幼馴染が来るくらいだ。
「いらっしゃい。服部君。どうしたの?」
 その数少ない客を、さらにめずらしい時間に志保は出迎えた。まだ深夜というほどではないけれど、夜も遅くなったころに平次が訪ねてきたのだ。
 新一はすでに眠っていた。まだ眠るには早い時間かもしれないが、ここではそれが普通だった。あれ以来、新一はよく眠る。この現実から逃げるように。すべてに目を閉ざすように。
「すまんな、遅うに。これな、今日俺が解決した事件の資料なんや。工藤に見せたろうと思うて」
 平次は志保に、青いファイルを差し出した。それを見て、志保はきれいな眉をひそめた。彼だって、新一の状態は分かっているだろうに。
「……新一、こういうもの、見られる状態じゃないけど」
「わかっとる。ええんや。ただ、あいつに渡しといてくれれば」
 平次の真摯な瞳に、志保はその青いファイルを受け取った。それは見た目よりもずしりと重い。あいだに大量に挟まっている写真やプリントのせいだろう。
 きっと彼は新一のために、この資料を懸命に整理したのだろう。『今日』解決した事件と言っていた。何時に解決したかなんて知らないけれど、おそらくそれから急いで、必死にこのファイルを作ったのだろう。新一のために。そして、出来上がってすぐ持ってきたのだろう。新一に早く渡したくて。──新一が、見ないだろうことを、分かっていながら。
「とりあえず、預かっておくわね」
「おおきに。あとな、目暮警部が心配してたて、言うといて」
「──分かったわ」
「遅うにすまんかったな。ほな、また来るわ」
 軽く手を挙げて、そのまま平次は帰っていった。再び夜の静寂が訪れる。
 青いファイルを手に、志保はそのまま玄関先にひとりたたずんでいた。手の中のファイルが、実際の重さ以上に重いように感じられた。それはこの中に、平次の新一への想いが込められているからだろうか。
『くどう』
 これは彼の、閉じこもっている新一への、切ないほどの呼び声。幻聴さえ聞こえそうだ。
「しーほちゃん」
 不意に明るい声が降って来た。目の前で、バサリと、白い布がひるがえる。志保は不意に現実に引き戻されて、目の前に立つ人物を見つめた。
「──あら。今日はめずらしい時間に来客が多いのね」
 そこにいたのはいつもの見慣れた快斗の姿ではなく、世間を騒がす白い怪盗だった。こんなふうに堂々と玄関前になど立って、誰かに見られたらとは思うが、用意周到な彼のことだ。まわりに誰の気配もないことくらい確認済みなのだろう。
「今日は満月じゃないわよね? それとも活動日を変えたの?」
 志保が空を見上げれば、いびつな形に欠けた月が、漆黒の空に光を落としている。月の光はだいぶ空を照らしているけれど、月下の貴公子とも形容される怪盗の活動にはまだ早い。
「うん。今日はね、下見と下準備。で、ちょっと通りかかったからご挨拶に」
 怪盗の姿のまま、けれど口調は快斗そのままに話し掛けてくる。
「そう。もう予告状は出したの、怪盗さん?」
「もう予告状は出してあるよ。新一もだけど、志保ちゃんも、もうすこしニュース見たほうがいいよ」
 快斗がちいさく苦笑する。
 たしかに、キッドの予告状がすでに出されているのなら、今頃ニュースも世間もその話題で持ちきりだろう。だがそんなことすら、志保は知らなかった。
 この閉じこもった世界に、あまり外の情報は入ってこない。
 この家にはテレビだってパソコンだってあるのだから、スイッチひとつでいろいろな情報が入ってくるだろう。
 だが、この家では、あの日以来、テレビがつけられることはほとんどない。新一が嫌がるからだ。
 あの事故の起きた日。いちばんはじめにテレビからあのニュースが入ってきたから。今も新一はテレビを怖がるのだ。そこからまた哀しい出来事が伝えられると、かたくなに信じる子供のように。
 いや。今の新一にも志保にも、『外』の情報なんていらないのだ。この家の中のちいさな世界だけが、彼らのすべてで。それ以外なんて、必要ないのだ。
「これ」
 快斗がちいさなカードを差し出す。
 それが何かなんて、遠目にもすぐ分かる。独特の模様が描かれた、キッドのメッセージカード。
「今回警察の皆さんに送ったのと同じ予告状なんだ。結構その暗号いい出来でね。新一暗号好きでしょう。新一に渡して」
「──新一は」
「うん。多分見向きもしないだろうけど、でも」
 平次に言ったのと同じことを言おうとして、さえぎられる。たしかに、そんなことは平次も快斗もいやというほど分かっているだろう。ただ、それでもと、思うだけで。
「じゃあね志保ちゃん。新一によろしく」
 鮮やかにマントを翻して、次の瞬間には快斗の姿は消えていた。
 志保の手に残ったのは、平次から渡された事件のファイルと、快斗から渡されたキッドの暗号。以前の新一なら、子供のように目を輝かせて、それらに喜んで飛びついただろう。寝る間を惜しんでファイルを読みあさり、食事することも忘れて暗号解読にかかりきりになっただろう。以前なら。
(もしも今これを新一が見たら)
 おそらくは、何の反応も返さないだろうとは思う。
 今の新一にとって、事件のファイルもキッドの予告状も、折り紙程度の意味しか持たないだろう。あるいは、その存在さえ認識されないかもしれない。新一の閉ざされた世界に『外』なんて必要ないから。志保以外、なにひとつ、求めていないから。
 ──けれどもしかしたら。万が一。
(しんいち)
 何かを恐れるように、志保はファイルとカードを胸に抱きしめた。
(どこにも、いかないで)
 平次と快斗がどんな想いでこれを渡したか知っている。新一が以前のように戻ることをどれほど望んでいるか知っている。どれほど新一を想っているか。でも。
 志保は家の中に入ると、渡されたファイルと予告状を、書斎の本棚にしまった。今の新一は本にも興味を示さないから、そこに普段新一が入ることはない。だからこれらがここにある限り、新一の目に入ることはない。
 かすかな罪悪感を感じながら、それでも志保は平次のファイルと快斗のカードを本棚へとしまった。新一の目の届かないところに。
 書斎を出ると、新一の声が聞こえた。
「志保、どこにいるんだ」
 夢遊病者が虚ろに呼ぶような、迷子の子供が頼りなく親を呼ぶような声。
「新一、ここよ」
「志保。志保」
 志保の姿を探してリビングをさまよっていた新一が、彼女の姿を見つけて駆け寄ってくる。志保をきつく抱きしめる。
「新一」
 抱きしめられるのと同じ強さで、志保も新一を抱きしめる。彼が何処へも行かないようにと。
 志保は新一を抱きしめる。
 ここは鳥籠。閉ざされた世界。
 それなら、閉じ込められているのは誰?
 閉じ込めているのは────。


 To be continued.

 続きを読む